「ダーウィン生誕200年 その歴史的・現代的意義」その2

 
日本学術会議主催公開講演会 (続き)
shorebird2009-12-08
 

日本学術会議のダーウィン生誕200周年記念講演会.第1部,第2部は科学史家からダーウィンの業績とその社会.思想への影響についてのプレゼンだった.
第3部では総合討論がなされる.その前に科学史家ではないプレゼンターからのコメントがある.



第3部 討論「ダーウィンの現代的意義」


1)長谷川 眞理子(総合研究大学院大学教授): 進化生物学の立場から


まずは日本進化学会会長の長谷川眞理子から.長谷川先生は一昨日から風邪をお召しということで,「昨年のプレダーウィンイヤーから2年間走り続けて,ダーウィンイヤー関連行事はこれが最後なので,何としても出席しなければと,手の平いっぱいの錠剤を飲み,栄養ドリンクも飲んできました」と挨拶. (一日も早い御快癒をお祈り申し上げます)


コメントの内容は以下の通り

  • ダーウィンの流れを受けたその後の展開(メンデル遺伝学との融合である総合説の確立後という趣旨だろうと思われる)ということで,ワトソンとクリックによる遺伝子の発見と木村資生による中立説の確立があげられる.
  • そしてこの知見を得て振り返ってみると,まずダーウィンは遺伝子の正体については何も知らなかったが,観察される事実から理論を組み立て,そしてそれが基本的に正しかったということは素晴らしいことだ.
  • 中立説について:ダーウィンはありとあらゆることを考え抜いていたためにはっきりわかっていなければどのような主張も排除せずに,様々なことを論じている.そしてその中には中立説的な原理について言及している部分もある,もしダーウィンが中立説を聞いたら大変喜ぶだろう.
  • ダーウィンは遺伝子の正体がわからなかったために,表現型を徹底的に調べ考え抜いている.その中には,ビーグル号航海で見たフエゴ島人,オランウータン,子供の発達などの観察が含まれている.そして広範な分野(発生学,人類学,脳神経科学,植物学・・・・)について学問の種をまく業績をあげたと評価できる.現在では学問が(特に遺伝子周りについて)大変細分化されていて,このような業績を1人で上げることは不可能になっていると言えるだろう.


2年間様々なところでダーウィン関連の講演を行ってきて,その最後を締める回顧的なプレゼンだった.



2)山田 格(国立科学博物館): 自然史博物館の立場から


ダーウィン展の企画にかかわったということで登場.のっけから,ほかの講演者の方々はそれぞれダーウィンに関する第一人者ですが,私はそうではありませんと謙遜.
ダーウィン展を主催しながら感じたことというとりとめのない内容で,それでもなかなか和ませるプレゼンだった.このプレゼンでも,後の討論でもぼそぼそっと面白いコメントが多くて楽しかった.一番受けていたのは,「フランスのパリの自然史博物館の前庭にはラマルクの銅像があるが,そこには『進化というドクトリンを創造した人』と刻まれていて,その『周知であることを認めない』ところがいかにもフランス的だ」というコメント.
プレゼンの基調は,当時の人々は進化があっただろうということに極めて肉薄していたにもかかわらず,何故ダーウィンとウォレスだけがそこまでたどり着けたのだろうかという感想.特に「相同」を深く考察していたオーウェンが進化を何故否定するのかよくわからないと感慨深く語った.



3)渡辺 政隆(科学技術政策研究所): 科学ジャーナリズムの立場から


最後はジャーナリズムを代表して渡辺政隆のプレゼン.進化ということについてのリテラシーが主題.

日米欧の進化リテラシーを棒グラフで示していて,確かに「生物進化があったと」いうこと自体の受容度はアメリカより日本の方が高いが,後はお寒い限りという指摘が印象的.「ヒトと恐竜が共存していたかどうか」,「性決定遺伝子の知識」などは,あのアメリカより低いという.ヒトと恐竜の共存はドーキンスなどもよく取り上げる定番だけに結構ショッキングだ.

次の話題は「進化=進歩」という誤解について.一般的にスポーツ選手の成長や,ポケモンの変態に「進化」という言葉が使われて「進化=進歩」というイメージが深く浸透してしまっている.これについて渡辺は,スポーツ選手などの成長や,工業製品の改良を「進化」と呼ぶのはもはや日本語の用法としてある程度定着してしまったのだろうという諦観的な意見だった.
次は「遺伝子」本の出版のグラフ.これによると遺伝子本の急増に最も大きな要因として効いているのは「クローン羊ドリー」のようであって,ドーキンスはあまり影響を与えていないらしい.
次は自ら訳したリチャード・フォーティの「40億年生命全史」の読者カードの年齢分布について.その最頻値が62歳であることから日本での一般向けの科学書の読者層はそういうものだと説明していたが,ある人が読者カードをわざわざ出すことについては年齢の効果が当然にあるような気がして(結局引退したような人は読者カードを出しやすいだろう),ほかのジャンルの本のデータと比較しなければ何も言えないのではないかという感想.
最後はプロジェクトスティーブについて紹介していたが,集めている『スティーブ』は科学者限定ということが説明されていなくて,肝心の「創造論者がいかに創造論を支持する科学者をほんの一握り見つけたからといって,進化を認める『科学者』はスティーブという名前に限ってみてもこんなにいるのだ」というメッセージが十分伝わっていなかったのではないだろうか.聴衆にはこのエスプリが伝わらなかったのではないかとちょっと残念であった.



これは会場展示の様々な「種の起源」左から復刻版,第4版,第6版(途中から題名からon the(について)がとれていることがわかる)




総合討論


司会:佐倉統(東京大学)



まずこの第3部のプレゼンに対して科学史家から何かコメントがありますかという問いかけから始まる.


<オーウェンの進化へのスタンス>


最初に松永が,「科学史家としてこれだけははっきりさせておきたい」と発言し,山田の発言に対して,「オーウェンは自然淘汰については強硬にダーウィンに反対していたが,進化については一度も反対したことはなく,進化論者といってよい」と指摘.ダーウィンへの反対は「俺の方がえらいのに先を越された」という私怨に発しているのではないかと付け加えた.


<ダーウィンは差別的だったのか>


次に富山が,長谷川のダーウィンの表現型観察例についてコメントしたいと参加.まず言語発達についてオランウータンからヒトが進化したと主張した18世紀スコットランドの学者がいたことを指摘.(これは何を指摘したかったのかよくわからなかった)
そこからフエゴ島人の有名なエピソードを補足として説明した後,「ダーウィンは確かに奴隷制度には反対だったが,時折非常に差別的であり,Descentにおける最後の文章などは非常に不快だ」と,敢然とヒール役を買って出た.
また「遺伝」という言葉はinheritanceが使われているが,これは当時の英国では「財産継承」を指す言葉であり,これがダーウィンにどう影響を与えたのかに興味を持っていて今後調べてみたいと付け加えた.(これが何故そんなに興味深いと考えるのかはよくわからなかった.少なくともダーウィンにたいした影響は与えていないのではないだろうか.当時の読者が何らかの影響を受けたかもしれないので調べたいという趣旨だったのかもしれない)


当然このヒール発言には長谷川が反応して,まずDescent「人間の進化と性淘汰」を訳したときには背景がわからなかったのでこの本の構成が謎だったが,その後背景がわかり,当時のパズルのピースを全部そろえようとしたのだと理解できたという話を振ってから,確かにダーウィンは現代の政治的な背景では差別的とされる用語を使っているが,しかし最後まで読むと,結局ヒトはすべて同じだといっており,非常に博愛的だと思うと反論.


富山は,本人はともかく,Descentを読んだ当時の読者はどう読むだろうかと考えるとそこは否定的だといい,ダーウィンは「フエゴ島人は食人する」という記述を行っているが,結局それはウソであったことがほぼわかっていると追加.(渡辺はOriginの訳者として,確かに「フエゴ島人は役に立つイヌは食べずにばあさんを食べる」と書いてある,これはジェレミー・ボタンに聞いたら否定しなかったのでそう考えたということだろうと補足)


この話題は一旦収まるが,後でまたExpression「感情」の話になり,富山は,ダーウィンが,感情を抑える理性の説明に,動物,子供の次に野蛮人,精神障害者を例にあげており,非常にいやだと発言.ここでは小川が,それは感情をコントロールできる段階を説明しようとしている部分において素直に感情がでることに段階があると説明しているだけで,差別的な意図はないと反論.「ヒール」富山vs「ダーウィン派」長谷川,小川でしばらくやりとりがあった.最終的には富山がダーウィンその人ではなく読んだ人への影響というところに撤退して収束した.


「ダーウィンが差別的だったか,あるいはそのような影響を読者に与えたか」という論点については,私は圧倒的に長谷川・小川支持であり,以下のように思う.

  • 富山の評価は,20世紀後半の,文化相対主義の影響を受けた社会科学者の「政治的正しさ」基準によるもので,19世紀に生きたダーウィンの評価として公正とは到底言い難い.
  • また当時の読者に与えた影響を考えても,あの表現は当時としては極めて普通(あるいはより反差別的)であったのではないか.そもそも,デズモンドとムーアを信じるならば奴隷制反対の機運を支援しようという意図を持ったDescentが,差別的なメッセージを当時の読者に与えるように書かれるということ自体信じがたい.あえてそう主張するというなら当時のほかの書物の表現と比べて議論すべきであろう.
  • ダーウィンを素直に読めば,人種間に本質的な差がないと考えていたことは明らかである.Descentの最後の文章は,本質的に同じ人間であるにもかかわらずフェゴ島民の振る舞いについて衝撃を受けたことを記している.これはヒトと動物との連続性を強調しようとしているのであって,だから彼等がヒトとして劣っているのだと主張しているわけではない.彼等の道徳を非難しているに過ぎない.確かにダーウィンはフェゴ島民の文化より大英帝国の文化の方が優れていると思っており,いわゆる「文化相対主義者」ではない.しかしこれをもって「不快」だと評価するのはあまりにも文化相対主義中心的ではないだろうか.
  • 「感情」の当該個所についてはあまり記憶がない(もう一度読んでみなければ).しかしあの本の全体のメッセージもヒューマンユニバーサルの主張であり,決して差別を正当化しようとしているようなものではない.(私の読書ノートはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061216
  • 人種以外について.ダーウィンは大人と子供,男性と女性,正常者と障害者で様々な能力に差があると思っていた.これはある意味当然だろう.しかしだから差別が正当化されるという主張はしていない.能力に差があるという記述をもって「差別的」だというのは納得できない.
  • 現代基準で見て微妙なのは男女の認知能力差の問題で,ダーウィンの認識の一部(男性の方が合理的思考能力がある等)は確かに当時の常識に流される形で誤っているが,逆に女性の方が優れていると思われる点も列挙しているし,いずれにしても「差別的」な主張をしているわけではない.
  • あえていえば,「ダーウィンにはそのような意図はなかったが,当時の読者層には人種的偏見を植え付ける結果になった」という主張なら成り立ちうるかもしれない.しかしデズモンドやムーアの主張するようなダーウィンの意図からいえば,ダーウィンの本は当時のスタンダードより進歩的な書物であったはずであり,そのような本がより悪い結果を産んだというのは納得しがたい.むしろよい方向に導いたのではと推定すべきではないだろうか.いずれにしても悪い影響を与えたと主張するなら,当時の受け止め方やほかの本の表現との比較など何らかの裏付けの提示が必要だろう.


これは東大図書館蔵の「感情」の一ページ




<進化についての日本での受容>


横山から「日本ではそもそも何も考えていないからアメリカや韓国のような議論にならないのではないか」という池内了の意見が紹介されて議論が始まる.
渡辺は,アメリカとヨーロッパの状況(英国でもマルチカルチャーでイスラム教徒と進化の問題が生じているというドーキンスの認識を紹介)を概観した後に,日本では最近ダーウィンに人気が出てきた(ダーウィン展は盛況だった)のは長谷川先生の奮闘の影響でしょうとヨイショ.そもそも日本ではラマルクの人気が高く,途中でルイセンコの受容という現象もあってダーウィンは最後にとっておかれたのではないかとお茶目っぽくコメント.
長谷川は進化が浸透していないのは学校教育で教えられないからだと指摘.アメリカで騒いでいるのは,IDを併記するかどうかであって,進化自体は教科書にあるが,日本はそもそも進化が教科書にあまり出てこない.高校課程の生物Iではほとんど登場せずに,全高校生の1%しかとらない生物IIで始めて出てくるということになってしまっている.どうしてこんなことになってしまったのでしょうとコメント
渡辺は,日本では理学部の動物学教室が長らく進化などを研究してはいけないという雰囲気があったし,古生物学は政治的に微妙な状況が長く続いたし,地質学は鉱山会社御用達の実学という位置づけだったことが背景にあるのではないかと指摘.


古生物学の政治的ムニャムニャというのは何となく興味深い.パネラーではなかったが溝口からそもそもNHKのあの番組は何故「ダーウィンが来た」なんだという発言が出て会場を沸かせていた.




ここからは会場からの質問に答えるという形になる.


<ダーウィンと宗教>
会場からはダーウィンと宗教について,またGod Delusionのドーキンスの神の不存在証明は成功したと言えるのかと質問.
松永:当時の英国の主流はペイリーの自然神学で,ダーウィンもここから出発している.最初のノートでは,自然淘汰は神による淘汰というイメージが強く,それが徐々に神が薄くなっていった.
富山:当時の英国の宗教事情について,全体に大きく世俗的に動いていた時期でもあり,どこまで人々が真剣に信じていたのかについては微妙な部分がある.ダーウィンの個人的な信仰がどう変わっていったのかについてもはっきりとはわからない,それは社会的な体面,奥様との関係などいろいろな要素があったのだろう.


ここで司会の佐倉先生はドーキンスについての質問には華麗にスルー.


これは宗教がらみで結構地雷的だし,そもそも「成功」とは何かとか議論し出すと泥沼的だったのでうまくスルーしたということだろう.「神がほとんど間違いなく不存在だ」というのは,ほとんどの日本人にとっては自明で,本来の読者層である欧米の一般人にとってどうかという評価を日本人が行うのは難しいだろう.そもそもドーキンスのあの本の意図は,「内心そう思っている無神論者にカミングアウトしてもらうきっかけを作りたい」ということだから,その意味では十分な内容ではないかと思う.


<evolutionという用語,「進化」という訳語の起源>
松永:evolutionというのは巻物を開くという意味の一般用語で,生物学でも受精卵の発生などで使われており,そちらの方が本義だった,進化の意味で使われるようになるのはスペンサーが何でもかんでもevolutionを使うようになって一般に受け入れられ,ダーウィンも途中から(渡辺からOriginでは第5版からと補足)使うようになった.

evolutionは「進化」という意味と「進化理論」という意味の両義があり,英語のネイティブは両方に使う,訳す場合には文脈により訳し分けるのが適切.

「進化」は1878井上が訳したのが最初とされている.



<何故当初メンデル遺伝とダーウィンの理論は矛盾すると考えられたのか>
長谷川:現在から見ると確かに不思議.メンデル理論が再発見された時には大突然変異が注目されていて,このようなことが可能なら,そもそも小さな変異の積み重ねというダーウィンのような議論は不要だと考えられたということらしい.


<メンデルはダーウィンについてどう考えていたのか>
矢島:メンデルがダーウィンのファンであったのは間違いない.ダーウィンに自分の論文を送ったとかダーウィンが読まなかったとかいうのはいろいろな神話がある.少なくともメンデルが当時最も読んで欲しいと考えて論文を送ったネーゲルからは「そんなにうまい結果が出るはずがないからもっと調べるように」というコメントしかもらえなかったようだ.


<日本で進化=進歩という誤解があるのは,事実と価値が混同されているということか>
佐倉:昔は事実と価値は平然とごちゃ混ぜで議論されていた.ムーアが自然主義的誤謬ということを言い出して整然と区別されるようになったのは最近のこと.
山田:関連して日本でよくある誤解は「進化」の反対語が「退化」だというもの.これは結構大きな理解の障害になっている.
渡辺:誤解には2種類あって,まず成長や変態について「進化」といってしまうもの.これはもはや日本語の用法として定着してしまっているということではないかと思う.もうひとつは「生き残ったものは優れていたのだ」というまさに価値にかかるもの.しかしどうすれば誤解が是正できるかというのは難しい.


このあたりは学校教育しかないでしょうという感想.まず中学生物と高校の生物I で教えるべき内容だということを皆様に理解していただくしかないのだろう.


<ダーウィンは大筋で正しかったという説明だったが,では何が間違っていたのか>

長谷川:大筋で正しいというのは,「個体変異があり,生存競争があり,変異により生存率に差があり,それが遺伝するという前提があれば,自然淘汰が生じる」というその論理展開が正しかったということを説明したかったということ.さらに様々な詳細についていろいろと説明しようとしているところには正しかったことや結果的に間違っているところがある.
松永:ダーウィンはそれまであった「種を保つもの」という説明を「種を変えるもの」として書き換えた.また当初は環境が変わったときに変わるという説明だったが,後には環境が不変でも生物間相互の作用で進化が生じるという考えに変わっている.




大体このあたりで時間となりお開きになった.科学史家のお話がたくさん聞けたのは楽しかったし,会場のトリビアな質問に間髪入れずに回答が出てくるあたりはまさに博覧強記でプロの歴史家のすごみの片鱗を見た思いだった.会場の展示も貴重なものでありがたかった.


というわけで私のダーウィンイヤーイベントはこれで終了の予定である.なかなか楽しい1年であった.来年からはいくぶんか寂しくなることだろう.




これはダーウィンの転成ノートの翻刻版.

開いてみたところ

このような展示もあった