「The Greatest Show on Earth」 第1章 単なる1つの理論なのか? その2

The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution

The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution


さてドーキンスは,ここまでで進化は事実であり,それは歴史的事実と同じ性質のものだと述べている.では何故私達は進化があったという考えを「理論」と呼ぶのか.ここに創造論者が食いつくのだ.


ドーキンスはまずTheory(理論)とは何かを見ていこうといってOED(の数多くの用法の中から)から2つの意味を引き出してくる.

  1. 事実や現象のグループを説明するためのアイデアのシステム:観察や実験によって確認された仮説であり,既知の事実と同じく受け取られる:一般法則,原則として記述される
  2. 説明として提案された仮説:単なる仮説や推測:何かについてのアイデアのセット:個人的な考え


これによると英語のTheoryの用法には単なる仮説という用法があることがわかる.
ドーキンスは,科学者がTheory of Evolutionというときには明らかに1の意味で使っているが,創造論者はこれを2の意味で使うのだと指摘する.もちろん進化理論は明らかに1の意味で理論なのだ.


日本語の「理論」だと広辞苑の定義は以下の通り.

  1. 個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性を持つ体系的知識
  2. 実践を無視した純粋な知識.この場合,一方では高尚な知識の意であるが,他方では無益という意味のこともある.
  3. ある問題についての特定の学者の見解・学説


これによると日本語の「理論」には「単なる仮説」「推測」というほど弱い意味はないようだ.(もっとも使い物にならないという含意の用法もあるようだが)英語の方が,創造論者にとっては言葉の両義性につけ込んだ攻撃(学校で創造論も教えろ)ができるということだろう.
ドーキンスはこのような両義性があるので,これから本書では1.の意味のTheoryの代わりにTheorum(定理Theoremに似せたドーキンスの造語),2.の意味のTheoryのかわりにHypothesisを使うと宣言している.このノートでは理論と仮説という用語でよいだろう.
(ここでドーキンスは定理について脇道にそれて,まだ証明されていないものは「予想」であるとしてゴールドバッハの予想を紹介し,さらにカール・セーガンの思い出にも触れている.それによるとカール・セーガンは宇宙人とコンタクトをとれると主張する人には「フェルマーの定理の簡単な証明」や「ゴールドバッハ予想の証明」について聞いてみることにしていたそうだ.)



ドーキンスはさらに哲学者からの「脅迫」についても指摘している.

影響力ある哲学者は「科学は何も証明できない」という.数学者だけは「証明」することができるが,科学者にできるのは,どんなに努力したかを示しながら反証することに失敗することだけだというのだ.この見方によると「月は太陽より小さい」と言うことも証明できないことになる.しかしこれについての圧倒的な証拠にもかかわらずこれを「事実」と呼ばないというのはこの一部の哲学者以外の人にとっては馬鹿げたことだろう.そして進化もまったく同じ状態にある.それは「パリは北半球にある」という言説と同じぐらい事実なのだ.

これも創造論者につけ込まれる隙を作るだけなので,なかなか口惜しいことなのだろう.


なおここでドーキンスは「進化は事実だ」と主張することについてちょっとした留保を付け加えている.ここは厳密に哲学的には譲歩せざるを得ないのだろう.

かつてバートランド・ラッセルは,「世界は5分前にすべての記憶と靴下の穴とともに作られた」という言説は反証することはできないといったことがあるが,そのようなどんな有神論者も信じないような創造者に関するトリックを仮定しない限り,進化は圧倒的な証拠に支えられた「事実」なのだ.

さて「進化は事実だ」というなら「事実」は何か.
FactのOEDの定義で関連するところは以下の通り.
Fact:実際に生じたこと,実際にそうである状況:確かにそうであると知られていること:権威ある証言や実際の観察により知られている真実 truth (単に推測されていることに対して):経験的データ(そこから出てきた推論と区別して)


ついでに広辞苑の「事実」の定義(一部省略)
事の真実,真実の事柄,本当にあった事柄;時間空間内に見いだされる実在的な出来事または存在(実在的であるから幻想,虚構,可能性と対立,既にあるものとして当為的なものと対立し,個体的・経験的なものであるから論理的必然性はなく,その反対を考えても矛盾しない)


ドーキンスはこれにより,「事実」だと主張するには数学的な証明は不要だ説明している.これは日常用語として当然だろう.日本語の「事実」でも大体同じ結論になるだろう.これにより観察から得られてデータとそこから注意深い推論をすることによりある事柄を「事実」であると主張することができる.(なおドーキンスはここで単なる証言がいかに当てにならないかについて脇道に入っていて面白い.サイモンズの有名なゴリラビデオにドーキンス自身も見事に引っかかったという経験があるということだ)


ドーキンスは本書においては推論を重視すると宣言する.進化は通常眼に見えないが,推論の力によって事実だと主張できるとし,大陸移動を例にあげている.そしてそれは犯罪現場に後から到着した探偵と同じだという.探偵と同じく残された証拠から何があったかを推論するというわけだ.



ここでドーキンスは仮説と理論との橋渡しを行っている.すべての理論は最初は仮説であり,証拠と推論の積み重ねで確立した理論になる.もちろんかつて認められていた理論が後にくつがえされることはあるが,すべての理論がくつがえされる可能性があるわけではないといい「太陽が地球より大きい」というのは決してくつがえされることはないだろうと主張している.このあたりは哲学者からは突っ込みどころがあるような気もするが,いずれにせよ現時点では進化がなかったということになる可能性はないと信じてもよいほど証拠が圧倒的であるということだろう.


最後にダーウィンについてコメントがある.

生物学者は,進化の事実(生物は共通祖先を持つ)とそれを進めたメカニズム(自然淘汰など)を区別する.しかしダーウィン自身はこれは両方とも推論であり仮説だと考えていた.当時進化自体についても自然淘汰についても現在ほどの証拠の積み重ねはなかったからだ.現在前者の進化の事実についてはもはやそれを否定することは不可能である.メカニズムについては自然淘汰がどこまで主要な力だったのかについて議論の対象になる.
ダーウィンは自伝でマルサスを読んで自然淘汰について閃いたと書いている,そのとき自然淘汰は正しいかもしれないし間違っているかもしれない1つの仮説だったのだ.
ダーウィン1838年には進化そのものについても同じように考えていた.1859年「種の起源」を書いたときには,進化そのものについては十分な証拠を集めていた.しかし自然淘汰についてはまだ仮説だった.ダーウィンの多くの本はこの後者を仮説から理論に上昇させるためのものだ.今日まともな科学者で自然淘汰が,唯一の力ではないにしても,主要な力であることに疑念を抱くものはいない.今日適応的な進化について自然淘汰に代わる説明を提出できているものはいないのだ.

先日の講演からすると最後のフレーズに斎藤成也先生がかちんときているかもしれない.


ともあれ第1章のドーキンスの主張は明らかだ.「進化が事実である」というのは「古代ローマ帝国は実在した」「ホロコーストは実際にあった」「パリは北半球にある」「太陽は月より大きい」という言説と同じぐらい真実であり,本書は何故そういえるのかの証拠と推論の道筋を示していこうというものだという宣言なのだ.