War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その64

 
14世紀が始まるころ,フランスはある種の黄金時代だったが,そこから崩壊する.
ターチンはこの基本メカニズムはマルサス過程だとするが,それだけでは崩壊から回復への遅れが説明できないとして,支配層のダイナミクスをより詳しくみることが必要だと説く.そして中世盛期の人口増加は一般市民を食料価格上昇と賃金低下による苦境に陥れたが,貴族層はむしろ利益を得たのだということを説明する.しかしそれはもちろん持続不可能で,その流れは反転する.反転は貴族層の相対的人口増加がきっかけとなったというのがターチンの説明になる.
 

第8章 運命の車輪の逆側:栄光の13世紀から絶望の14世紀へ その8

 

  • 一般人口対比の貴族層人口の劇的な増加は,生産水準を上回る一般人口増加と同じ結果を招いた.貴族層の経済状況は悪化したのだ.多くの貴族たちは,もはや自分たちの収入だけで前世代が享受できた生活水準を保てないことに気付いた.生活水準を下げることはエリートの地位を捨てることと同義であり,受け入れられなかった.彼らは農民へ増税を課し,土地の更なる利用を図り,借金した.どのやり方も長期的に維持可能なものではない.彼らは増えすぎたのだ.国家はすべての貴族層を養うことができなくなり,王家自体財政困難に陥った.増税は農民の生存を不可能にし,彼らは逃散や反乱により納税を拒否した.

 
要するに貴族層と一般層で,人口増加にタイムラグが生じたことがポイントになる.このタイムラグは貴族層が土地を持ち,一般層が労働力を持っていたことから生まれたことになる.ここから詳しく状況が説明される.歴史物を読む醍醐味だ.
 

  • 「おまえたち貴族は獲物をあさるオオカミだ.夜中に吠え,部下の財産を奪い取り,貧しいものの血と汗を食らって生きている.農民が1年かけて何とか蓄えたものを一夜で食い尽くす」と13世紀の聖職者ジャック・ド・ヴィトリが書いている.同時に彼は貴族たちに農民を虐げれば反乱という形で報いがあるとも警告している.これは予言的だった.1320年に羊飼い十字軍と呼ばれる農民の運動がフランスで起こった.農民たちを説教する破戒僧や変節僧が触媒となり,田舎の貧しい者たちはならず者と一緒にパリを行進し,宮殿に閉じこもった国王に反抗し,囚人を解放した.彼らはパリからサントンジュとアキテーヌに南下し,城を襲い,市庁舎を焼き,郊外を荒らし,ユダヤ人と癩病患者を虐殺した.彼らは一時4万人を超えたが,その後いくつかの小さなグループに分裂した.貴族たちは組織化して彼らを攻撃し,何千人もつるし首にした.

 
ジャック・ド・ヴィトリとは13世紀フランスの司祭,神学者.その著作は十字軍の歴史においては重要文献ということらしい.

 

  • 黒死病の到着は社会ピラミッドの基礎の掘り崩しプロセスを完了させた.一般的に感染症においては貧困層の死亡率の方が高い.疫病においてはそれを避ける唯一の方法は逃げることだ.都市の下層民がバタバタと倒れるなか,富裕層はデカメロンで描かれたように郊外の領地に逃げ込んだ.
  • 1348〜49年の疫病では英国人口の40%が死亡したと推定されている.領主階層の死亡率は27%であり,最上階層ではわずかに8%だった.国王で死んだのはカスティリアのアルフォンソ9世だけだった.

 
貴族層の相対的人口比が上昇するというプロセスは黒死病で加速されたというのがターチンの説明だ.ここからそれが経済的にどう影響したかが説明される.
 

  • 黒死病以降の賃金上昇と地代の低下は土地所有者たちにとってすさまじい経済的惨事となった.特に打撃を受けたのは,耕作を小作労働に頼っていた下層から中層の土地所有者たちだった.一部の小作人が所有者が死に絶えた近隣の土地を得たことにより,全体の小作人の数がさらに減少し,彼らは高い賃金を要求するようになった.
  • 英国では土地所有者たちは1351年に労働者法を定めさせ,賃金を固定化しようとした.その法は厳しく執行されたが,経済的には無力だった.それは土地所有者たちに他所より少し高い賃金を提示して労働者を集めようとするインセンティブを与え,フリーライダー問題を引き起こしたのだ.法律は高い賃金を提示する領主を罰せずに,それを受け入れた労働者のみを罰するものだった.このため民衆はその法を憎み,その法の執行は1381年の民衆蜂起の大きな要因となった.

 
価格を固定しようとする法律は最終的には需要と供給の法則に勝てない(結局価格を強制的に据え置こうとすると供給されなくなる)ものだが,その料金を提示する方を罰さずに,受け入れた方のみ罰するという法律もすさまじい.それを厳正に執行すれば当然労働者たちの激しい敵意を生むだろう.
 

  • 上層の階級の状況はまだましだったが,それも1380年ごろまでだった.大領主たちは武装した家臣団を使って農民たちを脅し,1348年以前の地代と賃金水準を受け入れるように強要した.また逃げ出した農奴を見つけて捕らえ,耕作に戻したり,罰を与えたりした.つまりしばらくの間経済条件を強制的に押し付けることができたのだ.極く一部の領主はこのような強制的な手法により収入を増加させることもできたようだ.(いくつかの具体的な例が示されている)
  • 状況はフランスでも同じだった.貴族たちは収入を維持しようと農民たちをより抑圧した.それは1358年にジャックリーの乱として知られる暴動を引き起こした.暴動はすぐに鎮圧されたが,それは支配階層にとっては衝撃だった.直接的な暴動より影響が大きかったのは,不利な条件を押し付けられた農民による静かな棄村,逃散の動きだった.抑圧的な領主はある日耕作者がいなくなっているのに気付くのだ.
  • 黒死病から1世代後,領主たちが需要と供給の法則に屈したのは明らかだった.フランスの中世史研究家ギイ・ボワの推定によると,ほとんどの封建領主たちは収入の半分から3/4を失った(具体例がいくつか示されている).彼らの収入が低下した一方で,賃金上昇により工業製品の価格は上昇した.13世紀後半に貴族の繁栄をもたらしたダイナミズムが100年後に反転したのだ.

 

 
 
上層階級は,権力を用いて,なおしばらくは一般階層からの搾取を続けることができたが,結局それは維持不可能だ.不利な条件を押し付けようとしても,最終的には取引を拒否されることになる.