読書中 「The Stuff of Thought」 第8章 その13

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


オンレコ,オフレコの謎と共有知識の解説をして,さらになおピンカーは間接スピーチについてもう1つ補足をする.そもそも情報は多い方がいいのかと.

そもそも言語がある理由は情報を伝えることだ.そして知識が力なら,より情報を伝えるのはよいことになるはずだ.ナイーブに考える人は,お金がある方がないより良いということと同じ理由から,知識はよりあった方が常に良いと考えるかもしれない.金が邪魔ならいつでも捨てればいい.知識も邪魔なら無視すれば良いだけではないか?


ここでピンカーが言いたいのは,よくある情報化時代への警鐘「電子メディアの発達による情報過多の弊害」や認知科学者の言う「ヒトの情報処理能力の限界」などではない.情報の種類によっては本当に知らない方がいいことがあるという話だ.ピンカーはこれを「合理的な無知のパラドックス」と呼び,間接スピーチは情報の持つ危険性を避けるためにもあるのかもしれないと示唆している.


ピンカーは最初のカテゴリーとして「それを知ることによってコントロールできない感情にとらわれることを予想するため知ることを望まないこと」をあげ,心理学者ゲルト・ギーゲレンツァーがあげた例を示している.

人々はまだ読んでない本や見てない映画のレビューを読みたがらない.それは結果を知ってしまうからだ.
バスケの試合を録画した人は,ニュースでその試合の結果を見てしまうことを恐れる.
多くの親は生まれる前に子供の性別を知ることを望まないし,中絶の多い国では秘密を明かすこと自体が犯罪になる.
子どもの父性が不確かな家庭のうちには,DNAテストを望まない家庭がある.
ハンチントン舞踏病の遺伝可能性がある人は普通それを検査することを望まない.
そして多くの人は自分が死ぬ日を知ることを望まないだろう.


最初の2つはいわゆる「ネタバレ」結果を知ってしまえば過程がつまらなくなるというもので,コントロールできない感情(そしてその感情がもたらす結果を望まない)というのとはちょっと違うような気もする.
またいずれにしても「それは私には言わないで」という状況だから,話し手は本来間接スピーチですら行うべきではない状況だろう.この場合でも直接スピーチはより厄災をもたらすわけだから,リスクがある場合には間接スピーチの方が「まし」だと言うことなのだろうか.



ピンカーがあげる次のカテゴリーは「バイアスのない判断を求められるものについて,ほんの少しの外部情報でも決定を大幅に変えてしまうもの」だ.


これの例は次のようなものだ.

陪審員は被告の犯罪歴や違法に収集された証拠から遠ざけられる.
科学者は二重盲検法を使う.
科学論文は著者を伏せた状態で匿名の査読者に回される.
入札の札は封印される.


これはわかりやすい.この場合聞き手が情報を知ることを望まないのは(不公正なことを望まない聞き手もそうかもしれないが)第三者だ.そして知らせないという設計を持つ制度の方が信頼されると言うことだ.だからこの直接的な制度目的は間接スピーチとはちょっと離れるのかもしれない.しかしその周りにいる人たちはやはり危険であれば間接スピーチの方が「まし」という状況に追い込まれるだろう.




ピンカーの次のカテゴリーは「ストレンジラブ博士のジレンマ的状況」だ.このような状況では私達の合理性は私達にとって脅威になり,無知だけがこの状況を回避できる.

人々は脅迫を受領できなければ,よりうまくやれる.だからいたずらっ子は親の目を離れた方が良く,政府の証人は監禁された方が良い.私は暴力スリが何を言ってるのか理解できなかったためにうまくやれた同僚を知っている.
秘密を知っているものはそれを知りたいものからの,ばらされたくないものからの脅迫のリスクにさらされる.だから誘拐されたものは誘拐者の顔を見ていない方が解放されやすくなる.使節は自分の安全のために重要情報には無知であるほうがよい.スパイ映画の決まり文句「それを教えることはできるが,そうすればあなたを殺さなければならなくなる」
コーディネーションゲームでは知らないプレーヤーの方が有利だ.自分にとって便利なレストランを話した直後に携帯が電池切れになった方はそのレストランでデートできる.

これとよく似た状況としてピンカーは「あることを知っているときには自分に都合の悪い質問に誠実に対応できなくなる」というジレンマをあげている.ある回答が彼を不利にし,別の回答は彼を嘘つきにし,回答拒否することはそれのみが回答者のとれる選択肢だと言うことを自白しているのに等しい.知らなければ単に「知らない」と答えられるのだ.


ピンカーはこれに起因する逸話として,本の著者ができるだけ自分の本の批評を読まないようにしていること(「あのニューヨークタイムズの厳しい批評を読みましたか?」)ハーバード大学の学長選挙では候補者はマスメディアから雲隠れすること(「学長になりたいのですか?」)などを紹介している.


このような微妙な状況では直接スピーチは特に厄災を引き起こす.無知のヴェールに包まれるために人々は間接スピーチを使うのだ.ピンカーは長いこの章の最後をこう終えている.

合理的な心は,知識を合理的に使わなければならない.そのため悪意を持ったり軽率な話し手に,それを私達に不利になるように利用されてしまうことがある.だから知識は危険であり得るのだ.
これが言語の持つ表現力を諸刃の剣にしているのだ.それは私達が知りたいことを学ばさせてくれる.しかし知りたくないことも知ってしまう.言語は単にヒトの本性が見える窓ではなく,瘘孔(fistula)なのだ.私達の内部が外部の感染源にさらされている場所だ.
人々が言葉を礼儀正しさや当てこすりやそれ以外のほのめかしに包み込んでいるのは当然なのだ.


第8章 人が行うゲーム


(6)知らないようにする:合理的な無知のパラドックス