書評 「進化的人間考」

進化的人間考

進化的人間考

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本書は長谷川眞理子による「ヒトの特殊性」についての本になる.もともとは東京大学出版会のPR誌「UP」に2010~2012年にかけて「進化的人間考」として連載されたもので,それに少子化,犯罪,進化心理学についてのいくつかの雑誌寄稿*1を加え,最新の知見等にあわせ一部改訂し,一冊にしたものだ.
 
第1章ではヒトを探究する学問についての俯瞰的な解説がなされている.もともと人間についての探求は哲学として始まり,法学,経済学,社会学,倫理学,心理学,民族学,文化人類学と広がり,片方で自然人類学がある.自然人類学は長らく化石からの考察が中心だったが近時ゲノム解析が進み生態学,行動学,神経科学を取り込んで包括的に人類進化を解明できるようになった.そしてこれらを統合できないかというのが著者が長年取り組んできたことになる.
ここから社会生物学論争,人文社会系の学問にあるヒトの科学的理解に対する反感と警戒,近時の脳活動解析やゲノム解析の進展,ヒトを理解するために進化の理解が欠かせないことなどが解説されている.
 
第2章から第6章までヒトの特殊性についてこれまでわかっていることが淡々と解説されていく(冒頭では1980年代にチンパンジーを研究し,ヒトとチンパンジーが全く違う生物であることを強く感じたという逸話が語られている.進化学者は創造論との対決からヒトとチンパンジーの連続性を必要以上に強調する傾向があるが,ヒトを理解するにはこの違いこそが重要だと力説されている).
そして特徴的な生活史(短い妊娠期間,早い離乳,長い子供期,短い繁殖期間,長い寿命),共同繁殖種であること,食性(チンパンジーに比べて肉や塊茎などの入手や下準備に手のかかる高い栄養価の食物をとるようになり共同作業が重要になった)が解説される.
 
この合間(第5章)に少子化の問題が取り上げられている.ここでは著者自身の考えが述べられている.

  • 生活史から見たヒトの特徴は産み始めが遅く,繁殖のピークも繁殖可能期間も短いことだ.
  • 先進国の少子化に一番効いている生活史パラメータは産み始めが遅くなったことであり,少子化傾向の重要な要因としては先進国となると環境が(少産少死に向く)K型に傾くからだろう.
  • 日本において1949年ごろまで高かった合計特殊出生率がそれ以降急低下したのは,上記要因に加えて,第1次ベビーブームによる人口爆発を懸念した官民挙げての「夫婦と子ども2人」キャンペーン,女性の地位や発言権の上昇(そもそもほしい子どもの数は女性の方が少ない,また男性も多くの配偶相手を獲得するより子育て投資を重視するようになる),現代女性の投資戦略が子育て投資一辺倒から,自己投資(教育,仕事,夢の実現)や配偶者選択投資に多くが振り向けられるようになったことにあるのだろう.
  • これまでのリサーチによると,先進国はどこでも,夫婦が持ちたい子どもの数も実際に持つ子どもの数も極端に2人に偏り,子どもの数と年収に相関関係がないことが示されている.通常の動物であればリソースが増えると子どもの数を増やすがヒトでそうならないのは,収入が増えると子育て投資だけではなく生活にかかるほかの投資(教育,娯楽,生活レベル)も増えるためにリニアに子育て投資に結びつかないこと,子どもを持つ主観的満足感に逓減傾向がある*2から養育可能な子どもの数より少ない子どもしか持とうとしないからだろう.
  • 日本では有配偶者に限ると結婚した夫婦が持つ子どもの数は1970年代からあまり変わっておらず,1970年代以降の日本の少子化は(生活史パラメータ的には)非婚化と晩婚化により生じていると見ることが出来る.

 
第7章から第10章にわたり性差が取り上げられている.
ここでは冒頭に「性差」についての「言説」がさまざまな感情的な議論を巻き起こすことに触れ,まず著者自身の立場を(あえて「私の偏見」として)開陳しているところが読みどころだ.これはいろいろあったところなのだろう.基本的な著者の立場は以下のようになる.

  • ヒトの生物学的性差は哺乳類,霊長類としての進化の名残としてさまざまな側面に存在し,ヒトの進化の過程でも性差を生み出す状況があった.
  • さらに文化はその性差を増幅するように働いていることが多い.文化による影響は生物学的性差と独立していると考え,ジェンダーとセックスを分離しようとする人たちがいるが,文化を可能にしている性質自体がヒトの生物学的性質であり,文化の生成や伝搬自体にヒトの生物学的性質が関与しているので,セックスとジェンダーを分けるのは難しいだろう.
  • 差異を認めることと差別を正当化することは論理的に別物だ.差別を恐れて性差を認めようとしないのは科学的に誠実ではない.

そしてこう付け加えている.なかなか味わい深い.

  • さらにいえば性差が存在することは社会と人生を魅力的にしていると私は感じる.私自身これまで性差別を実感してきたし,ジェンダー・ステレオタイプには辟易とするが,それでも男と女があることは面白いと感じ,男性性と女性性があることに魅力を感じる.だからすべてが中性的になってジェンダーが消えることが理想的だとは思わない.もっともそれは私が結局のところ「女であること」を楽しんで生きることが出来たためなのかもしれないが.

 
第7章では簡単に性淘汰理論が解説され,第8章では具体的なヒトの性差が取り上げられている.ここでは身体の大きさ,犬歯の大きさ,死亡率がまず説明される.
そこから配偶システムが取り上げられる.男性間で闘争頻度は高いが,片方で集団内では仲良しであること,狩猟採集民では一夫多妻が認められている社会が多いが,実際には一夫一妻が基本で一夫多妻になっている男性は非常に少ないこと*3,これはヒトが集団を作って互いに協力し合い共同繁殖することと密接に関連している(競争に負けた男性を繁殖から排除し,かつ協力的な関係を保つことは難しい)ことが説明されている.
 
第9章と第10章では脳,心,行動の性差が解説される.
ここでは多くの動物の行動の性差を考える際には繁殖行動のみ考察すればよいが,ヒトの場合には食料を得るためにも高度な技術を使っているために採食行動も考察する必要があることが指摘され,狩猟採集民では男性が狩猟,女性が採集という性的分業が普遍的に見られることに注意を促している.これは子どもの面倒を見ることが狩猟をエネルギー的に引き合わないものにすることから説明され,分業の結果いくつかの認知能力的な性差(3次元空間認知,物体配置記憶)が生じた可能性があることが指摘される.
続いて繁殖行動的には配偶をめぐる競争に性差があるので,攻撃性やリスク許容性に性差が生まれること,そして攻撃性やリスク許容性には文化の影響も大きいこと(ニスベットのアメリカ南部文化の研究が説明されている)が解説されている.そして最後にこうリマークされていて面白い.

  • 女性の権利が拡張され,社会進出が進んだのは,そもそもそれを抑えつけていたのが,男性に都合の良いように女性をコントロールする,男性が作り上げた文化だったからだ.しかし私たちは文化によって男性が殴り合うよりも女性が殴り合う方が心地よいと思うようになるだろうか.私はその可能性は低いように思う.

 
第11章ではヒトの際立った認知的特徴として「三項表象の理解」が解説される.ここは著者が特に重要だと考えている点であり,力が入っている.

  • 子どもが犬を見て,それを指さしてお母さんに「わんわん」というと,お母さんはその犬を見て「そうね,わんわん,可愛いね」という,それを両者とも楽しむというのが典型的な三項表象の理解場面になる.「私」と「あなた」と「外界」があり,私が外界を見て,あなたも同じ外界を見て,互いに同じ外界を見ていること(心的対象を共有していること)を知り,了解し合うということだ.
  • これは簡単そうだが,非常に高度な認知能力が必要であり(あなたが犬を見ていることを私が知っているということをあなたが知っていることを私が知っている),チンパンジーにはおそらくできない.
  • ヒトの言語進化をめぐってはさまざまな議論がある.チンパンジーに言語を教え込もうとする実験も数多く行われ,いろいろなことがわかったが,もっとも重要な発見は「チンパンジーは(何かを要求する時以外)特に話したいとは思わない」ということだと思う.彼等は「オレンジちょうだい」というようなことは表現するが,「空が青い」とか「寒い」とかの世界の描写表現をすることはない.
  • 三項表象の理解は言語進化の鍵だと考える.三項表象が理解できれば,目的を共有することが出来る.そしてさまざまな具体的抽象的概念のそれぞれの個別表象を越えた「共同幻想」を持つことが出来る*4.それがヒトを共同作業に邁進させ文明を築かせたのだろう.

 
第12章はグループ淘汰の誤りについて.ここではよくある単純なグループ淘汰誤謬ではなく,(明示的に取り上げられてはいないが)ボウルズとギンタスによる偏狭な利他主義仮説が念頭にあるようだ.最初に単純なグループ淘汰の論理とその誤謬性が簡単に解説されたあと,以下のように論じられる.

  • ヒトは三項表象を理解することにより高度な文化を持ち,内集団と外集団を区別し,集団間には強い競争関係がある.このようなヒトにおいて集団の利益のための行動や心理がグループ淘汰によって形成されるということがあったかどうかが問題になる.
  • グループ淘汰があったとするならその単位となった「集団」がどのようなものだったかを考えてみよう.確固とした進化単位として恒常的に機能しうる「集団」はなかっただろう.また内集団の結束が固くともその中の個人の利益と集団全体の利益は完全には合致しない.
  • ヒトにおいてグループ淘汰が機能したかどうかを答えるのは困難だ.ヒトは集団全体の利益を優先させることもあるし,自己利益を優先させることもある.目的のためにさまざまな他者を味方につけようとし,友人を作り,噂を集め,嘘を見抜こうとする.時にグループ淘汰が働くような状況もあっただろうが,一貫してかかったのは社会性の能力に対する個体にかかる自然淘汰圧だっただろう.
  • グループ淘汰が働いているかのように見える状況は,個体への自然淘汰によって進化した性質をもとに,ある文化状況が引き起こす創発的な現象ではないかと私は思うのであるが・・・.

最後の「のであるが・・・」という表現は著者にしては珍しく歯切れが悪い印象だ.基本的にヒトでグループ淘汰が重要であったとは思えないと言い切っても良いようにも思うが,(血縁淘汰と数理的に等価な)マルチレベル淘汰の成立条件を満たすような状況(これはかなり厳しい条件になる)が絶対になかったとまでは言い切れずに留保しているということなのかもしれない.
 
第13章は犯罪について.犯罪は「資源をめぐる競争状況にある時に,一方的に自己利益を優先させ他者に損害を与える行動」であり,行動生態学的には1つの戦略に過ぎないと考えることが出来ること,ヒトの特徴は「それが悪いこと」だという認識が通文化的にあること,そのような倫理や規範は単純に生物学的な基盤があるというわけではなく,ヒトの脳の基本的な働きが組み合わさって創発される感情に基づいているのだろうということがまず解説される.
そこから進化ゲーム,囚人のジレンマ,トリヴァースの互恵的利他,社会的ジレンマが簡単に解説され,社会的ジレンマの解決として評判と罰が有効らしいこと,ヒトという生物が本来非常に協力的であること,その基本に共感があり,特に前頭前野で処理される認知的共感が重要であることが説明される*5
続いて殺人率の性差,男性の殺人率の年齢別カーブ,日本で1990年代にそのカーブが平らになったこと*6,殺人者の多くは短期的利益を優先する割引率が高い人であること*7が説明される.
最後にヒトの特徴は互いに協力し合う大きな集団を作り協力を維持しているところであるが,血縁を越えた大きな集団で協力を維持するのは難しく,ヒトにおいても無条件でそれが成立していないこと,自分だけ得をしようとするインセンティブがあることを誰もが知るからこそそのような個体へ怒りを感じ,コストを払ってでも罰したいと欲すること*8,それによる罰が協力行動の維持に重要な働きをしていることが説明され,ゲーム理論,犯罪統計分析,進化心理学などにより犯罪がどういう時に選択されるのか,協力維持の条件は何かが研究されており,それはよい社会を設計するために役立つだろうとコメントされている
 
第14章と第15章では適応進化環境EEAが取り上げられている.
まずEEA概念を最初に提唱したのはボウルビーであり,進化心理学がそれを再発見したこと,肥満をもたらす甘味嗜好は典型的な現代環境とのミスマッチで説明されること,節約遺伝子は有力な仮説だが,単純な形での節約遺伝子は見つかっていないこと,ヒトの進化環境としては文化的ニッチが重要であることなどが解説されている.
続いてEEAについてのいくつかの議論を解説し*9,農業革命以降大きく変化したこと*10,世界の歴史はヒトが新たな文化と社会を発明するたびに結局はEEAからの逸脱が問題になってその解決を迫られるという繰り返しと見ることが出来ることが説明されている.
最後にヒトは三項表象を理解し,全体像を把握できるので,非常に複雑な感情を持つようになったことが述べられる.自分が他者より有利なことは好ましいが,他者がそれを不快に思うことも理解でき,それは自分にとって好ましくないので,あからさまな不平等は真に心地よくならない.そこで神などを持ちだして権力の正当化を図るが,それも見破られる.そして重要なことはどんな理想を実現しようとしてもEEAで快だと感じてきたこと(雑食,適度な運動と娯楽,対面のコミュニケーション,公正感,共同繁殖)についてまじめに検討することである(ただしミスマッチによる弊害もありうるのですべての欲求を満たそうとすべきでもない*11)とコメントされている.
 
第16章は言語を扱う.
まずこれまでのおさらいとして,ヒトの大繁栄にもっとも寄与しているのは蓄積的発展的文化であること,文化を可能にしたのは三項表象の理解であると考えていることが踏まえられる.ここから言語進化についてのさまざまなトピックについての著者の考えが述べられている.

  • 三項表象の理解を越えて因果関係,全体像の把握,カテゴリー化,抽象化などの認知が可能になった要因には「入れ子構造」の理解があるのではないか
  • 文化伝達の迅速性正確性には言語が重要だが,言語を可能にした要因についても三項表象の理解が重要だっただろう.ヒトの言語は単に情報を伝えるだけでなく,発信者の意図を受信者が理解していることを発信者が理解し,それを受信者も理解している,つまり「心」を共有しようとしているところに特徴があるからだ.(これは明示的には示されていないが,スコット=フィリップスの主張する「意図明示・推論コミュニケーションの重要性」の議論を支持しているということになるだろう)
  • 現在の言語にある複雑な文法構造は,まずコミュニケーションの有用性から簡単な文法が創発的に現れ,それが共有されて新たな「環境」となり,文化と遺伝子の共進化として現れたのではないか(言語進化の最初期に特別な言語遺伝子は必要なかっただろう)
  • 言語はもともと思考の道具として進化したという説があるが,コミュニケーションの道具としての機能に対しての方が(それは共同作業で成し遂げられる成果に直結するので)はるかに淘汰圧が高かっただろう.

そして最後に「意識」の問題についても触れられている.最近の研究の中ではニコラス・ハンフリーの考察が興味深いこと,直立二足歩行で鼻面が短く手でものを操作することは(自分のからだや手の動きがよく見えるので)世界を変える原因としての自己の認識に大いに寄与しただろうことがコメントされている.
 
第17章と最終第18章では著者による学問についての考えが述べられている.
 
第17章は文理統合の夢について

  • 私は進化生物学の立場から,ヒトについての自然科学系理解と人文社会科学系理解の橋渡しをしようとしてきたつもりだ.しかしそれは両分野の融合というより自然科学の領域拡大の試みに過ぎなかったのかもしれない.融合とは何か,どうなれば融合が出来たといえるのかというのは難しい.
  • 経済学は長らく合理的経済人の仮定から理論的な整合性を求める試みとして営まれてきたが,最近ではヒトが実際にどう行動するかの研究を取り入れる実験経済学や神経経済学という分野が生まれている*12.これは学問の地平が広がった良い例だと思う.
  • ヒトの理解についての文理融合はどこが難しいのか.自然科学は還元主義的で一般法則を重んじる.だから基礎的なレベルではすべてに共通する法則が成り立っている.物理学や化学の法則は生物学でも成り立っているのだ(概念的一貫性).しかし人文社会系諸科学は個別性や歴史性を重要視し,さらに「価値」の問題も扱うので,統一的な基盤をつくるのが難しい.
  • 以前「生と死」の問題について哲学者や倫理学者を一緒に議論したことがあった.ある哲学者は私の報告を聞いて「それはそれで結構だが,やはり私はそれだけで生と死の問題に解決がつくとは思わない」とコメントした.冗談じゃない.私は生物学だけで生と死の問題に解決がつくなんて最初から思っていない.文理融合が出来るとするならそれは互いに相手の研究成果を自分の研究の中にどう取り込めばいいかがわかった時だろう.
  • ヒトの本性が何なのかについてはこれからも探求が続くだろう.ヒトには向社会性の基盤があり,その意味では性善説は正しい.一方で非協力者や裏切り者は必ず存在し,協力の維持には多くの困難があることもわかっている.しかし大多数のヒトが本来非協力的だというわけではないから,(極端な)性悪説は誤りだと思う.ヒトの本性について自然科学的探求からわかってきたことをどう個別の人文社会系諸学が取り入れられるか,そして一般法則を目指す自然科学のヒトの探究が個別の人文社会系諸学の研究成果から何を学べるのか.真の文理融合によるヒトの理解はその上にあるのだろう.

 
第18章は進化心理学について

  • 進化心理学はヒトの心理学に進化生物学を取り込んで新しい理解をもたらそうとする学問だ.その背景には心理学がヒトの研究ならば生物学,特に進化生物学との概念的一貫性を持つものでなければならないという信念が存在する.そして心理学,進化生物学だけでなく脳科学,認知科学,自然人類学,行動生態学などの多くの分野の統合が必要で極めて学際的な取り組みだ.そして進化心理学は経済学,倫理学,法学,考古学,言語学にも影響を与え,これらの分野に新しい流れをもたらしている.
  • ヒトについての研究を進化生物学に統合しようとする現代的試みの代表例は1975年のEOウィルソンの「社会生物学」になる.その基礎になる生物学理論はハミルトンの研究を嚆矢とする遺伝子レベルの自然淘汰理論だ.そこでウィルソンはヒトを扱う人文社会系諸学はいずれ生物学の一分野として包含されるだろうと論じ,これに対する強い反発が社会生物学論争を招いた.論争はイデオロギー的で数々の誤解も含まれていたが,ウィルソンは確かに新しい学問の種を蒔いたといえる.
  • 進化心理学(evolutionary psychology)という名前を最初に用いたのはマイケル・ギゼリンだ.ただ彼が考えていたのは今でいう比較心理学,比較認知科学だった.心理学を進化生物学の観点を取り入れて構築し直すという意味ではじめて「進化心理学」を用いたのはデイリーとウィルソンだろう(1988年).その後1992年にバーコウ,コスミデス,トゥービーが「Adapted Mind」を編集出版し,これが進化心理学の本格的な出発点となる.ここでは明確に人文社会系諸学における概念的一貫性の欠如とその必要性が論じられている.
  • 進化心理学は,遺伝子と行動の間に行動を生み出す装置としてのヒトの心理を置く.個人がおかれている状況やとれる選択肢はさまざまで,ヒトの行動の進化においては(文脈依存的な戦略がとれるような)情報処理・意思決定アルゴリズムが形成されただろう.「心理」とはそのアルゴリズムをさす.
  • 進化心理学は仮説創出においていくつかの前提を置く:(わずか20万年の進化史しか持たず,その中でもボトルネックを持っていたことにより)ユニバーサルな「ヒトの本性」が存在するはずだ.それは自然淘汰と性淘汰により適応的につくられている.本性は心理メカニズムであり進化過程で繰り返し重要であった問題に対処するように進化したためバイアスのかかった情報処理システムであるはずだ.適応を考える上では進化環境の復元が重要だ.脳は領域ごとに分業し,作業課題ごとに異なるモジュールを持っている.
  • この仮説創出部分はそれまでの心理学にはなかったものだが,実験や観察の手法は従来の心理学が開発してきたものを用いている.

 

  • 進化心理学とは別に(心理メカニズムではなく)行動のレベルでヒトの適応を研究をしようとするのが人間行動生態学だ.狩猟採集民の観察や長い歴史的資料(ヨーロッパの教会記録,日本の宗門改帳など)から,ある文化環境で人々がどのような行動をとりそれが残した子どもの数という意味で適応的かどうかを調べる.
  • 初期のころには進化心理学と人間行動生態学のどちらの方向が正しいアプローチかという議論もあったが,現在では2つのアプローチともに多くの成果を挙げていると受け止められている.

 

  • 進化心理学は誕生してから30年あまりしかたっていない.初期のころには「ユニバーサルな本性」の探求に重きが置かれていた.これに対して「文化が違えば心理も違うはずだ」と考える文化心理学が生じ,一時はこの両者は根本的に対立するものだと考えられていた.しかしその後の進化心理学は文化についてより真摯に挑戦するようになり,文化もヒトの心理と行動を決める大きな要素だと考えるようになっている.ただしこれは文化心理学の勝ちということではなく,ヒトの本性は確かに存在するが,行動の発出においては文化環境の影響を大きく受けるということだ.現在の進化心理学はヒトは文化環境に適応的な行動をとるが基本的な心の動きとしては普遍的な反応があるという二重構造を前提にしている.
  • 以前は性差や性行動にかかる研究もたくさんあったが最近はあまり見られない.性に関連する話題は取り上げにくくなっている.ある意味研究者の興味に世相が反映された結果なのだろう.研究者の興味が社会事象と無関係ではないということはヒトを研究する場合には注意すべき問題かもしれない.
  • ヒトの脳は極めて複雑であり,それを進化過程をもとに本性を理解しさまざまな行動を統合的に理解しようとするのは壮大な試みだ.そして自然科学の概念的一貫性をもってこれに挑むアプローチは非常に魅力的だ.それが実証科学の精密さをもって積み重ねられていく限りこの分野は発展していくだろう.

 
以上が本書の内容になる.生活史,性差,認知の面でヒトがいかに特殊であるかについて基礎的な解説がなされ,所々のトピックで著者自身の考えが述べられ,最後に進化心理学とは何かについての俯瞰的な解説がある.進化心理学に興味のある人にとって非常にコンパクトにまとまった副読本としても役立つだろう.私にとっては所々の味わい深いコメントがとても楽しい一冊だった.
 
関連書籍
 
進化心理学勃興期の記念碑的論文集.

 
言語の進化を意図明示・推論コミュニケーションの重要性の観点から説明する一冊.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2022/07/08/103506
 
ニコラス・ハンフリーによる意識についての(かなり哲学的な)一冊.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20140515/1400153165
 
偏狭な利他主義仮説が提示されているボウルズとギンタスの本.私はこの仮説はかなり無理筋だと考えているが,社会科学系の研究者には支持する人々が多く影響力が大きい.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20180314/1520983936

*1:それぞれ学士会会報(2015),罪と罰(2018),臨床精神医学(2011)が初出になる

*2:この逓減傾向がなぜあるのかというのは進化的に見ると非常に面白い問題だが,著者はここには触れていない.食物などの一般的なリソースは実際に効用(適応価)が逓減するからそう感じるのが適応的だが,子どもの数は適応価的に逓減せずにリニアであるはずであり,なぜそうなっているのかは非常に興味深い

*3:富の蓄積があり男性間の不平等がある社会でも,一部の男性のみが一夫多妻となれる

*4:ここでは「何か探しているように見える人に『何かお探しですか』と聞くのは本質的にはおせっかいなのだろう.人の心は本当は計り知れないのだから.しかしそれでも大方は当たっている.相手もそう察してくれることを期待している.時にそれが外れた時に誤解が生じ,『あなたは何も分かってくれない』という恨みが生じる.この何やかやにもかかわらず,それでも共同幻想こそがヒトを共同作業に邁進させ・・・」とあってなかなか楽しい.

*5:ここで前頭前野の働きには大きな個体差があること,一部の人は先天的あるいは後天的に共感があまり生じないこと,近代の法律はすべての人が同じような理性を持つことを前提にしているがこのような人が犯罪を犯した時の責任をどう考えるべきかは難しい問題であることが触れられている

*6:コホートごとにはカーブがあるが,(社会変化により)後のコホートほど殺人率が低いので,1990年以降横断的に見ると平らになっていることが説明されている

*7:長期的に展望が描けず,今現在失うものがない人が割引率が高くなると考えられ,殺人者と一般で失業率,学歴,年収,家族の有無などを比較するとそれが支持されたこと,社会変化は社会が豊かになり教育程度が上がりそのような人が減少したことだと考えられることと説明されている

*8:そのような利他的罰がなぜ進化しえたのかというのは重要な問題だが,ここでは触れられていない

*9:EEAはひとつではない,EEAなど考える必要はないという見解に対して,基本的に重要であった環境を想定できることが述べられている

*10:富の蓄積と不平等,そして「遠い将来のために一生懸命働く」という概念がうまれたことが強調されている.また産業革命以降は個人主義と自由が人々をしがらみから解放したが,孤独と社会的孤立の問題が生じたとも指摘されている

*11:脂肪や糖分の摂りすぎ,視覚刺激に偏った娯楽,ソーシャルメディアなどが例として挙げられている

*12:ここであえて行動経済学を取り上げない理由はよく分からない.