「Missing the Revolution」 第4章 進化的説明:科学と価値 その2


Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists

Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists


ウリカ・セーゲルストローレによる社会生物学論争の総括.


前回エントリーを立ててから,結局この機会にと「社会生物学論争史 1,2」(原題「Defenders of the Truth」)をもう一度読み直してみることになった.(何しろ700ページを超えていて結構なボリュームだったが)
本書「Missing the Revolution」ではセーゲルストローレは親社会生物学的にまとめているが,この「社会生物学論争史 1,2」ではより公平に両者を取り扱おうとしており,丹念なインタビューによって論争者双方のバックグラウンドを見せてくれている.そしてとにかく包括的な労作で,いろいろな場面で進化生物学周りで議論させるネタはほとんどこの論争のどこかで姿を現していることに今更ながら驚かされる.ここでは「社会生物学論争史 1,2」の内容もふまえて続きを紹介していこう.


その前に前回のグールドたちの政治的なウィルソン批判の背景として分子遺伝学者ルウォンティンの科学観について補足しておこう.ルウォンティンはモデルを立て,データをとり,その相関から因果を推測するという学問スタイルを嫌悪していた.それは「いい加減な」「悪しき科学」であり,「良い科学」とはきちんと分子的な仕組みから因果を検証していくべきものであると考えていたということが何度も強調されている.はっきりしたメカニズムの詳細がわからないうちに推測でものを言うことが許せなかったのだ.これがルウォンティンとウィルソンがどうしても相容れなかった根本の理由であり,社会生物学進化心理学批判で「遺伝子を見せろ」などという批判がある遠因にもなっているようだ.




6.ウィルソンの本当のアジェンダ


ウィルソンのもともとの壮大な問題意識は,「人類はその狩猟採集時代を通して形作られた本性が現代テクノロジー人口爆発による最近の状況に適応できず,人類滅亡の危機にあるのではないか.」というところにある.それを救うには,文化を現在の環境に適応させなければならない.それには生物学的に知見を社会学的な知見と統合して対応すべきだということになる.
そしてあとから振り返ってみると,ウィルソンは幾多の紆余曲折を経て,政治的に正しくない(現状肯定のための科学主導者の)ウィルソンから政治的に正しい環境保護主義者の)への変身を行ってきたように見えるが,このような観点から見るとウィルソンの行動・言説は,「社会生物学」から「バイオフィリア」「生命の多様性」「コンシリエンス」に至るまで見事に一貫している.

そしてこの壮大なプログラムの一部にはヒトの道徳の根源を進化的に理解するということが含まれている.ウィルソンはこれは自然主義的誤謬ではないと考えていた.(そして通常言われる「自然主義的誤謬」とは明確に異なっており,おそらくそうではないのだろう.ウィルソンにとっての価値は人類の滅亡を防ぐほうが良いという価値観からきているのだから)
本書ではふれられていないが,それはコンシリエンスでも言及されている「シロアリの倫理」を読むとよくわかる.シロアリの倫理というのはもしシロアリが倫理・道徳を語れるなら「暗闇への愛,個人の自由の否定,カースト制の賛美,自らの死体を同胞に食べられることの恍惚」などを熱狂的に歌い上げるだろうというもので,ヒトの道徳はヒトの進化的な過去に大きく影響を受けているに違いないということをわかりやすく示しているものだ.実際にハウザーの「モラルマインズ」などを読むとそれはひしひしとよくわかる.

しかし論争においてはこれは政治プログラムだと誤解されたと言うことになる.



7. 失われた聖櫃の探索:グールドとルウォンティン


論争は政治的なものから科学的なものに姿を変えていく.そのもっとも典型的なのが,グールドとルウォンティンによる適応主義への批判だ.有名なスパンドレル論文が紹介されている.(この論争のちょっと面白いところは,デネットが,(もっと深い哲学的な議論の前ぶりとして)このサンマルコ寺院の該当建築用語は「スパンドレル」ではなく「ペンデンティブ」と呼ぶべきだと指摘した上で,ドームを支持するための様式はほかにもあったのだから,実際に美的理由によって選ばれたのではないかと反論し,それに対して某建築家が,あの時代にはブラケットやスキンチは技術的には無理だったと再反論されているという幕間劇だ.デネットがちょっとへこんでいるところはなかなか想像しにくくてにやっとさせられる)

科学的な議論の側面としては,このような適応前提の取り組みが研究プログラムとして意味をなさないのではないかということになる.これにはドーキンスが,きわめて生産的な仮説構築のプログラムだと反論した.(当然デネットもきちんと分析している)のちにグールドは代替仮説をもっと真剣に検討すべきだという主張にまで後退した.
結局仮説構築と検証が同義反復にならないようなうまい検証を考えればこの批判は容易にかわすことができるのではないだろうか.ある意味ではよい検証を探しましょうという生産的な議論となったと評価できるのかもしれない.


ここでセーゲルストローレは面白い仮説を提示している.セーゲルストローレ自身は社会学者であり,ある論争がどのような背景,動機の上に成り立っていたのかについて相当丁寧に追っている.彼女によると,動機を分析していくと,グールドの本当の狙いはこの適応主義への反発にあったのであり,それを効果的に行うために,わざと政治的にウィルソンをたたいたのではないか(トロイの木馬説)という可能性があるという.
またウィルソンの方も,自分の主張をより取り上げてもらうために,あえて政治的に批判されることがわかっていてもあのような物言いを行ったのではないかという可能性を示唆している.
もっとも最終的にセーゲルストローレは両方ともその可能性を否定している.



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それぞれの当事者の行動,言説の動機をさぐっていくそのねちっこさはとても印象的だ.ヒトは何らかのインセンティブに基づいて動いているのであって,その構造を再構成することにより事象の理解が深まるという分析スタイルが強く現れている.




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ヒトの道徳観が非常に特異的であることを明快に論じている.
私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070711