Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong
- 作者: Marc Hauser
- 出版社/メーカー: Ecco
- 発売日: 2006/09/01
- メディア: ハードカバー
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最後はエピローグ
まず本書の主張のおさらいがある.
ヒトの道徳について言語と同じく,ユニバーサルであり本質としての道徳文法があり,そこに各文化によるパラメーターの調整がある.そしてヒトは道徳判断を自分では意識せずに本能的に行う.
このような道徳の考え方はこれまでの伝統的な考えとは異なる.
- 生物学的なものの見方は本質的に邪悪だ.すべてが決定論になり自由意思を否定する.:デネットやピンカーが論じているようにこれは誤りだ.
- もし生物学的な道徳の見方が正しいなら,道徳はDNAに書き込まれているはずだ.一つ一つの原則が塩基にコードされていることになる.:これもつじつまの合わない考え方だ.ユニバーサルな道徳文法が生得的にあるからといって,個別の嬰児殺しにかかるルールがDNAに書かれているはずがない.子供はその育った環境に合わせて最終的なルールを調整するのだ.
- 仮に道徳に何らかの生物学的な基盤があるとしても,宗教と法律によって道徳を保つことができる.このような書かれた原則は本能に基づくものより上の段階にあるのだ.:宗教を道徳と同じに見る見方は一般的だが,これは間違っている.無神論や懐疑論者にも道徳はある.信心深い人と無神論者は同じような道徳判断をするのだ.また宗教が唱える道徳は実際の道徳判断を説明できない.宗教はヒトの道徳を洗脳によって書き換えられないのだ.
次に道徳がこのようなものだとすると何が起こるのかについてふれている.
本能的になされる道徳判断はよく法律や宗教のガイドラインと衝突する.そしてこれは生命倫理,特に安楽死や中絶の問題で重要だ.まず安楽死の問題が最近米国で大騒ぎになったテリー・シャイボのケースを引きながら難しい問題であることを示す.この場合本人の意思を尊重すべき(=安楽死を認める)だというほとんどの哲学,法学,医療関係者の意見に対して宗教は真っ向から反対ということらしい.
そしてさらに作為/不作為の区別や,さらに他者に対する道徳的な義務については非常に難しい問題があると指摘している.
例題として「連邦政府は2百万ドルを,1)植物状態にある1人の病人を生かし続けることにも使えるし,2)5000人を飢餓から救うこともできる.どちらかを取ればもう片方は見殺しになるとすれば,飢餓に金を使うことはどこまで許容でき,どこまでは義務で,あるいは禁止されるのか?」という問題を提示している.
私たちの直観的な判断は作為と不作為を区別したがるし,他者へのよい行いは賞賛されるべきだが義務とは考えない傾向がある.法はよい行いを義務としないが,加害行為は止めようとする.しかし1人の病人を能動的に殺さないために5000人を見殺しにすることは正しいと考えてよいのだろうか?功利主義からこれは否定されるだろうが,私たちの本能は明確に否定するようにはなっていない.
逆にいったん安楽死を認めると,同じことは中絶,そして嬰児殺し,そして誰かを犠牲にすることを許容すること一般につながるだろう.まったく異なる道徳問題が実はパラメーターのほんの少しの差異でしかなかったりするのだから.
このような難しい問題を提示しつつハウザーは最後にこうまとめている.
道徳の科学は始まったばかりだ.そして興味深い知見が次々に得られている.言語学で生じたことを考えるなら,これから道徳は人文科学,社会科学だけの領域ではなく,自然科学もあわせて進むことになるだろう.
私は本書でロールズとともに道徳の世界を探索してきた.私はロールズと同じく,道徳については多元主義を取る.ユニバーサル文法とパラメーターというのはそう扱う一つの方法だ.そして発達の上でどのようにパラメーターが設定されているのかというのはこれからの課題になるだろう.そしていったんパラメーターがセットされてしまうと,ちょうど言語のように,私たちは他文化の道徳に困惑することがあり得ることになる.しかしその底にユニバーサルな文法があるという知識は相互理解できるという感覚を私たちに与えるのではないだろうか.
本書は一部非常に斬新な視点と問題提起を与え,一部は冗長で結論のない記述に満ちているが,根底には非常に深い問題を残しているように思う.ともあれいったん読了である.