「The Better Angels of Our Nature」 第7章 権利革命 その7  

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined


権利革命による暴力減少,人種,女性,子供,同性愛と進み,最後は動物の権利だ.


V 動物の権利と動物虐待の現象


ここはピンカーの告白から始まっている.

1975年当時動物実験のラボでバイトをしていて,ラットに電気刺激にレバーを押す学習をさせていた.通常一晩中放置しておくと,10秒ごとの刺激を避けるようにレバーを押すことを覚えるのだが,ある日学習できずに一晩中刺激され続けて死んだ個体が生じた.
教授は全く意に介さず,またこれは当時の通常の手続きだった.


しかしこのようなことはわずか5年で大きく変わった.
1980年,動物取扱使用委員会の許可なく動物実験はできなくなった.そして様々なルールが設けられ,動物実験倫理のトレーニングコースの必修化などがなされた.
リサーチャーの意識も大きく変わった.今日,動物の苦しみに無関心なリサーチャーがいれば,それは仲間から軽蔑されるだろう.


ピンカーは動物の権利に対する意識の高まりも権利革命の1つだが,この運動はこれまでの権利革命と違ってユニークな点があると指摘する.

  • 変化は意識あるものを苦しめるべきではないという倫理の面からのみ生じた
  • 被害者による運動なし
  • 互恵などの利益もどこにもなかった.


確かにこの「動物の権利」は被害者が人ではないのでかなり異質だ.ピンカーは進化的な議論について以下のようにまとめている.

  • 私たちは動物を殺して肉を食べるように進化した.これは脳の大きさや社会性に大きく関連している,肉食は互恵的取引,地位,男女の絆,セックスの機会などにからむ.
  • その肉の持ち主の幸福についてはプライオリティが低かったのはむしろ当然.(血縁ではない,互恵的な利益もない,共感を呼び覚ますような顔を持つ動物は少ない)だから狩猟し尽くしたり,入手した動物を好きに扱ったりする.
  • 生きたまま料理するのは珍しくない.
  • 狩猟採集民は概して動物には残酷(文化人類学者の述懐:可愛い赤ちゃん動物を「買わないと殺す」といって売りつけられる,森の奥で放してもまた捕まって,また買い取らされる)


<動物虐待の歴史>


この異質性のためか虐待減少の歴史も,その動機や歴史が他の権利革命とは少し異なっている.ピンカーはかなり丁寧に歴史を追う.


初期の文明


近代哲学も動物の権利には冷淡に始まった.

  • デカルト:魂の身体の二元論,言語のない動物には魂がない,だから痛みも苦しみも感じない.(これは現代の認知科学からすると明白な誤謬:脳の電気化学活動と離れた魂はないし,言語も脳の活動にすぎない)
  • いずれにせよデカルトは動物のどんな取扱も是とした.


農場の残虐な取り扱いは古くからある.

  • 去勢,焼きごて,鞭,
  • テンダリング,風味をよくするためには何でもする(フォアグラ,ミルクフェッドヴィール)


動物の苦しみには全く無関心

  • 釣り針,銛,漁網
  • 轡,鞭,拍車,頚城,重荷
  • 捕鯨
  • 動物の残酷ショウ


いくつか抑制に向けた力もあったが,いずれも共感とは無縁の理由付だった.


(1)ベジタリアン

  • 清濁と善悪の混同:肉はきたなくて享楽的だから悪.植物は清くて禁欲的だから善
  • 本質主義:あなたはあなたの食べたものになる;死体の摂取,汚染的連想
  • ロマン的イデオロギー 楽園の連想,動物は堕落の象徴


(2)敵対グループの動物の取り扱いを非難


(3)その他
ユダヤの戒律

  • プロによるナイフでの屠殺:同情的というより効率
  • 乳と山羊肉を混ぜない:動物の苦しみとは無関係

ピタゴラス派の菜食主義

  • 汚い動物の魂に汚染されるのを恐れた

ヒンズーの菜食主義

  • 輪廻の思想
  • 牛は乳,荷役,糞の方に価値があった
  • のちに仏教やジャイナ教に受け継がれるが,ここにはやや非暴力的な思想もある.

菜食主義が平和主義に繋がらない強烈な反例:ナチの取扱

  • ヒトラーや高官はベジタリアンだった.清いものへの愛好,土地との絆,ユダヤ嫌い
  • 実験や農場での動物取扱について先進的な法律ををつくっている.


倫理的な考察


初期の考察はルネサンスにもある(エラスムス,モンターニュ)が,真に議論されるようになるのは18世紀以降.

  • 科学的にデカルトの主張が否定された.
  • ベンサム:言語能力や知性ではなく,苦しむかどうかが問題にされるべきだ


19世紀に人道主義は人からそれ以外の意識あるものにも広がり始める.

  • 動物を殺すスポーツ,荷役動物の福祉,農場の取り扱いが問題にされた.
  • 1821 英国で馬の酷使の禁ずる法律ができる.20年で犬猫に
  • 19世紀には人道主義ロマン主義から動物愛護運動が盛んになる.進化の受容も関連する.


しかし20世紀になって一時下火に

  • 2度の大戦で肉の不足,農場からの供給増加は喜ばれた.
  • 行動主義の隆盛:動物の感受性については擬人主義と批判された.
  • 動物愛護運動はイメージダウン.ナイーブで偽善的な少しおばかな運動というイメージに


70年代以降の「動物の権利」運動


1975 ピーター・シンガーの「動物の解放」

  • 知性ではなく意識が問題にされるべきだ.
  • 避けられる苦しみは避けるべきだ.
  • 種で区別するのは種差別だ.
  • 子供や精神障害者と動物の取り扱いは同じであるべきだ.
  • 肉食をやめ菜食になるべきだ.ヒトは肉食が自然という言い分は倫理的に意味がない.


70年代に菜食主義は,平和主義や社会主義や性の解放やフェミニズムと同じ「いいもの」だった.
この菜食主義の主張はその他の議論と結びついた

  • 穀物を作って動物を太らせるのはエネルギーの無駄
  • 農場は環境汚染源
  • メタンは温暖化ガス


そして西洋世界は少しずつ動物の虐待について不寛容になっていった.


(1)ラボでの取扱,生物の授業での解剖,商品の安全テスト:cruelty freeラベル


(2)血のスポーツの禁止の動き

  • キツネ狩り2005年廃止
  • 全米最後の闘鶏合法州ルイジアナで違法に転換
  • スペインですら闘牛廃止の動き:2004バルセロナ,2010カタロニア全域での中止.生中継は子供への規制を満たせず中止.EU議会廃止を要望.闘牛士への尊敬,憧れも減退傾向,観衆は高齢化
  • ハンティング:アメリカではハンティング人口減少(ウォッチング人口は増加)高齢化
  • 釣り:キャッチアンドリリースから,空中にあげる前にリリースへ.さらに釣り針のないフライフィッシング(当たりだけを楽しむ)


(3)映画,CMなどでのNo Animals are harmedの表示


(4)肉食

動物権利運動の片方で,ブロイラーチキン革命が進行し全体での動物の苦しみはその部分では激しく上昇した.(ヘルシーイメージなど)しかしこの潮流も変わり始めている.


(5)その他

  • 農場の取扱:炭酸ガスによるチキン屠殺装置の普及
  • 多くの人が動物虐待禁止の法制化に賛成:英国で80%の人が残虐行為の禁止に賛成.米国では何らかの規制に賛成の人が96%,厳しい規制に賛成の人が62%.スイスでは厳しい法制化が実現


<動物の権利の限界>


この動物の権利運動はどこまで行くのだろうか.
ピンカーは「肉食の禁止や生物実験禁止も可能性なしとはしないが,近未来では難しいだろう」とコメントしている.そして難しい理由についてハーツォグの理由付けを挙げている

  1. 肉食への欲望:ベジタリアンがあまり増えない大きな要因
  2. 人と動物,動物同士の間はゼロサムな状況が多い.:害獣,害虫,寄生,動物同士も捕食,寄生をする.薬開発の実験:これは最終的に動物のために人を殺せるかというところに行き着く.人の命のタブーを打ち破れるのかという問題になる.シンガーはこれを打破すべきだとするが,西洋文化のモラル感ではなかなかすぐにはそうならないだろう
  3. 動物の権利を真剣に詰めていくと,モラルとは何かの直感的な基礎を崩してしまう:(1)意識とは何か,哺乳類にあるとして,昆虫やミミズは?(2)ヒトはモラルを持つものではあるが,同時に自然の中では競争を行っている.なぜハンターがシカを撃ってはいけないが,クマならいいのか?肉食動物は絶滅させるべきなのか?草食に遺伝子改変すべきなのか?クマを許すのはナチュラルだからと言うなら,ヒトもナチュラルには捕食動物だ.


ピンカーは最後にこうコメントしている.

このような難しい問題があるので,動物の権利は他の権利運動とはことなった軌跡を描くだろう.
とは言え,それはかなり未来の話だ.とりあえず,わずかなコストで動物の苦しみを減らせる膨大な領域が残っている.
動物への暴力もしばらくは減少傾向が続くだろう.


日本の何十年か先をいく西洋の状況はなかなかすごいというのが最初の感想だろう.


私は個人的にはこの「動物の権利」を権利革命の中に入れて人種差別や女性差別や子供の虐待と同列に議論するには違和感がある.それはむしろ権利革命の流れの中で生じた奇妙な副産物のようなイメージの方がしっくりくるのだ.
確かにそのような現象が生じている基礎には同じ共感の輪の拡大というメカニズムがあるのだろう.しかし現状の人類の状況を考えると(上記のハーツォグの指摘通り)「動物の権利」は突き詰めて考えれば考えるほどあまりに偽善的に思える.「動物の権利」は苦しみや意識のある動物に権利があるというより「動物の虐待について深く悲しむ人々の気持ちをリスペクトするもの」として扱う方が収まり具合がいい*1ように感じられるのだ.


とはいえ,人類とチンパンジーの間にかなり大きな溝があるのはあくまで歴史の偶然だ.ネアンデルタール人が現存していればどう扱うべきかを考え始めると上記の私の立場も脆くも崩れるだろう.この問題はなかなか難しい.



 

*1:そう捉えておけば,絶対的な倫理や権利ではなく他の物事とのトレードオフがあると扱うことができる,また様々な問題は人の気持ち自体に矛盾や偽善があるからしょうがないと割り切れるし,時代とともに基準が移り変わっていくことも受け入れられるだろう