War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その92

 
ターチンによるローマ帝国衰亡論.まず第6章で見たローマの興隆(メタエスニックフロンティアにおける帝国の興隆)の復習から始まる.第6章ではローマの興隆の要因として,ガリアとのメタエスニックフロンティアの形成,ローマの父祖の慣行や外集団取り込み姿勢に見られる行動要因が重視された.
 

第11章 車輪の中の車輪 ローマ帝国のいくつもの凋落 その3

  

  • 第6章で議論したように,ローマの最初のセキュラーサイクルは紀元前7世紀に始まり,紀元前4世紀半ばに終わった.この前半(BC500まで)が統合フェーズで,後半は分解フェーズだった.
  • ここで(次のサイクルに向けての)画期となったのはBC390のガリアによるローマ劫掠だ.これは新しいメタエスニックフロンティアの出現であり,リキニウス・セクスティウス法が制定され,ローマの政治構造が変化した.パトリキ貴族と富裕な平民層が新しいエリート階級(ノビリス)を形作った.この団結はガリアへの対抗に必要だった.そしてそれは征服地の増大ももたらした.リソースの流入は社会内の競争を緩和しアサビーヤを強化し,更なる軍事的成功につながった.そしてBC349のガリア侵入を容易に跳ね返し,イタリアの統一,さらには全地中海地方に向けた長い征服過程が始まった.

 
ここまでが第6章の復習ということになる.ここからターチンのクリオダイナミクスに則した歴史解釈となる.
 

  • この第2のセキュラーサイクルの統合フェースは例外的に長く,2世紀続き,BC140年ごろに終わった.この統合フェーズの間ローマの団結は保たれた.このフェーズが長くなった原因の1つは,時にハンニバル戦争のような苦境もあり,人口増加が抑えられたことだ.そしてもう1つの原因はローマの拡大プログラムが非常にうまくできていたということだ.征服は戦利品と貢ぎ物をもたらし,エリートの増加が階層のトップヘビー化につながらなかった.一般市民も征服の恩恵を受け,属州に入植するものも多かった.

 
この人口動態面からの解釈が第6章には見られなかったものになる.
 

  • 一般法則として征服地の拡大は統合フェーズを引き伸ばす.ローマの第3のセキュラーサイクルの統合フェーズも長く,BC27からAD180まで続いた.
  • しかしながら,セキュラーサイクルを回す社会的な力もいつか追いつく.2番目のセキュラーサイクルにおける重要な境界が越えられたのはBC203〜175年の頃だ.ローマはチザルピーナガリア(アルプス以南のガリア)を征服し,メタエスニックフロンティアがコア地域から大きく離れた.ハンニバル戦争終結(BC201)後,ローマ市民権を持つ人口は100年で倍以上になった.この人口増加と均分相続により下層の土地所有者は土地を手放さざるを得なくなり貧困化した.ローマの屋台骨を支える小規模土地所有者層が消滅したのだ.彼らの多くは土地を持たない労働者や奴隷になった.そしてごく一部が富裕層となった.
  • このローマ軍を支えるミドルクラスの減少は同時代のローマ人の目にも明らかだった.ローマはローマ市民の従軍資格を引き下げたが,結局ローマ軍に占めるローマ市民の割合は低下し,紀元前2世紀末には軍の市民と非市民の割合は1:2となった.
  • ローマは富裕層と貧困層に大きく分断された.さらに征服戦争を通じて多くの奴隷がローマに流れ込んだ.紀元前2世紀のローマではエリート層の資産と人口が大きく増加した.富の増大と「退廃的なオリエント」との接触が,ローマの富裕層にとてつもない顕示的消費を引き起こした.(一部の富裕層がどれだけ富裕だったか,どのような顕示的消費があったのかについて,キケロを引用しながら詳しく語られている)
  • 紀元前1世紀のローマ文学は当代の貴族たちが父祖の慣行を踏み外していることへの非難にあふれている.(リヴィウスなどが引用されている)
  • サルスティウスはこの状況を分析し,外敵の不在が1つの原因であることと贅沢の害悪を指摘している.
  • 外敵の不在という指摘はおおむね正しい.しかしながら,第6章で見たようにローマを形作った非文明異民族の敵はガリアだった.ハンニバル率いるカルタゴ軍がローマが興ったメタエスニックの大釜に強い圧力をかけたことは間違いないが(そしてハンニバル軍のマジョリティはガリア兵だったが),カルタゴは言語と宗教は違ってもローマと同じ地中海文明に属していた.敵がカルタゴだけだったらローマは世界帝国にはならなかっただろう.実証的な基本法則が非常に重要であることがわかるのはここだ.すべての帝国がメタエスニックフロンティアで興隆した.だからローマの興隆のキーは蛮族ガリアとのメタエスニックフロンティアだったのに違いない.この辺境が遠くに追いやられたのは紀元前2世紀の初頭にチザルピーナガリアが征服された時だ.そしてそれこそが凋落の最初の前提条件だ.
  • 贅沢の害悪については説明が必要だ.古代人は贅沢の害悪として特に活力が失われることを重視した.贅沢には物理的なものと社会的なものがある.物理的に快適にすることはそれだけで団結を阻害するわけではない.しかし社会的贅沢,つまり顕示的消費はそれを行えるものと行えないものの分断をもたらし,団結を阻害するのだ.サルスティウスの指摘は後者の意味で的確なのだ.

 
ここまでがローマの第2セキュラーサイクルの説明になる.ターチンは第2セキュラーサイクルの分解フェーズの開始をハンニバル戦争(第2次ポエニ戦争)後のBC200年ごろではなく,第3次ポエニ戦争とマケドニア戦争後のBC140年ごろとしている.
普通に語られるローマの興隆物語だと,自営農の減少を問題にしたグラックス兄弟の改革の試みがBC130年以降で,元老院派と民衆派の対立が顕著になるのはマリウスが台頭するBC100年ごろからになる.
ターチンとしてはマリウスやスッラが台頭する内乱期より少し先立って分解フェーズが始まったと見ることになる.
そしてターチンは分解フェーズをBC140年ごろに始まったとしながら,しかし最も重要な転期はメタエスニックフロンティアが消滅した紀元前2世紀初頭だとする.この辺りはややわかりにくい
さらに本章では,ハンニバル戦争についてハンニバルの地中海文明性を強調する書き振りになっているが,第6章ではハンニバル軍の主力はハンニバルに従っていたガリア兵であり,蛮族との戦争とも見ることが出来る(その終結をもってメタエスニックフロンティアがコア地域から大きく離れた)という面を強調していたはずだ.いろんな側面のどこを強調するかということだろうが,議論の趣旨がいろいろと微妙にわかりにくいという印象だ.