Enlightenment Now その54

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

第19章 実存的脅威 その3

 
ピンカーは前作の「The Better Angels of Our Nature(邦題:暴力の人類史)」の第6章でも本書の第13章でもテロについて既に論じている.そこではテロは古くからあり,相手に恐怖を与えることが目的になるが,大衆の支持を得ることは難しく,だんだん過激になり,そして失敗していくというのが歴史の教えであり,現代のイスラム原理主義者のテロも例外ではないだろうこと,そしてテロが際立つのは世界が平和で安全になったからであることを指摘した.ここではテロ全般ではなく,「テクノロジーにより世界は破滅するのか」という問題意識からサイバーテロとバイオテロを扱っている.

  • ロボカリプスは起こらないとして,ハッカーによるサイバーテロやバイオテロはどうなのか.
  • 時に彼等は悪意でもって我々に害を加えようとする.これを無視していいとは誰も思わないだろう.コンピュータセキュリティの専門家や疫学者たちはテロリストの一歩先を行こうと常に努力しているし,社会はこの方面への投資を怠るべきではない.軍や経済やエネルギーやインターネットのインフラはより堅固でレジリエントにしておくべきだ.
  • このような軍拡競争において,当然ながら防衛側は完璧にはなれない.しかしここで問うべきなのは,それをもって人類の破滅は不可避だと考えるかどうかだ.

 

  • 最初に考えるべきなのは,科学革命と啓蒙運動は,たった1人(あるいはごく少数のグループ)で世界を破滅できるようなことを可能にするのかということだ.(懐疑論者はよくそういう議論を行う)
  • ケヴィン・ケリーは科学技術はそのようには進まないのだと主張する.それは科学技術は強力になるほど社会に埋め込まれるからだ.最先端技術は協力者のネットワークを必要とし,そのネットワークはさらに大きなネットワークにつながり,皆技術を安全にしようと試みる.これはたった1人のマッドサイエンティストが世界を破滅させようとするハリウッド映画のプロットラインを不可能にするのだ.
  • 確かにこれは抽象的な論理に基づく推測に過ぎない.実際にどうなのかを考える上でのポイントは利用可能バイアスに陥らないことだ.真の危険は数量のところにあるのだ.
  • まずそのような狂人の数を考えよう.無関係な周りの人々を対象にした大量殺人事件はどのぐらいの頻度で生じているだろうか.確かにそのような事件は起こっている.しかし狂人が多ければ毎日どこかで起こっていても不思議はないが,実際には世界全体で何年かに一度ぐらいしか生じていない.機会があれば周りの人々を大量に殺したいと考える人はごく稀なのに違いないのだ.
  • そのような狂人の中でどのぐらいの割合が,サイバーテロやバイオテロに必要な知識と規律を兼ね備えているだろうか.ほとんどのテロリストは無能なドジだ.(テロリストがいかにへまであるかの実例がいくつか紹介されている)ほとんどはローテク武器で群衆を襲うがごく少数を殺すだけにとどまっている.世界のテロ対策チームを出し抜けることができるようなテロリストはゼロではないにしてもごく少数だろう.
  • その少数のテロリストはチームをリクルートしてマネージしなければならない.リソースも必要だ.ソフトウェアをハッキングするだけでは足りないのだ.ハッカーは攻撃対象のシステムの構成についての詳しい知識を持つ必要がある.
  • アメリカ軍はデジタルパールハーバーについて警告を出しているが,専門家は誇張があると考えている.いずれにしてもこれまでのところサイバーテロによる死者は0だ.

 

  • テクノロジーによる破滅論者は低確率だからといって屈しない.たった1人でも世界の破滅に成功すればおわりではないかというわけだ.だからこそ彼等は自分たちの議論を「実存的」脅威と呼ぶ.この実存主義は「ちょっとした迷惑→障害→悲劇→災害→破滅」という因果的な地滑りに依存している.要するに彼等の議論は「もしインターネットが止まれば農家はどうすればいいかわからなくなって作物をみな枯らしてしまう」と考えているのと同じなのだ.
  • しかし災害社会学は人々が非常に打たれ強いことを示しているのだ.人々は容易には屈しない.第二次世界大戦の都市爆撃があれほど凄惨なことになったのは,「都市を爆撃すれば住民は打ちのめされて相手国はすぐに降伏するだろう」という前提が完全に間違っていたからだ.21世紀の市民も災害に打たれ強く対処できる.我々はそれを9.11のマンハッタンで見たばかりではないか.

 

  • バイオテロはもう1つの「見えない悪意」だ.生物兵器は1972年の会議において全世界の国々によって放棄され,現代戦争では使われていない.禁止自体は生物兵器への嫌悪感から進められた.しかし軍事関係者もほとんど抵抗しなかった.それは生物兵器は非常に使いにくいからだ.
  • 病原体は扱いにくく,容易に攻撃者側にも被害をもたらすし,本当に大きな効果があるかどうかは局所的な入り組んだネットワークダイナミクスに大きく依存する.
  • さらに病原体は毒性と感染力のトレードオフ上で素速く進化する.だから狙った通りに突然の大きな被害を起こすことは難しい.これはテロリストには不向きだ.CRISPER-Cas9のような遺伝子編集技術は当初の病原体の特徴を変えることができるかもしれないが,その後の進化を止めることはできないだろう.
  • そして特に重要なのは,生物学技術の進歩はバイオテロを阻止するためにも有効だということだ.病原体を同定し,耐性進化を乗り越えるような抗生物質をデザインし,ワクチンを開発できる.

この議論はピンカーのテロについての大枠の議論(テロは恐怖を与えるのが目的で実際に被害はイメージほど大きくない.長期的には個別のテロリズムは大衆の支持を得られずに消えていく)を補強するものだ.
懐疑主義者の「たった1人で世界を壊滅できるテクノロジーが生みだされないという保証があるのか」という議論は直観主義者にはまことに強力に響く.ピンカーはこれに対してフェルミ推定的な量的な議論で対抗する.ここではサイバーテロやバイオテロの実際上のリスクは実は(利用可能バイアスから想像するより)遙かに小さいという推定が語られている.議論の中で病原体進化が語られているのがいかにもピンカーらしい.

Enlightenment Now その53

第19章 実存的脅威 その2

 
まずピンカーはヒトの認知バイアスや悲観的な方が賢く見えるということから本来のリスク以上に破局シナリオが取り上げられがちであること,対応リソースには限りがあるし,どのみち世界が破滅すると思えば対策を取る動機が失われるので,この破局シナリオにどこまでも対応すべきではないことを議論した.

  • では我々は破局の脅威についてどう考えるべきなのだろうか.まず実存的脅威の最大のもの「人類の運命」を取り上げよう.
  • 生物学者はしばしば「これまでに存在した種の99%以上は絶滅しているので近似的にはすべての種は絶滅する」というジョークをいう.典型的な哺乳類の存続期間は100万年ほどだ.人類が絶滅に関して例外だと主張するのは難しい.近傍で超新星爆発があればガンマ線放射で地球は死の星になる.小惑星が落下すれば大惨事が生じる.超巨大カルデラ火山は我々を窒息させかねない.ブラックホールが太陽系に入り込んで地球を軌道から放り出すかもしれない.人類がそれらを乗り越えても10億年たてば地球は巨大化した太陽に焼き尽くされる.
  • だとするなら,テクノロジーについて我々に終末をもたらす理由だと考えるべきではない.テクノロジーこそが我々を破局から(しばらくの間であっても)救ってくれる可能性を持つものだ.それを考えてみるべきだ.核融合エネルギーによる食糧生産,衝突可能性のある小惑星の探知と軌道修正,超巨大カルデラ火山マグマだまりへの高圧水注入による冷却などテクノロジーが可能にするかもしれないことがあるのだ.

 

  • だから,我々の文明は自分自身を破壊するのだというテクノロジー黙示録的主張は思い違いというべきだ.これまでに存在したほとんどの文明は外側から破壊されたのだ.伝統的な歴史は外側からの破壊要因を疫病,征服,地震,天候に求めるが,基本的には文明はより優れた農業,医療,軍事テクノロジーによってそれを回避できるのだ.(ここでデイヴィッド・ドイチュの「無限の始まり」が引用されている.技術の進歩による選択肢が得られれば「”自然”災害」と「無知による人災」を区別することはできなくなると書かれている.)

 

  • 「人類の存続を脅かす実存的脅威」と最近よく主張されるものは,AIやロボットに起因する大災害(ロボカリプスと呼ばれる.映画ターミネーターのイメージだそうだ)であり,いわば21世紀版のY2Kバグだ.しばしば非常に賢明な人がこれを主張する.イーロン・マスクは作っている自動運転車にAIを搭載しているにもかかわらず,これらのテクノロジーは核より危険だと公言したし,スティーヴン・ホーキングはAIは世界の破滅を引き起こせると警告した.
  • ロボカリプスは,現代的な科学知識ではなく,「存在の大いなる連鎖」や「ニーチェ的意思」のようなグズグズの知識ベースの上にある.これは万能の意思を持つ機械を想定している.そして人類が劣った動物を家畜にしたようにスーパーインテリジェントな機械は我々を奴隷にするだろうとおびえているのだ.しかしその懸念は「ジェット機が飛翔能力でワシを凌駕してしまった以上,いつの日かジェット機はヒツジを引っさらっていくだろう」と考えるのに似ている.
  • 第1の間違いは知性と動機を持つ意思との混同だ.ロボットがそもそもなぜヒトを奴隷にしたいなどと欲するのだろうか.AIのゴールはその知性の外側から与えられるのだ.複雑なシステムが征服意欲を創発させることになるようなどんな理論も存在しない.
  • 第2の間違いは知性が連続的にどこまでも上がり,超知性はどんな問題も解決できると考えていることだ.問題は個別に異なり,解決に必要な知識も異なるのだ.そして知識は説明を定式化して現実の中でテストすることによってしか得られない.アルゴリズムを速く回しても問題解決のための知識を得ることはできないのだ.ビッグデータも無限に大きいわけでなく,知識は無限に開いている.
  • これらの理由で,AIリサーチャーたちは最近の「人工一般知能(AGI)の出現は間近い」という騒ぎにうんざりしている.私が知る限り,AGIを作ろうというまともなプロジェクトは存在しない.それは商業的に見込みがないという理由ではなく,AGIというコンセプト自体まず実現不可能だと考えられているからだ.仮にAGIが意思を持つように試みるとしても,それはヒトの助けなしには無力な「水槽に浮かぶ脳」に過ぎないだろう.
  • 現実にはデジタル黙示録を防ぐ方法は簡単だ.HALが怪しくなったときにデイヴはスクリュードライバーでそれを無力化した.もちろん悪意を持つ破滅をもたらす機械を想像することはできる.でもそんなもの作らなければいいだけだ.

 

  • ロボットの反乱が怪しいとわかり始めると新たなデジタル黙示録が浮かび上がった.今度のはフランケンシュタインというよりミダス王の話に似ている.それはValue Alignment Problem(価値決定問題)と呼ばれる.我々は自らの目的設定をAIにまかせてしまい,その後はAIに目的設定を乗っ取られ,あとは受動的に生きるしかなくなるという恐怖だ.
  • これは簡単に反駁できる.このシナリオは以下の馬鹿げた前提に基づいているからだ.(1)ヒトは全知全能のAIを設計できるが,その全知全能AIはテストなしで本番移行するほど愚かだ.(2)そのAIはヒトの脳を書き換えるほど聡明だが,目的設定を間違えるほど愚かだ.互いに相克するゴールがある中での行動選択は,知性を設計するときに入れ忘れられるようなアドオンではなく,知性そのものなのだ.
  • 要するにAIもその他のテクノロジーと変わらない.それは累積的に発達し,多くの条件の中で機能するようにデザインされ,テストの上でリリースされ,常に安全をチェックされるのだ.

 

  • AIについていえば,それによって職を奪われる人がいるという問題は確かにある.しかしこの失業は一瞬で生じるわけではない.引き続きヒトはコストの割には非常に高性能であり続けている.皿洗いや使い走りやおむつ換えは自動運転に比べて遙かに難しいのだ.

 
テクノロジーは人類に破滅をもたらすことを恐れるより,破滅を避けるために用いられることをよく考えようというピンカーの主張は真にもっともだと思う.特に日本にとってここ数千年を見たときに超巨大カルデラ火山の脅威は(大地震と大津波を遙かに超えて)リアルだ.温暖化対策を考慮に入れた原発のあり方も是非冷静に議論して欲しいところだろう.
後半のロボカリプスの話は楽しい.AIにある程度理解がある人々にとっては真にばからしい話が多いのだろう.ピンカーは引き続いてより深刻な脅威を議論する.それは真に悪意を持つ人間によって引き起こされるテクノロジーの濫用,つまりサイバーテロやバイオテロだ.

Enlightenment Now その52

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第19章 実存的脅威 その1

 
世界は進歩して良くなっているという主張への反論には,「いや,こんな大変な問題を抱えているじゃないか」というものがある.第19章ではピンカーは世界の様々な諸問題を取り上げる.
 

  • 「だけど我々は大災害の危機に瀕しているじゃないか」悲観主義者は世界が良くなっていることを突きつけられると最後にはここに逃げ込む.「ここまでうまくいったのは運が良かっただけではないのか」
  • ここ半世紀,現代の黙示録の候補は人口爆発,資源の不足,汚染,核戦争だった.最近これに,我々を飲み込むナノボット,我々を奴隷にするロボット,人工知能,致死ウィルスやネット乗っ取りを企むテロリストが加わっている.
  • この最近の危機を警告する人々はしばしば科学者や技術者で,世界を終焉させる方法があると主張する.(いくつかの具体的な例が引かれている)
  • このような実存的な脅威についてどう考えればいいのだろうか.この危機がないと保証することはできないが,ここではどう扱えばいいかを論じていこう.これは第10章で温暖化を扱ったときと同じだ,問題は解決可能なのだ.

 

  • 実存的脅威については考えれば考えるほどいいようにも思える.しかし警戒しすぎることにはデメリットもある.
  • 1つは破局のフォルスアラーム自体が破局を引き起こす可能性があることだ.1960年代の核軍拡競争はソ連とのミサイルギャップという神話により引き起こされた.2003年のイラン侵攻はサダム・フセインが大量破壊兵器をアメリカに使おうとしているという恐れから生じた.
  • もう1つの問題は破局への準備についての人類の持つリソースは限られているということだ.すべての問題に対処することはできない.温暖化や核戦争の脅威は間違いなくあるので多大なリソースをつぎ込むべきだろう.生起確率が極小のエキゾティックなナシナリオにリソースを費消するのは合理的ではない.ヒトは確率を扱うのが下手だ.2つのシナリオを思い起こすのが同じように容易なら確率も同じだと感じてしまう.
  • そしてこれは最大のリスクにつながる.それはこのような暗い事実は人類の終焉が不可避であることを示していると信じてしまい,どのみち人類が滅亡するなら潜在的リスクについて手当てするのはばからしいと思ってしまうことだ.どうせ世界は滅びるのだから今を楽しもうという態度につながるのだ.テクノロジーの破局シナリオを喧伝するライターたちはこのような心理的なリスクを無視している.

 

  • もちろんリスクがリアルなら,それについての人々の感情を気にする必要はない,しかしリスクアセスメントはほとんど生じないような破局リスクを扱おうとすると崩壊してしまう.歴史を繰り返し実験することは不可能なので,確率が0.01か0.001か0.0001かは最終的には評価者の主観に依存してしまう.これは過去のデータを冪乗分布確率分布曲線にあてはめてプロットするような数理的な手法においても避けられない.分布の端のデータは少なく外れ値を持ちがちなので,数理的にこの問題を解決することは難しい.結局「最悪の事態は生じうる」ということしかわからないのだ.
  • そして主観的な判断は利用可能バイアスとネガティヴィティバイアスを持ち,さらに悲観主義マーケティング(悲観的なことをいう方が賢く見える)の影響を受ける.ヘブライの預言者以来世界の破滅を予言するものは後を絶たない.最近の流行は「技術への過信の傲慢さが世界を破滅させる」というものだ.
  • 科学者や技術者も同じ罠にはまる.Y2Kバグ騒ぎを覚えているだろうか.世間は2000年の1月1日に銀行口座記録が抹消され,エレベータが止まり,飛行機が墜落し,原発がメルトダウンするかもしれないと騒いだ.そして技術的知識のある権威者もその尻馬に乗った.キリスト教のミレニアリズム信奉者も騒ぎ立てた.対策費は世界全体で1兆ドルを超えたとみられる.
  • かつてのアセンブリー言語プラグラマーとして私はこのシナリオには懐疑的だった.実際に2000年の1月1日には何も起こらなかった.リプログラマーたちはまるで象よけ売りのセールスマンのように自分たちの手柄だという顔をした.しかし結局問題があったプログラムはごくわずかしなかったことが後にわかってきた.確かに潜在的な破局の警告がすべてフォルスアラームであるわけではない.しかしY2K騒ぎは我々がいかにテクノロジーの破局シナリオ幻想に弱いかを思い出させてくれる.

 
この部分は第4章のおさらいのような形になっている.破局シナリオはヒトの認知バイアスや悲観主義の方が賢く見えるというバイアスによって実際より重大に取り上げられやすい.だから巷で騒がれるあらゆる破局シナリオに徹底的に対応するのは馬鹿げているということだ.
Y2K騒ぎはもう20年近く前の話だが,確かに政府肝いりで対応が強力に求められ,実務的には大騒ぎだった.事前にはあれだけ騒いだのに,事後に,どのようなプログラムバグがどれだけあって,対策の効果がどうだったかについては全く総括がなかった(あるいは私が知らないだけかもしれないが,少なくとも大きく報道周知はなされなかった)のは印象的だった.いかに「騒ぎすぎでは」と思っても本当に致命的なバグがないとは誰にも断言できないのだから,一旦ああなったら止めようがないなあというのが当時の偽らざる印象だ.
 

書評 「進化倫理学入門」

 

本書は道徳哲学者スコット・ジェイムズによる進化的な考え方を取り入れた道徳についての解説書になる.大きく2部構成になっており,第1部ではヒトに道徳があるのは進化的にどう説明されるのか,道徳はどのように実装されているかについての道徳心理学が扱われ,第2部では第1部の議論を前提にした上で道徳哲学,特に規範倫理学とメタ倫理学の議論が展開されている.原題は「An Introduction to Evolutionary Ethics」.
 

序章

序章ではE. O. ウィルソンが巻き起こした社会生物学論争に簡単に触れながら,道徳と生物学の関わりが整理されている.これは議論が混乱しやすいので最初に扱っているのだろう.ジェイムズは生物学と道徳の関連についてキッチャーによる以下の整理を紹介している.

  1. ヒトの道徳心理がなぜあるのかについての進化的な説明
  2. 道徳原則の制限,拡張の基礎としての生物学の利用
  3. 道徳的性質の形而上学的な地位(たとえば客観的な道徳は実在するのか)についての洞察を得るための生物学の利用
  4. 進化生物学から新しい道徳原則の体系を導出する(我々の道徳原則とはいったい何なのかを理解する)

そしてジェイムズはこれらはそれぞれ独立した問題であり,道徳と生物学というときに何を議論しているのかの区別が重要だとする.ある意味当然のところだろう.またここでは本書は無神論の問題,遺伝的決定論の問題は扱わないと断りがある.
 

第1部 「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ

 
第1部のテーマは「ヒトの道徳は進化的にどのように形成されたのか」ということだが,特に問題になるのは「生物学的には生物個体は利己的に進化しそうに思えるにもかかわらず,なぜヒトには道徳があるのか」という謎であることの説明がなされている*1.これは「利他性の進化」として有名な進化生物学の大問題ということになる.
 

第1章 自然淘汰*2と人間本性

 
まず最初に(進化生物学に詳しくない読者のための)進化生物学の基礎講座がおかれている.ダーウィンの議論の骨格,それが行動の進化にも当てはまること,適応と副産物,よくある誤解,進化心理学のあらましが解説されている.ここで面白いのはよくある誤解についてかなり丁寧に扱っていることだ.進化環境と現代環境のミスマッチ,適応と正当化との区別,究極因と至近因の区別,遺伝的決定論に陥るべきではないことが道徳感覚の進化と絡めて解説されている.適切な解説になっていると評価できるだろう.
 

第2章 正しさの(最も初期の)起源

 
ここではいわゆる利他性の進化についての進化生物学の理論が解説されている.
 
最初にグループ淘汰の問題が整理される.まずナイーブグループ淘汰の考え方とそれをごく特殊な場合のみ働くとして基本的に否定するG. C. ウィリアムズの議論が紹介される.その上で,この論争は完全解決しておらず,一部の生物学者と哲学者によって現在も激しく議論されていることを説明し,しかし問題は「包括適応度や互恵性による説明がグループ淘汰という枠組みに収まるかどうか」のところであり,本書では(包括適応度と互恵性の理論から議論するので)この論争を追わないとしている.理論の等価性まで踏み込んでいるわけではないが,議論に深入りせずに流すには適切な割り切り方だろう.
 
ここから包括適応度理論の説明が扱われる.ハミルトンの洞察,ドーキンスの遺伝子視点からの解説,ヒトのデータ(援助,遺贈など)における有効性,ヒトに当てはめる際の注意点(血縁認識は何らかの相関する手がかりでいいこと,進化環境と現代環境のミスマッチがあること,より広い協力行動への前適応となった可能性があること)が解説される.*3

続いて互恵的利他性が扱われる.トリヴァースの議論,いくつかの動物における実例,囚人ジレンマ問題の解決との関連が解説されている.哲学者による生物学理論の解説ということになるが,両説明とも特に問題ない.
 

第3章 穴居人の良心

 
ここからは前章で解説された進化生物学理論によってヒトの道徳がどう説明されるのかという問題に取り組んでいくことになる.
まず第3章では説明されるべき「ヒトの道徳」とは何かが議論される.ここからが哲学書の本領だ.
 
まず道徳は単に行動の様相ではない.それはその生物の内面に関わる.そしてそれは単に好悪の感情でもない.ジェイムズは「妊娠中絶の是非」という例を使って,それが「禁止」の理解に関わること,欲求や関心を前提としての忠告ではなくそれらに関わりない禁止であること,取り決めや慣習に依存するものではないこと,動機と深く関連すること,違反者には処罰が値する(この「値する」というのはそれが正当であるという感覚でこれが重要)と考えられること,道徳的生物は自らの違反についての他者の態度を内面化して罪や恥のような感覚を持つことを明らかにしていく.
 
続いて道徳感覚の進化が扱われる.初心者向けに,そのような感覚が進化したとしても意識的にそれが適応度上有利であることを理解している必要がないことを丁寧に解説し,問題は中間的な心理メカニズムになることを指摘した上で,道徳の進化を解説する.
ジェイムズの説明の基本は,道徳的感覚は長期的な価値を生む(互恵的)協力を行うための動機システムだというものだ*4.ここでは哲学者のリチャード・ジョイスのまとめが引用され,道徳的感覚は利他性促進のために裏切りについての「心理的コスト」を付与するもので,(そういう用語は使っていないが)自分が裏切らないことのコミットメントとして作用し,さらに間接互恵性のための評判を保つ機能を持つことが解説されている.そしてこの心理的コストが先ほどの道徳の特徴のうち「禁止」を生み出すことを詳しく説明する.なおこうした本書の議論においては厳密に言うと「利他性」よりも「協力」が道徳進化の鍵ということになる.この2つの概念の整理*5をきちんとしていないのは哲学書としてはやや物足りないのではないか*6という気もするところだ.
 

第4章 公正な報い

  
第4章では道徳の残りの特徴「罰」と「罪」を説明する.
 
最初は「罰」の説明.ここでジェイムズはまず最後通牒ゲームを解説し,ヒトが短期的な経済的利益だけで動機づけられていないことをみる.次に罰付き公共財ゲームを解説し,ヒトは裏切り者を罰しようとする傾向をもち,罰があると協力が促進されることをみる*7
しかし罰はそれほど単純ではない.ジェイムズはゲームの設定によっては激しい罰行使が不利になること,控えめな罰(以降の関わりを避けるなど)がしばしばみられることを指摘し,なぜ(コストのかかる)罰を行うのかの問題が最終的な解決には至っていないことを説明する.
罰の哲学によると罰には抑止モデルと応報モデルがある.ジェイムズはこれまでに得られた心理学的な知見では,ヒトはおおむね応報モデル的に動機付けられており,その判断は素早い自動的なものになることをここで示している.
 
もう一つの問題は「罪」になる.これは一旦裏切ってしまった場合に,もう一度協力関係にはいるための心理適応として説明が可能だ.ジェイムズはここでロバート・フランクを引用して,「罪」のコミットメント的な機能を解説している.

ここまでが道徳感覚に関するジェイムズによる適応的な説明(進化心理学的説明)ということになる.基本的に破綻なく適応としての心理的な動機付けメカニズムが解説されているように思う.よくある道徳の生物学的な議論だと,このあと直感的な道徳感情と熟慮の上の道徳判断(およびその相克)あたりが取り上げられることになるが,ジェイムズはそこには踏み込んでいない.本書では主に直感的の道徳感情(罰や罪に関するものを含む)のところを主に扱うということだろう.
なお罰については,進化生物学的にはその2次のフリーライダーの問題が難問で,さらに直接の報復リスクを持つために条件依存的に実装されいるために複雑になっているが,このあたりはやや簡単に流されている.ある意味深入りしないという判断なのだろう.
 
ここからこのような進化心理学的な説明に対する批判とその吟味が取り上げられている.ポイントは大きく次の2点になる*8
 
(1)この説明は協力についてはうまく説明できるが,中絶問題や動物虐待や遺伝子編集に関する道徳感覚については説明できないのではないかという問題.
これについてジェイムズは確かに埋めるべき間隙はあるが,そのような取り組みもあると答えている.一つは「動物虐待するような人は信用できない」ととらえられるため,「私は信頼できる人間だ」というシグナルとして機能しているという可能性,もう一つは性淘汰的なシグナルとして機能しているという可能性だ.*9 
これはある種の道徳的言動や行動が(自分が取引相手や配偶相手として価値があることを示す)コストのあるシグナルとして効いているという議論になる.進化生物学的には大変興味深いところだが,ジェイズムはここも深入りを避けている.
 
(2)諸文化にある道徳の多様性はどう説明されるのかという問題.
哲学者のスリパーダとスティッチは「道徳はヒトの規範学習システムによって学習獲得される」として多様性を説明しようとした.では進化心理学的な説明は多様性をどう扱うのか.ここからは第5章に持ち越される.
 

第5章 美徳と悪徳の科学

 
ジェイムズはここで章を分けた.ここまでの説明は道徳的感覚がなぜ進化したのか,つまり適応的機能を扱ったのに対し,ここからは道徳の実装を扱うからということだろう.
 
まずジェイムズは,幼い子供にも他者の苦悩へ反応するなどの感覚があることを示し*10,道徳の何らかの生得性を主張する.さらにサイコパス事例,心の理論の知見を示し,道徳判断は時に競合する2つのプロセスが関わっているとする.それは危害の結果についての表象と信念と意図についての表象だ.また子供はそれを教わらなくとも慣習的な規則と道徳的規則の区別をすることができるということ(道徳版刺激の不足論証)も挙げている.
では道徳の何がどこまで生得的なのか.ここでジェイムズは一転して言語の生得性に話題を移し,ピンカーの「進化適応としての生得文法と限定的なパラメータ学習獲得モデル」を解説する.このモデルをかなり詳しく説明した後,それを道徳に応用したハウザーの「生得的道徳文法とパラメータ学習獲得モデル」の取り組みを紹介する.
ここからジェイムズはハウザー説が巻き起こした論争をみていく.まずハウザーに対してスリパーダは「道徳的発達の生得的バイアスモデル」で対抗する.同じく哲学者のショーン・ニコルズはこのバイアスモデルに文化進化を組み合わせる考え方を提唱している.さらに哲学者のジェシー・プリンツはこれらの考察は道徳の学習獲得を排除できていないと主張する*11
 
最後にジェイムズによる論評がある.基本的に道徳の科学はまだ生まれたばかりであり,どのように実装されているかを最終的に判断する段階には至っておらず,今後のリサーチの積み重ねが期待されるというのがジェイムズの立場だ.しかし子供が全くの白紙で生まれるのではなく何らかの生得性はあることは間違いないとコメントしている.
道徳の生得文法とパラメータモデルは提唱者のハウザーが不正研究疑惑で失脚してから,あまり生物学周りから動向が聞こえてこないが,私はなかなか魅力的な仮説だと思っている.確かに刺激の貧困論証は言語のそれに比べると少し弱いのかもしれない.今後のリサーチの進展を大いに期待したいところだ.
 

第2部 「何であるか」から「何であるべきか」

第2部では「(第1部でみたような)進化的な説明から我々がどのような道徳を持つべきかが説明されるか」あるいは「事実から価値を導けるか」(規範倫理学)という議論(第7章~第9章)と「進化的な知見は『道徳とはそもそも何であるか』の理解を変えるか」(メタ倫理学)の議論(第10章~第12章)が扱われている.
 

第6章 社会的調和

 
第6章では進化の事実から直接道徳を導き出そうとした初期の試みが扱われる.ジェイムズはダーウィンより前からある「存在の大いなる連鎖」の概念をまず示し,ハーバート・スペンサーによる社会ダーウィニズムの試みを紹介する.スペンサーは人類が最高次の存在であり,それは共同作業の精神,利己的行動の抑制を行う道徳的感受性に現れており,自然淘汰はそれに向かったのだと考えた.そしてそれは我々がどうあるべきかも規定していると主張した.これは今日では壮大な過ちだとされている.
ジェイムズはスペンサーの間違いを2つの点から指摘する.

  1. まず進化は高次の存在に向かうものではない.それは局所的な環境への適応を実現させる先見性のないプロセスであり,人類の存在は必然ではなく,大いなる偶然の集積の結果なのだ*12
  2. しかしスペンサーは哲学的にも重大な過ちを犯している.それは「事実から価値を導くことはできない」という問題に関連する.

ここからこの「事実と価値の問題」は第7章に引き継がれる.
 

第7章 ヒュームの法則

「事実から価値を導くことはできない」というのは,しばしば「自然主義的誤謬」と呼ばれているが,実はこれに関する哲学的議論にはヒュームのものとムーアのものがあり,自然主義的誤謬というのはムーアの論考にかかるものなのだそうだ.私はこの2つの区別についてよくわかっていなかったので,大変勉強になった.
ジェイムズはヒュームとムーアの議論はスペンサーの議論を壊滅させたと考えられており,スペンサーのキングコングに対するゴジラのようなもの*13だと形容する.そして多くの現代の哲学者にとって進化倫理学はまさにこの戦いを表しているそうだ.
 
まず第7章ではヒュームの議論「『である』言明から『べし』言明を導くことはできない」が解説される.演繹的な三段論法が紹介され,演繹的論証を用いる限り,事実をどれだけ前提に入れても結論としては義務や価値は出てこない(前提のどこかに価値言明がなければならない)ということが説明される.そしてスペンサーは明らかにこれに抵触しているということになる.(またここではダーウィンがヒュームの法則を理解していたようであること,E. O. ウィルソンの初期の記述には怪しい部分があることもコメントされている)
 

第8章 ムーアの自然主義的誤謬

 
ムーアの議論はヒュームのそれを微妙に異なる.ムーアの議論は価値的な概念を事実的性質だけから定義することは誤りだというものだ.この説明は「未決問題テスト」を用いてなされている.(ここはなかなか難解だ)

  • 「あの独身男性は結婚しているか」という問いは無意味だ.これは独身男性という定義だけで決定済みだからだ.「この果物は甘いか」という問いは未決問題であり,果物という定義には甘いかどうかは含まれない.これを利用して「〇〇は善いか」という問いを考える.すると〇〇にいくら事実的性質を入れ込んでもこの問いは未決のままだということがわかる.つまり事実的性質だけから価値は定義できないのだ.これができるとする主張についてムーアは「自然主義的誤謬」と呼んだ.

そしてスペンサーはやはり自然主義的誤謬も犯しているということになる(ウィルソンも同様であることがコメントされている).
 

第9章 ムーアとヒュームを再考する

 
ではヒュームとムーアは正しいのか.ジェイムズはここで吟味を行う.哲学書としては読みどころの1つということだろう.
 
ジェイムズはまずムーアを取り上げる.吟味は以下のように進む.

  • 未決問題テストはどれぐらい良いものか.「水はH2Oか」これは科学的知識があるものにとっては無意味な問いだが,知識を持たないものにとっては未決問題になる.
  • 実はこのような問いは「意味論的な問題」であることも「存在論的な問題」であることもあるのだ.水とH2Oが同一であっても,(論者によって)その意味は異なりうる.ムーアはこのことを見逃した.
  • これはもし社会ダーウィニズムの主張が存在論であるならムーアの批判をかわすことが可能であることを意味する.「道徳的に良い行動は,進化によって得られるような行動だ」と主張したのなら,それは道徳的行動とはどういうものかを説明しようとした言明であって(それが正しいことを保証するわけではないが)自然主義的誤謬に陥っているわけではないことになる.
  • ただし社会ダーウィニズムはその言明が正しいことを別途立証する必要がある.そして我々にはこれが成功することを信じる理由はない.

 
次の吟味はヒュームになる.

  • 哲学者ジョン・サールはヒュームの原則が成り立たないと考えて,反例としての論証を提示した.
  • しかしこれをよく吟味すると,前提の中にある「制度」が含まれており,その中でに義務的な含意があることがわかる.サールはこの批判に納得しておらず論争は続いている.

 

  • 哲学者ジェイズム・レイチェルズは演繹的論証以外の論証,つまり帰納的推論や最善の説明を与える推論(アブダクション)がヒュームの法則とどういう関係があるかを考察した.
  • 伝統的な道徳は演繹的な論証に依拠していない.だから事実から(機能的推論やアブダクションによって)特定の道徳律に従う理由や従わない理由を見いだすことが可能になるはずだとレイチェルは考えた.
  • レイチェルは人類が特別の存在ではなく進化的な産物であることを基礎に道徳を決定できると考えた.これはスペンサーの反対側の議論であり社会ダーウィニズム2.0と呼ぶことができるだろう.
  • そしてレイチェルズは一連の主張を行っているが,それを詳しく吟味すると前提の一つには価値的な内容が含まれているというのが私の評価だ.

 
なかなか難しい.要するにムーアの法則の適用範囲は意味論にとどまっていて,存在論(事実的性質をもって価値を記述すること)の主張に関しては別途立証付きで可能になるが,立証は容易ではないだろうということのようだ.ヒュームの法則が演繹的論証に限られていることについてのジェイムズの評価ははっきり書かれていない.事実から最善の道徳仮説を推論することは可能だということになるのだろうか.
なお最後のレイチェルズの主張は動物の権利などに関連するもので,ジェイズムのいう価値的前提とは「人間と動物の間に大きな違いがないなら,大きく異なって扱うべきではない」を指しているようだ.
 

第10章 進化論的反実在論

 
ここからはメタ倫理学の領域になる.ある道徳律が正しいかどうかを決める基本的条件はあるのか,進化の知見はそれとどう関連するのかがテーマだ.難解な領域でしかもいかにもややこしいことになりそうな「実在」が扱われる.
 
まずジェイムズはメタ倫理学とは何かを説明し,ここまでの本書の議論を振り返り,進化の知見を得た場合に「正しい道徳とは何か」という疑問がどうなるかを巡る議論を解説する.
 

  • レイチェルズは進化の知見は道徳とは何かという疑問に影響を与えないとし.それを「数学的能力の進化的説明がなされたからといって,現在の数学が生物学的数学になるわけではない」と説明した.数学は証明や発見によるそれ自身の内在的基準を持った自律的な主題だからだ.であれば道徳も同じではないのか.哲学者たちは進化的な道徳能力の説明と道徳とは何かという問題は別だと考えてきた.
  • しかし1970年代から一部の哲学者たちは別のアプローチを取るようになった.彼等はこう考えた.
  • ヒュームやムーアは正しい.進化から道徳律の内容は出てこない.しかし一旦進化の知見を得ると「我々はそもそもなぜ道徳を擁護しなければならないのか」を考え直すことができる.
  • そしてそのアプローチは「客観的に道徳的な行為というものはない」という主張に帰結した.これは「進化論的反実在論」と呼ぶことができる.

 
進化の知見がどのように反実在論に結びつくのか.ジェイムズは,反実在論者の議論は「進化が我々に感じさせる『客観的な道徳規準が存在する』という信念が虚構であることがわかれば客観的道徳の実在が否定されることになる」というものだと説明する.

  • E. O. ウィルソンは「社会生物学」で,自然淘汰の事実から倫理学が説明されるべきだという革新的だがやや曖昧な言明を行い,その後ラムズデンと一緒に「究極的な倫理的真理がヒトの心の進化を切り離されていることを哲学者たちは示していない」と主張した.これは「倫理は全く妄想に過ぎない」と言っているのだ.
  • さらにウィルソンは哲学者のマイケル・ルースと組み「道徳的振る舞いの科学的な解釈に基づくと客観的に外在する倫理的な諸前提は存在し得ない」ということを2つの論法を用いて論証した.
  • 第1の論法は,道徳の最大の特徴である「義務」の感覚は進化環境でたまたま有利であったために生じたものであり,もし我々の進化の歴史が異なっていれば道徳律の内容は別のものになっただろうということに基づいている.これは「特異性論法」と呼ぶことができる.彼等は仮想的地球外生命が「カニバリズム,近親相姦,暗闇と腐敗への愛,糞の食べ合い」を道徳とするように進化可能だと指摘した*14
  • 第2の論法は「重複論法」と呼ぶことができる.それは「ある信念(私は現在本を読んでいる)は何らかの反実仮想的なものに重要な仕方で結合している(もしそうでないなら今本を読んでいる感覚があるはずがない)」ということに基づくものだ.エンジン警告ランプの回路がショートして点灯しているのなら,そのランプが点灯していることはエンジンの実在を信じる理由にならない.彼等は「外的倫理的諸前提が存在しなくても我々は正と不正について考え続けるだろう,だから進化的説明は客観的道徳を不要にする」と論じた.我々が道徳を感じるのは道徳が実在するからではなく,それが適応度を上昇させるからだ.つまり道徳感覚の諸原因を説明できれば客観的道徳を信じるいかなる理由も掘り崩されることになる.
  • 第1部の議論が正しいとすると,我々の道徳的信念は客観的道徳の存在を不要とする因果プロセスの結果だということになる,この「説明プロジェクト」はどのような道徳判断が正当なのかという「正当化プロジェクト」を不適切なものにする.例えば「何を気持ち悪いと感じるか」は正当化を必要とする種類の物事ではない.そして道徳判断は「何を気持ち悪いと感じるか」と同じようなものなのだ.

ジェイムズの解説は難しいが,要するに「道徳感情はヒトの包括適応度を上げるための適応産物にすぎない(だからヒトが感じる道徳が客観的に正しい道徳律であることは全く保証されないし,それを問うこと自体無意味だ)」ということを扱っていると思われる.これは進化適応産物であるから当然だろう.私にはこの立場は非常に強力であるように思える.ただしそれは道徳感情と切り離して客観的な望ましい道徳規準を(例えば功利主義をもちいて)考えることを排除しないだろう.あるいはそのような基準は内から湧き上がる「禁止」がないからもはや道徳と呼べないということなのだろうか.このあたりについてジェイムズはきちんと解説してくれていないように感じる.
  

第11章 最近の進化論的反実在論

 
この反実在論はさらに最近何人かの哲学者によって強力に主張された.ジェイムズは第11章でその議論をあつかう.

  • 2006年リチャード・ジョイスは反実在論を1冊丸ごと使って擁護した「The Evolution of Morality」を出した.
  • ジョイスは以下の思考実験を提示した.「あなたは若い頃に『ナポレオンはワーテルローで負けた』と信じ込むという作用を持つ薬を飲まされていたことが明らかになった.あなたはこの解毒剤を飲むべきか」ジョイスはもちろん飲むべきだと主張する.そしてこの教訓は「信念の起源についての知識はその信念を損なうことがある」というものだとする.
  • この議論が正しいとするとどうなるか.ジョイスは(視覚の進化と異なり)道徳感覚は何らかの外的対象を正しく検知することとはかけ離れた機能(つまり適応度の高い社会行動を可能にする)のために進化したものであり,その内容を信じることは正当化されていないのであり,正しいと信じるのはいわば進化の策略だと主張する.

 

  • 同時期にリチャード・ストリートは次のように議論した.
  • 道徳実在論者は,道徳を創り出した進化とそれと独立の道徳的真理について,その関係を否定しようとすることも説明しようとすることもできる.しかしストリートはそのどちらにも見込みがないだろうとする.
  • 実在論者の第1の選択肢は進化と道徳的真理は無関係だとするものだ.しかしこの立場に立てば,(進化が道徳心理の形成に大きな影響を持ったはずである以上)我々の信念の大部分がほとんど誤っているということになってしまう.
  • 第2の選択肢はこの関係を説明しようとするものだ.その1つは,ヒトは客観的な道徳的真理を追跡するような心的能力を進化させたのだという「追跡説」になる.例えばコストのあるシグナル説はこの考えにフィットしうる.しかしストリートは「追跡説」は道徳心理が適応度の高い行動を取らせる動機付けとして機能するという「適応的関係説」に対して弱いと指摘する.(ここのストリートの説明は哲学的で難解だ)
  • 要するにストリートによると「実在論は進化がヒトの価値観に影響を与えたということを認められない.だから実在論は放棄すべきだ」ということになる.

 
この章はウィルソンとルースの議論をより哲学的に精密に議論するとこうなるというところを示すものだ.私には難解だったが,哲学的な議論を好きな人には読みどころだろう.
 

第12章 進化的実在論者が採りうる選択肢

ウィルソン,ルース,ジョイス,ストリートの議論は道徳的真理があると考える実在論者には陰鬱な状況を示している.では実在論者にはどういう選択肢が残っているのだろうかというのが本書の最終章になる.実在論者であるジェイムズによる解説は以下の通りだ.

  • 実在論者の採りうる選択肢は,(道徳の進化そのものを否定するというものを除くと)3つある.
  • 第1の選択肢は,プリンツによる「反応依存性」の議論だ.これは進化の役割を道徳を感じる能力の創造に限定し,道徳の内容は典型的な主体が正常な場合に反応するようなものに学習されるとする.この立場を取ると道徳の内容はある程度偶然で決まることになり,プリンツがそうであるように道徳について相対主義的をとらざるを得ない(つまり客観的道徳的真理はないことになる.これは多くの論者がそもそも道徳的実在論にこだわる理由を失わせる).

 
この立場に立つには第5章の道徳の生得性の実証の主張を否定し,さらに反応依存性を実証する必要があるはずだ.いずれにせよ客観的道徳律はないということにつながるので実在論者内での受けはあまり良くないのだろう.
 

  • 第2の選択肢は,ケースピアやキッチャーによる「徳倫理学」の1つのバージョンとして道徳実在論を擁護するものだ.徳倫理学はアリストテレスに始まり,道徳律の内容ではなく,どのような人になるべきかを考えるものだ.アリストテレスは機能を問題にし,人生の目的は(ヒトと動物を分かつ特徴である)理性的要素を持つ生であるから我々は理性にしたがって生きるべきだと考えた.現代的に考えると,この主張はヒトの特別性の主張,すべてのものには目的があるという考え方において問題がある.
  • 1970年代の哲学者は,このアリストテレスの徳倫理学の考え方を用い.機能を「最新の淘汰圧によって作用を受けているもの」とおき,そこから道徳の実在を主張することにした.ケースピアは道徳的事実は機能的事実であり客観的なものだと主張した.
  • キッチャーは道徳の機能は原始的利他的傾向を拡張することであり,我々の利他性に与える影響であるとする.

 
この第2の選択肢の解説はよくわからなかった.ジェイムズの扱いではこの考え方はヒュームやムーアを乗り越えた後の選択肢ということになるのだが,進化適応的な機能があって,それが客観的に正しいということになるなら(行動基準そのものではないにしても)それは単純な自然主義的誤謬なのではないのだろうか.
 

  • 第3の選択肢は(ジェイムズ自身の主張である)「道徳的構成主義」だ.これは追跡説の1種になる.客観的道徳的真理は存在し,我々はそれを追跡するように進化したと考える.
  • 我々は自分の振る舞いに対して他人がいかに反応しそうであるかを考慮する傾向性を進化させた.しかし相互作用するすべての相手の反応性を記憶し続けるのはコスト高であるので,合理的なデフォルト戦略を進化させた.実践的な熟慮は徐々に抽象的な評価原則に変化していった,これを支持する証拠としては,心の理論の存在,狩猟採集社会の平等主義,ゲーム理論的リサーチの結果,ユニバーサルな道徳原則の核(黄金律)を挙げることができる.
  • そしてある行為が不正であるかどうかは,他者がその行為に反対する傾向があるかどうかで判断できる.道徳は構成,あるいは手続きであると考える.道徳的事実はある特定の見地からの吟味を経て生き残る原理によって定まり,その場合進化的説明は実在論を損なわない.
  • そして客観性については,それは人間本性を前提とする中では客観的であり得る.しかし人間本性の前提を越えた超越的相対主義は排除しない(エイリアンやシロアリには別の道徳的真理があってもよいという意味だと思われる).

 
なかなか巧妙な議論だが,なお疑問も残る.(これはキッチャーについても同じくあてはまるが)これでは道徳の一部だけ(協力促進の合理的デフォルト戦略の部分)のみが客観的ということになる.それでは結局,「私は道徳の内容はヒトの協力推進に資するものだと定義しました.その場合には進化理論的に合理的な戦略が決まり,道徳は客観的だ」と主張しているだけなのではないか.そしてそれは露骨な身内びいきや機会主義的裏切り戦略を含む可能性を残しているのではないだろうか.

ともあれジェイムズはジョイスによるこれらの実在論者の主張への批判を最後に解説し,本書を締めくくっている(自説への反論を最後におくという面白い構成になっている). 

  • ジョイスは反応依存説と道徳的構成主義をひとまとめにして3つの問題点があると批判した.
  • 第1の問題は不完全性だ.ある主体が反応するやり方あるいは(協力推進のための)合理的なやり方は状況によって異なりうる.それは極端な相対主義に結びつくだろうというものだ.(これはすべての状況を明らかにして整理すればかわすことができるとコメントされている.条件付き戦略の詳細を示すという意味になるだろう)
  • 第2の問題は実践的重要性だ.典型的な主体が反応するやり方あるいは(協力推進のための)合理的なやり方が,その場で道徳判断する主体にとってなぜ気にしなければならないほど重要なのか明確ではないという批判だ.
  • 第3の問題は内容の問題だ.典型的な主体が反応するやり方や(協力推進のための)合理的なやり方は常識的な道徳感覚が正と認識する行為と同一だろうかということが問題になる.ジョイスは「民族浄化が場合によって合理的になることはないとどうやって保証できるのか」と問いかけている.
  • これらの批判に対して実在論者はもちろん反論して論争は続いている.(本書ではこれ以上扱わず,論争の内容に興味のある読者は巻末の文献案内を参照して欲しいとある)

 

  • ジョイスは徳倫理学については以下のように批判した.
  • 「心臓は血液を送り出すべきだ」とは言えても,そこから「ジョーは約束を守るべきだ」をいかにして導けるのかは問題含みだ.
  • 新アリストテレス主義者は,道徳に規範力があるという考えを放棄するか,それはいずれ生物学が与えてくれるだろうという立場に逃げ込んでいる.第1の立場は極端であり,第2の立場はなお約束に止まっている.この議論も進行途中なのだ.

 
この最後の解説も難解だ.ジョイスの反応依存性と道徳的構成主義に対する第3の批判は先ほどの私の感想と1部重なるのだろう.実際に合理的戦略は露骨な血縁びいきや機会主義的裏切り戦略を含むことになるだろう.徳倫理学への批判とヒュームやムーアの議論がどう異なるのかはジェイムズには自明のようで解説がないが,私にはわからなかった.道徳哲学は難解だ.
 
以上が本書の内容になる.まず第1部で道徳感情の進化的な説明を扱うが,ここで扱われているのは二重過程論でいう速い判断の部分だけで,熟慮的な道徳は対象外になっている.このため異なる道徳の間の相克をどう解消すべきかという問題(功利主義をとるべきかどうか)という問題も対象外になっていることには注意が必要だ.ここは第2部の議論のための前提の整理になる.内容的には様々な進化的な議論の簡潔な解説がまとめられており,一部ものたりなさは残るが特に破綻のないきちんとしたものだと評価できる.
そして,第2部が本書の中心になる.ここで道徳感情についての進化的理解が道徳哲学に投げかける問題を2つ取り上げて詳しく解説している.最初の「(進化的)事実から価値が導けるか」という問題は様々なところで目にするが,本書は非常に詳しく扱っている.ここでは哲学的な議論の進め方が大変面白い.またヒュームとムーアの議論の違いとかが解説されていて私的には大変勉強になった.
もう1つの問題である「そもそも客観的道徳的真理はあるのか」を扱う部分はいかにも難解だ.私には道徳感情が包括適応度最大化に資するための進化産物である以上,少なくとも道徳感情と結びついた道徳律については反実在論で決定的だと思えるが,本書はそこを実在論の立場から丁寧に議論している.この部分の論評は私の手に余るが,濃密であり,読みどころだろう.本書は道徳の進化に興味があるのであれば一度は目を通しておきたい科学哲学書だというのが私の評価になる.


関連書籍
 

原書

 

ジョイスによる反実在論の本

*1:なおここで「ドーキンスの利己的な遺伝子」を持ち出して,これが個体が利己的であるはずだということを支持するものとして引用されているのは残念だ.ドーキンスはまさに「遺伝子は利己的だが,生物個体はそうでないことがあり得るのはなぜか」を議論しているのだから(そしてこのあとの記述を読むとジェイムズがそのあたりについてはわかっているように思えるだけになおさらだ)

*2:本書ではselectionについて「選択」を訳語としているが,本書評では私の好みに従ってすべて「淘汰」に置き換えている

*3:なお本書では「利他性」という用語を(通常の生物学的な定義ではなく)動機を含めたものとして扱うことについて断りが入っている.

*4:なお血縁淘汰について,進化的環境の小集団内で働き,その後の協力進化に対する前適応的な意味があったという議論もなされている.

*5:基本的には分業などの相利協力状態が重要だが,その中では実際には「微妙な裏切り」の問題があって,利他性と完全には切り離せないということになるのではないかと思う.

*6:本書では利他性に動機を含むと定義しているので取り扱いが複雑になるということもあるのかもしれない

*7:ここでは他者の怒りについて過大評価する傾向があることが重要だと指摘されている.ちょっとおもしろい視点だ.

*8:道徳的感覚を持つ集団に非道徳的な突然変異が進入して道徳を崩壊させるのではないかという批判も紹介されている.これについては繰り返し囚人ジレンマにおけるESSの議論で退けている.

*9:またここではノヴァクの気前の良さにかかる研究も紹介されているが,動物虐待や遺伝子編集とはあまり関連しないのではないかという気がする.

*10:霊長類の観察,脳の構造の知見から補強されている

*11:いかにも哲学者らしく,生得性の立証について極端な要求を行い,刺激の貧困論証についても厳密に立証できていないとする

*12:ジェムズはここでグールドのワンダフルライフの主張を好意的に紹介している.

*13:なぜこの形容なのかは謎だ.ゴジラの方が圧倒的に強そうだが,異なる映画なので決定的ではないという含みなのだろうか.

*14:ウィルソンはConsilience: The Unity of Knowledge(邦題:知の統合)でシロアリの道徳と称してほぼ同じことを主張している

Enlightenment Now その51

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第18章 幸福 その5

 
幸福に関係しそうな自殺と鬱も特に近時の上昇傾向があるわけではない.ピンカーはここで幸福についてのまとめに入る.
 

  • すべてがうまくいっている.では何故我々はこんなに不幸なのか.実は我々はそんなに不幸ではないのだ.先進国の人々は実際とても幸福だ.すべての国のほとんどの人はより幸福になっている.そして一国が豊かになると国民も幸福になる.孤独や自殺や鬱にかかる警告はファクトチェックをくぐり抜けられない.

 

  • それでも幸福に関して,多くの人々があるべき水準に達していないのも事実だ.アメリカ人は先進国の中では劣後し,幸福度の伸びは停滞している.そしてベビーブーマーはトラブルを抱え,女性の幸福度の伸びは男性に及ばない.
  • このような問題をどう考えるべきだろうか,多くの批評家はこれらを現代の病だといいたがる.例えばこうだ「我々の不幸は個人主義や物質的な豊かさを追い求めたこと,そして家族や伝統や宗教や共同体の崩壊のつけなのだ.」
  • しかし別の理解のしかたがある.過去のノスタルジーに浸っている批評家たちは,かつて人々が伝統の軛から逃れるために戦ってきたことを忘れている.伝統的なコミュニティにはダークサイドがある.偏狭さ,服従の強要,部族主義,そして女性の抑圧だ.18世紀後半の文学作品や20世紀のアメリカのポップソングにはこのダークサイドからの解放というテーマがしばしば扱われている(多くの例が引かれている)
  • 現在の私たちはこれらの小説の主人公が渇望した個人的な自由を手に入れている.今日の批評家はアンナ・カレーニナに対して「家族や伝統的コミュニティの絆なしにコスモポリタン的に生きることは不安や不幸を招く」と警告するかもしれない.しかしきっと彼女は自由が手に入るならそんなことどうでもよいと考えるだろう.
  • ごくわずかの不安は自由による不確実性の対価なのかもしれない.それは自由が要求する警戒,思案,自省と言い換えてもいい.女性の幸福度の上昇度が男性を下回っているのはこのためかもしれない.自由を得た若い女性はキャリアや結婚や社会への貢献などについて考えることが大幅に増えたはずだ.

 

  • 自由による選択肢の増加のほかに「実存的不安」という問題もあるだろう.人々がより教育を受け権威に対して疑問を持つようになると,伝統的な宗教的真理には満足できなくなり,モラルに無関心な宇宙に心のよりどころを失う感じを受けるかもしれない.(ここでウッディ・アレンによる実存的不安についてのコメディラインが紹介されている.傑作だ)
  • 心地よかった信念の喪失という問題もある.1960年代のアメリカは偉大だった.べビーブーマーたちの目から見るとアメリカは原爆開発の技術的優位性を持ち,女性は家庭で幸福で,黒人たちは立場をわきまえていたのだ.そしてベビーブーマーたちはその後の幻滅を味わった.振り返って考えてみると,環境,核戦争,人種や女性差別の問題を永遠に無視できたはずはない.幻滅を感じさせたにせよ,それを自覚することによって世界は良くなっている.私たちは世界の抱える課題について相応の関心を持つようになったのだ.(ここでピンカーは1989年の映画「Sex, Lies, and Videotape」を紹介している.主人公はマスメディアが騒ぎ立てるニューヨークのゴミ運搬バージの漂流問題(実際の事件)を見ているうちにゴミ処理場不足から世界がゴミに埋もれる不安が頭から離れなくなる)

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  • それが重要な問題解決に役立つ政策の支持を生みだすなら少々の不安は悪いものではないだろう.何十年か前,人々は専制独裁政を憂えた.今日60以上の宗教指導者は地球温暖化を憂えている.バーナード・ショーはこういっている.「信仰心を持つ方が懐疑主義者より幸福だというのは,酔っ払いがしらふの人よりもハッピーだというのと同じだ」

 

  • 我々の政治的あるいは実存的な問題から幾ばくかの不安が生じているといえ,それは絶望を生むほど病的なものではない.問題に対して解決を図り,バランスの取れた人生を模索することは可能だ.メディアやコメンテイターにもできることがある.映画の中のゴミ漂流はマスメディアの不安創造能力をよく示している.実際にはこのゴミ漂流問題は処理場不足ではなく事務ミスとメディアの騒ぎ立てによるものだった.すべての問題は危機ではない,人々は問題に対処できるのだ.
  • パニックについても考えてみよう.人類への最大の脅威はなんだろうか.1960年代に,何人かの思想家たちは,それは人口爆発と核戦争,そして倦怠だと主張した.倦怠だって? そう,彼等は生産性が極大化しすべてが供給されるようになる世界で人類が何もすることがなくなることを恐れたのだ.50年後,私には人類はこの問題(あるいはそもそもそんな問題があったのか?)を解決したように思える.アメリカ人は1970年以降ますます「人生はエキサイティングだ」と答えるようになっている.

そのグラフが掲載されている.アメリカ人はこの50年間で「とても幸福」と答える人の割合が30~35%のゾーンの中にあり,「とてもエキサイティング」と答える人の割合が45%近辺から50%以上に増加している.ソースはスミス,サン,シャピロ2015.

  • グラフが別の方向を示しているのは矛盾ではない.意味ある人生を切り開く人々はよりストレスや競争や心配に晒される.不安が大人の責任を意識する若者期に上昇し,大人になってそれに慣れて安定すると減少することの意味を考えてみよう.人々が本来そうであるべきほど幸福でないのは,彼等が現代の大人の人生をその心配とエキサイトメントと共に味わっているからなのだろう.そもそもの「啓蒙」の意味は結局「人類の自ら招いた未熟さからの脱出」であるのだから.

 
幸福についてのピンカーの議論はここまでの進歩の議論と少し異なって曲がりくねっていてわかりにくい.それは世界全体では幸福度も上昇傾向を続けているとある程度主張可能なのに対して,少なくともアメリカではここ50年間で幸福度が上がっていると主張できないからだろう.そしてそれは日本でも同様であるように見える.
そしてアメリカ人が健康や寿命や教育や娯楽の増加ほど幸福になっていないことについていろいろ考察している.ピンカーの結論は,まず進歩は,世界の諸問題を自覚することによりその解決を進め,また人生をより意味のあるエキサイティングなものにしている.そしてわずかな不安の増加は十分それに引き合うというものだ.
日本でも人生がエキサイティングだと答える人の割合が増えているのだろうか.なかなか微妙なところのようにも思える.