Bad Acts and Guilty Minds 第1章 必要性 発明の母 その1

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)



さて第1章はいきなり紀元4300年のスペルンシアン星のニューガースの最高裁で開かれたケーススタディから始まる.この事案の説明がまるまる3ページを使った詳細なもので,いかにもアメリカのオタクっぽい法律家のものだ.

非常に簡略化して説明すると洞窟探索に出かけた科学者5人が落盤に遭い閉じ込められ,水はあるものの食料がなくなる.外との連絡は救出まであと1週間かかるという連絡を最後に不可能になる.しかし食料はなくなり,全員餓死するよりはとくじ引きで犠牲者を選んで,殺して食べたというものだ.


ここで参考図書で先回りのお勉強をしておこう.


日本法ではこれは緊急避難という違法性阻却事由に当たりそうである.(もっとも責任阻却事由とする有力説もあるようだ)
日本刑法はフランス,ドイツの啓蒙主義の影響を受けた刑法典の流れを引くもので,緊急避難については要件が割と明確に定められている

刑法第37条
自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難を避けるため,やむを得ずにした行為は,これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り,罰しない.ただし,その程度を超えた行為は,情状により,その刑を減軽し,又は免除することができる.


英米法ではこのような場合には「Principle of Necessity」「必要の原則」と呼ぶようである.
アメリカ刑法ではこれが違法性阻却によるものか責任阻却であるか自体が争われているようだ.これはコモンローの伝統であって,単一の定義はない,というわけで,残り物の正当化抗弁と呼ばれたりもするとある.


本書は英米法における法原則の解説の伝統にしたがって,それが確立した判例の解説がある.
子供を学校に通わせる法的義務に対して,子供の命の危険があるので従わなかったケース,事故のあと同乗者に命の危険があるとして(法的義務に反して)現場を離れたケース,船長に従う義務のある船員が,嵐による難破の危険があると判断して逆らったケースなどが紹介されている.



では「必要なら法を犯していい」と一般化できるのか?カッツはそれは否定し,このスペルンシアン星のケースについてこれを利用して無罪にすることがなぜそんなにしっくり来ないのか考えてみようという.そして難しいケースこそが,法を解釈する試金石になるのだと説明している.(そしてそれはその背後にある道徳や倫理についても同じだろう)いろいろしっくり来ない理由が上げられているが,最大のポイントは殺人のような重い犯罪にこの原則が適用できるのかということだ.
(ちなみに日本法では明文規定があるので,生命に対するリスクに対して同害までは犯罪を阻却する.つまり殺人にも緊急避難は適用されるということについて争いはないようだ)


ここでカッツは英米法の判例に実際にあったハードケースを2例紹介している.
いずれの船の遭難に関するもので,最初は難破船の救命ボートに定員以上乗り込み,船員が遭難のリスクを避けるために幾人かの男性乗客を海に放り込んで殺したというもの,2例目は遭難し漂流したヨットの中で,全員餓死のリスクからもっとも弱っていた乗組員を殺して食べてしまった事例だ.(両者あわせて9ページにわたって詳細に紹介されている)

いずれも有罪になり恩赦となっているが,殺人がこの「必要性の原則」にかかりうるかについて2つの判例は分かれている.


カッツは法律の議論の前に「有罪で恩赦にする」という解決法について論評している.これは社会的には犯罪と宣言するということになる.もし罰すべきでないと考えるのなら正面から犯罪なのかそうでないかを議論しなければならないと評している.それはそういうことだろう.


このあとカッツは法的な議論を始めている.
まず正当防衛は使えない.なぜなら正当防衛は不法な侵害者に対する防衛に限られるからだ.このケースの被害者は不法な侵害者ではない.


次にカッツが持ち出すのは「自然法」の議論だ.法律は正常な状態の社会の中での人と人のあり方を定めたもので,異常な状況ではそもそも適用がないと考えるべきだという議論だ.カッツはこれは定義があいまいでとりがたいとしているようだ.
しかしこの考え方はなにがしかの真理を含んでいるように思われる.立法者がまったく想定していない状況においてどう考えるべきかというのは,ヒトの進化的な過去に生じ得なかった状況に置ける道徳律の問題とパラレルな問題だろう.


「必要性の原則」を適用するとして,殺人に適用して良いのか,その際に人数だけで決めて良いのかというのが次の論点だ.
過去の判例でも判事の意見は割れているようだ.「誰かを救うために誰かを殺して良いという法はない」とか「このような場合には皆で死ぬべきだ」というような意見もあるようだ.
カッツは暴走列車の事例(5人を救うためにポイントを切り替えて1人を犠牲にして良いか),マッドドクターの事例(5人の病人を救うために1人を殺して臓器移植して良いか)を持ち出して議論している.人数の問題と行為の違法性(作為か不作為か)などを総合して比較考量すればいいが,その判断は難しいだろうという議論だが,歯切れは悪い.
カッツは比較考量の難しさの例として,冷戦時代に生じた東ドイツから脱出するためにハイジャックした事例の紹介もしている.


ここまでのカッツの議論は,「『必要性の原則』は殺人罪にも適用すべきだろう.そしてその際には命の数だけではなく,殺人行為の態様などの要素も考慮すべきだろう,そしてそれは時に非常に難しい判断になるだろう」ということになるだろう.
カッツはなぜ行為の態様の微妙な部分が重大な問題になるのか(ポイントの切り替えなら許せそうだが,臓器移植は駄目だと思うのか)について説明しようとはしていないので,ヒトの道徳感覚にかかるもっとも興味深い問題には答えていないように思われる.


私が思うに,法律が社会全体にとってよいことが行われるようなガイドでのみあるべきなら人数の重みはもっと大きくてしかるべきなのだろう.しかしヒトの生の感覚にフィットしなければよい法律にはなり得ない.だから行為の態様が問題になるのだと考えるべきなのだろう.


日本法においては,19世紀のフランスドイツの啓蒙主義法典化運動において,緊急避難の要件が一旦抽象的に定められてしまっている(要件は現在の危難を避けるためにやむを得ない,同害を超えないの2点,また行為の態様は比較衡量の要素として問われていない.)ので実務法律家はそこに悩む必要がない.日本法においてはある人の命を救うために他の人を殺すことは犯罪ではない.だから暴走列車のポイント切り替えだけではなく,マッドドクターも(もし本当にその5人の命を救う方法がそれしかないという状況下なら,そして通常はこの条件を認めないということになるのだろう)殺人ではないことになると思われる.そして行為の態様を含めたその是非論は道徳・倫理問題として刑法の外側案件ということになるのだろう.
英米の法律家は,このような基礎的な犯罪要件が明文化されていないこと,また陪審制であることなどから常にこのような根源的な問題に向き合っているということなのだろうか.このあたりは社会文化的にもなかなか興味深い問題なのかもしれない.