Enlightenment Now その47

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第18章 幸福 その1

 
ピンカーが取り上げる進歩の次の項目は「幸福」だ.
 

  • では,我々はより幸福なのだろうか? そうであるべきだろう.2015年のアメリカ人は半世紀前より9年も長く生き,3年長く教育を受け,一人あたり33000ドル多く得て,週8時間長く様々なものにアクセスできる環境下で余暇を楽しんでいるのだから.
  • しかしよくある印象論に従えば,アメリカ人はその数字が示すように幸福になっているようではない.人々はかつてないほど不平不満を述べ,幸福だとアンケートに回答する比率は何十年も変わっていない.ポピュラーカルチャーは「すべて驚異的だが,誰も幸せではない」というミームにあふれている.(ここでいくつもの懐疑論者のコメントが紹介されている)
  • 経済学者リチャード・イースタリンはイースタリンパラドクスと呼ばれるパラドクスを提示した.「一国内では裕福な人はより幸せだが,国際比較では一人あたり所得の高い国の国民がより幸せであるわけではない」

 

  • これは2つの心理学的な理論から説明できる.1つは「快楽のトレッドミル」だ.この理論は瞳孔が明るさ反応してその大きさを調節するように幸せの感受性は現在状況に応じて調整されると考える.もう1つは「社会比較」だ.これは人々の幸福は周りに比べてどうかという相対比較で決まるとする.だからある国が全体として裕福になっても1人1人の幸福度は変わらないというわけだ.
  • だとすれば,経済成長や健康や技術の進展に,つまり進歩に意味があるのかと考える人もいるだろう.実際に多くの論者は意味などないと主張する.彼等は「我々は精神的に貧しくなったのだ」と主張する.「個人主義,物質主義,消費主義,退廃的富,伝統的コミュニティの喪失により社会的な絆や人生の目的が失われたのだ」と.(いくつものそういう言説が紹介されている)
  • もし本当に寿命や健康や知識やレジャーやその他の面での進歩が孤独と自殺しか生まないのならこれは歴史の最大の皮肉になるだろう.しかしツボをがらがら鳴らしながらロバと一緒に歩く*1前にもう少し幸福についてよく考えてみよう.

 
主観的な幸福は,進化的に考えるとそういう状態を動機づけるために感じるわけだから,長続きさせるよりも,ある程度の期間で消失させて次の目標に向かわせるようにデザインされているはずだ,これが「快楽のトレッドミル」説で,ピンカーは「How the Mind Works:(邦題:心の仕組み)」で説得的に論じている.また自然淘汰も性淘汰も基本的には同種個体との競争に勝つ方向に効くから,目標設定は同種個体と比べてどうかという基準に依存するだろう.だから周りの人達を比べてどうかが幸福度には効いてくる.合わせると,単純に富や時間の絶対水準で幸福が決まらないというのは人生の本質になる.しかしそうだからといって進歩に意味がないということにはならないはずだ.ピンカーはここをどう説明していくのだろうか,興味深い論点だ.
 

  • 少なくとも枢軸時代(Axial Age:ギリシア哲学や諸子百家が栄えた紀元前8世紀~紀元前2世紀をこう呼ぶそうだ)から思想家たちは何が良き人生をもたらすのかを考察してきた.そして今日「幸福」は社会科学での重要論点になっている.社会科学者たちはまず芸術家や哲学者に耳を傾け,単に自省のみに陥らずに,歴史的全地球的なパターンを探し求めた.
  • まずポイントになるのは幸福が測定できるかという論点だ.芸術家も哲学者も社会科学者もウェルビーイングが多元的だということは認める.どのような軸があるのかをまず考えよう.
  • 最初に来るのは客観的に測定可能なウェルビーイングの様相だ.本人がどう感じていようともそれが良いことだとみなが同意できる恵みというものがある,寿命,健康,教育,自由,自由に使える時間などだ.基礎的な人の可能性を増やすものといってもよい.このあからさまなパタナリズムの正当化根拠の1つは寿命や健康や自由はほかのすべての前提条件になるということだ.そしてもう1つは「それが重要じゃない」などと(贅沢にも)主張できるものは(それをもっていたという)幸運な生存者バイアスの中にあるということだ.
  • 特に重要なのは自由(選択の自由)と自律性(強制されることからの解放)だ.これがそもそも良き人生とは何かを評価する前提になる.理論的には自由と幸福は別のものだ.人は害のある魅惑に屈することがあるし,選択を後悔することもある.しかし実際には自由は人生の良きことと共にある.国別に見たときに幸福度と自由のレベルは相関する.また人々は自由を意味のある人生の要素だと答える.

 

  • では幸福それ自体はどうなのか.どうやれば測定できるのだろうか.幸福は主観的体験なのだから一番いい方法は本人たちに直接尋ねることだ*2.しかし実際には尋ねるまでもないのかもしれない.ウェルビーイングについてのセルフレポートは幸福を示すと思われる数多くの指標(微笑み,快活な振る舞い,赤ちゃんを見たときの脳の活性,他者による見た目の判定)と相関している.

 
ここからピンカーは幸福について分析的に考察する.

  • 幸福には主観的感情的な側面と評価的認知的な側面がある.
  • 主観的な幸福は喜びと心配のような正負の感情のバランスの上にある.これはランダムにビープするポケベルを被験者に持たせて,そのたびに評点を報告してもらうことで測定可能だ.実際にはコストもかかるし大規模なデータセットは存在しない.理論的にはその時々の感情バランス評点推移関数の積分が幸福の測定値になるはずだ.
  • そして被験者に思い返してもらって(積分してもらって)対象期間の幸福の程度を判断してもらうのが認知的幸福になる.これは実際には難しい作業で,評点はそのときの天候やムードや直前の質問に左右される.社会科学者は,被験者は幸福と満足と想像できる最高と最低の人生を切り分けられないことを見つけている.
  • 感情と評価は関連するが,不完全だ.楽しいことがあふれるのはいい人生と言えるが,心配がないだけではそうとは言えない.ここに人生の評価基準としての「意味と目的」が関係する.

 

  • 幸福は人生のすべてではない.我々は短期的にはつらいがその後満たされるような人生航路を選択することができる.子育て,本を書くこと,崇高な目的を追求することなどだ.
  • 心理学者ロイ・バウマイスターは人が何を意味のある人生と感じるかを調べた.それによると幸福と意味ある人生の各要素は一部が共通するが,一部は食い違っている.健康で裕福で時間があれば幸福だが,それだけでは意味のある人生にはならない.幸福は現在の状況に関わり,意味のある人生は過去から未来にかけての物語が関係する.幸福だが意味のない人生は受益者のそれで,不幸だが意味のある人生は与える側のものなのだ.
  • 幸福は古い生物学的なフィードバックシステムの産物だと考えることができる.幸福の機能は我々を適応への鍵に向かわせることだ.これに対して意味は新しい拡張的なゴールの登録だ.これはヒト独特の認知的ニッチに関連する.目的は過去に根ざし,将来に向けて広がる.

 
なかなか哲学的でピンカーの文章にしては論旨がわかりにくい.しかし結論はこういうことのようだ.

  • ヒトの心理学における幸福の役割が我々に与えるインプリケーションは,「進歩の目的は幸福を無限に増大させるというものではない.しかし目の前には減らすことのできる不幸が大量にある.そして人生の意味は無限に増大させることができる」ということだ.

*1:先に引用されたコメディアンのLouis C. Kによる進歩懐疑主義的なコメントにある表現

*2:ここでサタデイナイトライブのコメディにおけるオーガズムがないことを悩む登場人物の「本当は感じているんだけどそれを知らないだけのかも」という台詞が引き合いに出されている.これがおかしいのは主観的体験についての究極の判定は経験者の感覚しかないということが明らかだからということになる