「ゲーム理論による社会科学の統合」

ゲーム理論による社会科学の統合 (叢書 制度を考える)

ゲーム理論による社会科学の統合 (叢書 制度を考える)


本書はNTT出版による業書「制度を考える」の一冊.著者のハーバート・ギンタスはゲーム理論家で行動科学者ということだが,多くの学際的な活動で知られる.本書もその邦題からわかるように非常に学際的な性格の強い書物であり,本書を貫くギンタスの主張は「ヒトの行動にかかる学問は,社会科学,生物学,心理学,経済学という分野ごとに分断化され,相互に相容れないモデルを使っているが,それは大変嘆かわしい状況である.そして行動科学は,ヒトを拡張された合理性を持つプレーヤーと扱い,社会規範を入れ込んだゲーム理論によって統合が可能である」というものである.原題は「Bounds of Reason」となっており,「理性の限界」という趣旨だが,それは不合理性ではなく社会性にあるのだというのが本書の結論の1つになる.


本書では序文がいきなり熱い.ギンタスは,行動科学の統合が進まない現状を憂い,もはや怖いものなしという感じで当たるを幸い切りまくる.
ギンタスにかかると,社会学者や社会心理学者がゲーム理論と合理的主体モデルを拒絶するのは,すでにテニュアを取った学者が今更これらを学習し使用する負担が大きいからだということになる.また逆にゲーム理論家たちは傲岸不遜にもこれまでの社会科学や社会心理学の事実の知見や理論の貢献を無視していると指摘し,彼等は「あらゆる問題が釘のように見える金槌を持った男」だと返す刀も厳しい.
「どうして,社会学,人類学,社会心理学という3つの異なる領域が存在しうるのだろうか?・・・これら3つの領域における基礎的な概念枠組みがほとんど何の共通性も持たないのはどうしてだろうか?」「現代の大学制度において無傷で生き残っている封建的組織や,この封建的組織を反映している研究費配分構造,および真理を追い求める競争よりは快適さや伝統に価値を置く学問間の倫理」などという表現にはギンタスの熱い思いがあふれている.


第1章では一貫した選好を持つ合理的個人を前提とした意思決定理論の重要性について議論している.ギンタスにとっては一貫した選好を持つ個人が信念について主観的事前分布をベイズ的に変更していく中で合理的に意思決定を行うという意思決定モデル(本書では信念選好制約モデル,BPCモデルと呼んでいる)は行動科学の統合の鍵を握るものであり,近時よく見られる批判に対して反論している.
ギンタスによれば,一部の論者が行う「ヒトは一貫した選好を持っていない」という批判は,条件付きの選好を一貫して持っていると考えること(例えば,お腹がすいているときとそうでないときでお菓子を食べることとダイエットを続けることの選好順序が変わるのは,空腹かどうかという条件付きの選好と考えると終始一貫していると考えることができる),様々な実行エラーが生じうることを考慮することによって引き続き有効だということになる.*1
また特に多い誤解は「合理的」という言葉の意味であり,それは単に「所得や資産を最大化」しようとすることや「利己的」である訳ではないと強調している.それは他人を思いやったり,正義を追求することを含んでいてもよい.ある個人にとっての効用関数がきちんと定義できればいいのだ.
そしてヒューリスティックスの存在がヒトの合理性の否定につながるわけではないとも力説する.カーネマンとトヴェルスキーのプロスペクト理論は,まさにそのような条件に対する効用関数をきちんと示して見せた例であるし,銀行員のフェミニスト・リンダの例は「確率」という表現についての定義が異なっているからだとしている.後者はやや強引な議論だが,一部の行動経済学者や,それの追随する人たちが合理的意思決定モデルを見下すのが我慢ならないというギンタスの思いがよくわかる.


第2章ではゲーム理論の解説がなされている.
数学的な表現で定義があり,ナッシュ均衡の基本定理,混合戦略ナッシュ均衡の解法,典型的なゲーム(指あげ,男女の争い,タカ・ハト,囚人のジレンマ)の解説,さらに相関均衡が扱われる.
詳細な解説の前に,人々がある決まった仕方でナッシュ均衡の実現から逸脱しているときは,彼等がゲームを理解していないか,私達がゲームの定式化に失敗している可能性に注意すべきだというコメントがあって面白い.本章ではさらに正しくゲームを定式化していても,古典的な混合戦略ナッシュ均衡だけでは人々の行動をうまく記述できないことを指摘し,これまでゲーム理論家が軽視してきた相関均衡が重要であると主張している.プレーヤーの外側に振り付け師がいるなら単純なナッシュ均衡より有益な結果が得られるとするなら,「社会規範」の一部はこの振り付けであると理解できるということだ.もっともこれまでも右側通行ルールなどがこのような形で説明されているのではないかと思うのだが,ギンタスはそこには触れていない.


第3章ではゲーム理論の応用である行動ゲーム理論の解説がなされる.これは実際の人間がゲームが行う状況を扱うもので,ギンタスにとっては社会科学の統合にとって重要な道具ということになる.ゲーム実験を行うことでヒトの効用関数の形を推測し,それを検証することができる.
ここでギンタスが力説しているのは,ヒトの効用関数は単に経済的利益を極大化するようになっておらず,利他的な動機を含んでいるというものだ.最後通牒ゲームにおけるヒトの振る舞いが特に最初に問題になったものとして解説されている,ここは学説史も扱われていてなかなか詳細だ.その後は具体的なケーススタディも数多く解説される.ダブル・オークション,独裁者ゲーム,条件付き利他が可能な囚人ジレンマゲーム,利他的懲罰,労働賃金と努力水準などが扱われ,ヒトに利他的な動機,報復の動機,不平等回避の動機があることや,チープトークでも大きな協調効果があること(嘘をつくことへの回避)などが示され,状況依存を条件として入れ込んだ適切な効用関数を設定してやれば,人々のゲームにおける行動は「合理的」行動として表現できることがわかる.
ギンタスはその究極的な説明として,ヒトは文化と遺伝子の共進化の産物としての効用関数を持ち,様々な状況を意識的に判断して行動するというフレームを用いている.
なおここで,ギンタスは,何故か進化心理学には反発しており*2,ボイドとリチャーソンの文化と遺伝子の共進化理論のみを用いようとし,そして無意識下で作用するモジュール的な説明を用いていない.
しかしそもそも「文化と遺伝子の共進化理論」は「進化心理学」と排他的な関係にあるわけではない.位置づけとしては前者はEEAの環境について特に詳細を考える理論であり,文化ごとに遺伝子頻度が異なっている状況を説明できる理論だということになるだろう.ここでヒトの行動科学の統合において問題になる効用関数の形状はかなりヒューマンユニバーサルなものであり,何故ヒトが経済的利益最大化とは微妙に異なる効用関数を持つかを説明したいなら,普通の進化心理学的な説明の方がフィットするだろう,つまりEEAにおける適応による複数のモジュールがユニバーサルにあるというフレームで,ギンタスが問題にしているほとんどのことは説明できるだろうと思われる.そして文化間で異なる社会規範があって,文化あるいは民族間で遺伝的な差異があるなら,文化と遺伝子の共進化理論が特に必要になるということではないだろうか.


第4章,第5章では認識ゲーム理論を扱う.これは共有知識という概念を入れ込んだときにどのような戦略が合理的になり得るかを扱うものだ.
まず最初は簡単な展開ゲーム(各プレーヤーが逐次的に手を選ぶゲーム)を考える,すると弱く支配される戦略を除去していくことにより合理化可能戦略が決まる.このような合理化可能性を共有知識として考えるとこれは認識ゲームとなる.
ギンタスはこれを推し進めるといくつかの展開型ゲームでは極端な結果になって実際の実験と一致しなくなることについて考察を重ねている.ここの記述は難解で,結局結論は示せていないようだ.私の感想としては,このような合理化可能性を後ろ向き帰納的に考えていくときに,通常は(志向姿勢の高次性と同じで)ヒトの認知の限界によりせいぜい5次か6次までしか考慮せず,特に何かショートカットで帰納推論ができない限り,共有知識を前提にした合理的な行動を行えないということではないかと思われる.


第6章は混合戦略とヒトの行動の問題を扱う.
混同戦略ナッシュ均衡においては相手が均衡における混合戦略をとっているのであれば,自分がどのような手を行っても利得は同じになる.であれば何故わざわざ混合戦略を行う必要があるのかという問題を「混合問題」と呼ぶようだ.
これは混合戦略のためのランダム化にコストがかかるという前提が含まれている.1つの解釈は純粋戦略をとっていると見破られやすいという議論だが,ギンタスはこれはゲーム理論の内側に定式化されるべきだとし,採用しない.
そしてここからかなり難解な議論が延々と繰り広げられている.社会科学統合の基礎にゲーム理論を据えるにはここは避けては通れないということなのかもしれない.私の感想は,単に相手が混合戦略をとらない可能性が少しでもあるなら(そして相手の逸脱を測定することにややコストがかかるなら),自分はわずかなコストをかけても混合戦略をとっておく方が安全だと考えればいいだけではないかというところから抜け出せなかった.


第7章は社会規範をどう扱うかということについて
ここでは相関均衡における振り付け師であるという解釈が扱われる.要するにどのように決まっていてもいいのだが,ある決まり方がデフォルトであるという共通知識(共有事前分布)があればそれを前提に合理的な行動を取ることにより,双方ともより良い結果を得られるというものだ.ここでは男女の争い,タカハトゲームが取り上げられている.


第8章では共有知識が非展開型のゲームに与える影響を取り扱う,
ここも記述は難解なのだが,2人ゲームでは,互いに相手が合理的であることと互いの期待が共有知識であればナッシュ均衡が実現するが,3人以上ではそれは十分条件ではないということをまず示す.そしてさらに議論を詰めていき,3人以上のゲームであっても,共有事前分布と予想に関する共有知識はナッシュ均衡にいたる必要条件であることを示す.つまり第4章から第8章までは共有事前分布としての社会規範の重要性を示す長い一つながりの議論だということのようだ.直感的には当たり前のような感じもあるが,これをかなり厳格に定式化して示しているところが本書のキモの部分ということだろう.
結局第3章と第8章とを合わせて,ヒトの行動科学のためには(拡張された)合理性と共有事前分布としての社会規範が重要であることを示しているということになる.


第9章から第11章までは応用編とも呼べるいくつかの議論が収められている.
第9章は,個人個人がどのようにナッシュ均衡を選ぶのかという細かな議論を扱っている.第10章は繰り返し囚人ジレンマで長期的な均衡がどう定まるかを扱っている.第11章は私的所有権(を尊重する効用関数)をゲーム理論で説明しようというものだ.いずれも難解でわかりにくい記述が続いている.第9章については批判している「伝統的精緻化基準」があまり解説されていないために本書の記述だけでは当然のことを主張しているだけのように思え,今ひとつポイントが理解できない.第10章は,かなり広い範囲で均衡が定まりうるが,結局社会規範が重要になるだろうという指摘になっている.第11章ではメイナード=スミスの非対称シグナルを使うタカハトゲームでは解析不十分で自分のモデルの方がいいと力説しているが,基本的にはメイナード=スミスのモデルが正しく解析していて,ギンタスのモデルはそれに詳細を加えただけのようにしか思えない.またここでは反所有権的均衡が何故実際に現れないのかについても延々と議論しているが,それはモデルで単純化されているわずかなコストが効いているのだと解釈すればいいだけのようにしか思えない.
この3章の難解さについては内容が高度であるので,読み手の私の力量不足ということもあるのだろうが,説明も不十分であるように思われる.


第12章は行動科学の統合についてのギンタスの見取り図を示した章になる.
ヒトの行動を扱う様々な諸科学についての大きな枠組みをギンタス流に整理していてさらに歯に衣着せぬ批判を各分野に対して行っていて面白い.なお少なくとも進化生物学についてはギンタスの理解はやや浅いのが残念だ.進化心理学を却下して文化と遺伝子の共進化理論だけに頼ろうとするのは(先ほども述べたように)いただけないし,ドーキンスの「延長された表現型」をニッチ構築の議論だと誤解しているのも気になる.進化ゲーム理論を「集団生物学」の基本理論だとしているのも誤解(あるいは誤訳)だろう.通常は進化ゲーム理論は「行動生態学」(あるいは「社会生物学」)の基本理論の1つであり,「集団遺伝学」の結論の近似的なショートカットと理解されているということではないだろうか.
統合のためには,文化と遺伝子の共進化と複雑系を考慮すべきであり,社会学から得られる社会規範と役割行動,そしてその内面化としての倫理は効用関数の形に整理されるべきであり,経済学の効用最大化は,条件付き制限付きの形に拡張すべきであり,心理学の選択モデルも効用関数の条件として整理されるべきだというのが大きな主張になっている.


本書は大変意欲的な本だが欠点もある.最大の不満はゲーム理論の本なのにもかかわらず,具体例として取り上げられる肝心のゲームの詳細がきちんと示されていない記述が散見されることだ*3.また明らかな誤植が利得表や数式の中にあって,このほかにもあるのかと思うと全ての数字や数式を疑いながら読まざるを得ず,大変フラストレーティングだ.またそれ以外にもわかりにくい記述が多く,その後の展開には不要のように思われる数学的な表記や定式化にこだわったりしていて,読者は歯ぎしりしながら読むことをたびたび強いられる.
しかしそれと同時に大変魅力的な本でもある.まず人間行動に関する多くの学問分野をギンタスが一旦自分でこなして大きなフレームワークの中に入れて解説してくれる.そしてタコツボ的な学問の状況へのまったく遠慮のない批判は読んでいて快感ですらある.そして何よりもギンタスの熱い思いが本書にはあふれている.ヒトの行動は合理的でなく一貫性がないと批判的な言辞を言い張るのは簡単だが,それではヒトの行動は分析できなくなってしまう.しかしそれをより拡張された合理性に取り込み,さらに共有知識,事前分布とベイズ推論を入れ込んでゲーム理論で解析・実験すればヒトの行動原理を検証可能な仮説モデルの形で議論できるはずなのだ.社会規範をそのような形で理解すれば人類の知識の地平は広がるのだ.時に歯ぎしりしながらも最後まで読む気にさせる迫力十分の本である.


なお本書には各章末に関連書籍に関するギンタスのアマゾンレビューが訳されて掲載されている.この書評(http://www.amazon.com/gp/cdp/member-reviews/A2U0XHQB7MMH0E/)は有名で私も時々読んでいるが,やはりずけずけと言いたいことをいう書評ぶりが大変面白い.今回訳されたものの中ではE. O. Wilsonの「On Human Nature(邦題:人間の本性について)」に関するものが出色だ.この本の前景をなす社会生物学論争の現場にいたギンタスのいつわらざる思いが綴られている.ギンタスから見るとグールドやルウォンティンたちのやり方は「ブルジョワ科学を批判したい」というイデオロギー的な動機に基づいているもので軽蔑の念しか抱かなかったとある.さもありなんというところだろう.



関連書籍


原書

The Bounds of Reason: Game Theory and the Unification of the Behavioral Sciences

The Bounds of Reason: Game Theory and the Unification of the Behavioral Sciences

*1:ここではアレのパラドクスについては後悔が生じるような現象を避ける効用を選好に入れ込むことによって解消できる,エルスバーグのパラドクスは実行エラーと解釈できると議論されている

*2:リベラルとして進化心理学には乗れないということなのだろうか.ボイドとリチャーソンの進化心理学批判が決定的だという趣旨は述べているが,その真の理由はよくわからない

*3:これは訳者あとがきにも触れられている.わかっているならば,そして5600円という定価の本であることを考えるならば,ちゃんと訳注を入れて補完しておいて欲しいと思うのは私だけだろうか?