War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その65

 
 
14世紀が始まるころ,フランスはある種の黄金時代だったが,そこから崩壊する.
ターチンはこの基本メカニズムはマルサス過程だとするが,それだけでは崩壊から回復への遅れが説明できないとして,支配層のダイナミクスをより詳しくみることが必要だと説く.
人口増加による食料不足はまず一般市民を直撃するが,土地を所有する貴族層は短期的には逆に利益を得る.しかしそれは貴族層の人口を相対的に過剰にし,ついに貴族層も苦難に陥る.
 

第8章 運命の車輪の逆側:栄光の13世紀から絶望の14世紀へ その9

 

  • 農民による余剰生産が縮小する中で,それに支えられてきた貴族の人口は増加した.これは貴族たちは生活水準を落とす(つまり貴族の地位を手放す)か,何か別のことを試みるしかないことを意味する.1300年当時収入が25〜50リーブル程度だった下層領主たちはその貴族の地位を失うリスクに直面していた.貴族の地位を保つためには他の貴族からリソースを奪うしかない.エリート間の闘争が激しく行われるようになった.

 
貴族層は苦難を解決するために互いに争うようになったというのがターチンの説明になる.ここからその様子が詳しく解説される.
 

  • 1300年から1350年にかけてフランス社会の紐帯が,まず辺境でそして後にコア地域で,ほどけ始めた.ガスコーニュではアルマニャック家とフォワ家がベアルンの子爵位をめぐって抗争した.この確執は片方の家系の完全な消滅までその後250年続いた.大領主が爵位をめぐって争う中,下層貴族たちは私闘に明け暮れた.

 
この辺の歴史には詳しくないが,ググるとこのような本がヒットする.

 

  • フランドルでは王家につながる名門貴族と新興ブルジョワ間の緊張が高まっていた.新興ブルジョワたちは労働者たちを突撃隊として使った.1302年には,権力闘争がブリュージュの暴動を引き起こし,西フランドルを席巻した.国王フィリップ4世は鎮圧の軍隊を派遣したが,フランドルの歩兵部隊はフランス貴族中心の王国騎兵隊をコルトレイクの戦いで打ち破った.1325〜26年にフランドルの都市コミュニティはフランドル伯からの独立を試みたが,フランスの騎士たちはカセルの戦いで勝利して,コルトレイクの雪辱を果たした.しかし1337年にはゲントのフランドル都市連合がフランドル伯に対して蜂起し,指導者アルテヴェルデはフランドル伯を追放した.都市連合は英国と通商条約を結び,1340年にはエドワード3世を君主と認め,それは(百年戦争の)クレシーの戦いに直接つながることになる.

 

 

  • 北フランスと東フランス(ピカルディとブルゴーニュ)では男爵による国王徴税反対の動きが起こった.アルトワ郡における中央権力に対する反抗はロベール・アルトワとその伯母マホによる郡の所有をめぐる争いにより複雑な経緯をたどった.ロベールは敗北し,英国に逃れ,百年戦争でエドワード3世に組みすることになる.
  • 1341年にブルターニュは,公爵のジョン3世が後継を決めずに亡くなった時に内戦状態になった.承継はブロワとモンフォールの間で争われた.内戦の中で中層以下の貴族と西のケルトはモンフォール側につき,上層貴族と東のブルジョワたちはブロワ側についた.英国はモンフォールに肩入れして突撃騎兵(chevauchée)を供給し,レーヌ,ヴァンヌ,ナントの要塞を包囲した.

 

  • ここでの明瞭なパターンはそれぞれの地域で,争いは内戦として始まり,その片方が英国のエドワード3世を引き入れたということだ.フランドルへの介入を正当化するためにエドワード3世にフランス王位を主張すべきだと吹き込んだのは,アルテヴェルドだったといわれている.

 
ターチンの説明は,急速に苦境に陥った貴族層や新興ブルジョワの内部抗争こそが,英国を引き入れることで,百年戦争を引き起こしたというものになる.