「人間の境界はどこにあるのだろう?」


人間の境界はどこにあるのだろう?

人間の境界はどこにあるのだろう?



訳者の名前だけで買った一冊.著者は歴史家のようだ.題名からわかるように人間とは何かという定義を巡る本だ.


まず過去になされてきた「人間」の定義が,道具,言語,芸術,火の使用,文化,魂,意識とことごとく揺らいできていること,そもそも歴史的には動物と人間をそれほど峻別しない考え方が多かったことを述べ,そこから個別の論点にうつっていく.
論点は多岐にわたるが,基本的には身体の特徴や,文化の特徴が,類人猿との間で本質的な境界がないことを強調し,また進化的な考え方からは化石人類との間で連続性を認めざるを得ないことを指摘しつつ,様々な過去の考え方の変遷を取り上げている.


歴史的な考え方の変遷部分はなかなか面白い.西洋で動物と人間をはっきり分ける考え方が主流になったのは身近に霊長類がいなかったからだという論考,怪物の伝説,ピグミーが最初に知られたときの逸話,大航海時代までは黒人や奴隷に対する差別的な感覚は薄く,むしろジーブスとバーディの関係(才能ある執事とお人好しの主人)に近かったこと,高貴な野蛮人の概念,大航海時代以降の異人種に対する偏見とそれが生物学的人類の見方の中でしめる位置についての論争(多地域起源,退化などの考え方)などだ.(この中でも2003年現在,コンゴ・ピグミーの人たちが国連に対して自分たちを殺して食べる隣人から救ってくれと嘆願しているという話は衝撃的だ)


全体の取り上げ方としては,本書は類人猿との身体や文化の境界についてかなり詳しく論じているのに対して,より境界の問題が難しいと思われる胎児や障害者との境目についてはあまり記述がない.人間と類人猿の間には少なくとも量的にはかなりはっきりした差があるのに対して,胎児や障害者は連続していてより論じる価値があると思うが,そこのアンバランスはある意味残念だ.1つにはあまり面白い歴史的な考え方の変遷がないためだろうし,1つにはホットイッシューなので意見表明を控えているからなのかもしれない.
またクローンや遺伝子操作については最後に取り上げているが,かなり否定的な立場から憂いているだけ(なぜ否定的なのかについての議論もない)で,ここも物足りない.


本書の著者的な結論は「生物学的な定義,文化的な定義で人間とは何かという定義の問題は解決できない.逆にそうなりたいと願った理性的な存在になることを目指していくべきだ」というわかったようなわからないものだ.


私の評価としては本書は歴史的な部分をのぞくとあまり面白くない.人間の定義が,進化的に,遺伝子操作的に,発生的に連続的なのはある意味当たり前でそこに新しい発見はない.そこに焦点を当てた本書が,人間とは何かについてはっきり決められないという事実の周りを優柔不断にぐるぐる回っているのは仕方がないにしても,その前提とするスタンスが微妙に合わないのだ.


このしっくり来ない部分について訳者の長谷川眞理子先生は,日本文化と西洋文化の差だと訳者あとがきで述べているが,私はそれは結局道徳や人権とは何かという認識に行き着くのではないかと思う.本書では,それは本質的で絶対的な何かであり,その規準は何か客観的に決まっていないと具合が悪いという前提に沿って書かれている.しかし道徳や人権は,進化や人間の歴史の中で形作られた実践的な概念だと考えていれば,なぜそこにそれほどまでにこだわる必要があるのか理解できないし,違和感がとれないのだ.
おおむねうまくいけばいいし,逆にどのような世の中が良いのかの価値判断をまず行って,功利的な観点から人間とは何かを考えていけばいいのではないか,そんな考えを抱かせてくれた読書であった.



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原書 

So You Think You're Human? a Brief History of Humankind

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