「スウィート・ドリームズ」

スウィート・ドリームズ (NTT出版ライブラリーレゾナント059)

スウィート・ドリームズ (NTT出版ライブラリーレゾナント059)


哲学者ダニエル・デネットによる「意識」についてのエッセイ集.デネットは1991年「Consciousness Explained」(邦題「解明される意識」)において,「意識」の問題を取り上げ,脳内に「意識」を司っている特別の部位や中枢はないのであり,ニューロンのネットワークから生まれる現象として考えるべきだという主張を整理している.今風にいうと「中の人などいない」ということになるだろう.

その後デネットは進化生物学に興味の中心を移していったのだが,この「意識」にかかる(デネットにとっては既に解決したはずの)問題についてその後15年間に様々な「やっぱり中の人はいるんじゃないのか」的な議論が跳梁跋扈する有様となり,それらへの反論を1冊にまとめた本が本書だということになる.


この新しい「中の人」の議論は,哲学者のあいだでいう「ゾンビ」と「クオリア」の議論ということになる.「ゾンビ」の議論とは,「あるものが意識を持っているかどうかは外からは判別できない」という主張であり,「クオリア」の議論とは「意識を持ったもののみがクオリアを感じることができるのであり,それは科学では捉えることができない(あるいはゾンビはクオリアを感じない)」という主張だ.要するに「『意識』には何か科学では捉えられない神秘がある」とまじめに主張しているということになる.(その代表者はチャルマーズ,ネーゲル,サール,フォーダーといった人たちということになる)


デネットは様々な流麗な思考実験によってこれらの主張を論破していく.
まず意識に神秘があるという主張はライプニッツにまでさかのぼるのだが,今日コンピュータの発達により,意識を機能主義から説明することがまったく不可能だと思える状況はなくなっただろう(ライプニッツも今日のコンピュータを見れは趣旨を変えるだろう)とまず主張する.ゾンビの議論については,論者は「ゾンビが不可能であることを立証する基本法則がない」とがんばるが,誰も「似非カンガルーの存在が不可能であることを示す基本法則」など要求しないのだと切って捨てている.*1


次は脳内に外からアクセスできない神秘があるという主張については,火星から来た科学者がヒトの無意識下の心の動き(プライミング効果など)をリサーチするという思考実験により,何か「意識があるものにしかアクセスできないものがある」というのは錯覚に過ぎないと説明する.
そしてリサーチ方法については『解明される意識』で主張したヘテロ現象学*2によりこの問題に向かうべきであり,問われるのは,「(錯覚で現実と感じる)現象が何故実在するのか」ではなく「何故ヒトは錯覚するのか」(つまり「ゾンビはいるのか」ではなく「チャルマーズは何故ゾンビが実在するかもしれないという錯覚を持つのか」)であるべきだと主張している.


次に特別注文トランプデッキというマジックの種を明かしながら,意識が科学によって捉えられないと錯覚する理由についての1つの仮説を提示している.(種は聴衆の懐疑に応じて異なるトリックを何通りも用意しておいて,そのたびに異なるトリックを用いるというもの)


クオリアについては「変化盲」の実験を提示し,「無意識下で色の変化を見ていた場合にそれはクオリアを変化させたのか」と問いかけ,クオリアの主張がどう答えても破綻することを示す.
「変化している」と答えるなら,それは意識だけがアクセスできるものではなくなる.「変化していない」というなら,それはある人がそう思ったかどうかだけの話になり,何故そう思うのかを探求していくという話になる.
「たまたまアクセスしていなかったからわからなかったのだ,いずれにしても科学ではアクセスできない」とがんばることはできるが,そうなると,そもそもそんなものがあると信じる理由もなくなるだろうとたたみかけ,さらに相貌失認症やカプグラス妄想などの無意識の判断と意識上の判断が食い違う実例を挙げて,クオリアという概念はこのような現実を説明できないと主張している.


さらにクオリアについて「色の経験は,意識を持つその人にしかわからないはずだ」という主張を丁寧に反駁していく.ここは思考実験の精華のようで読み応えがある.
クオリア支持者は,「これまでの生涯ずっと白黒の部屋にいた色彩学者メアリは,色彩についてすべてを知識として知っていたとしても,その部屋を出て始めて色を見れば,驚くはずだ」と議論する.デネットはまず「『非常にがんばって研究した結果,どのような経験か想像できた』とメアリが主張すればどうなのか」と問いかけ,次に,「雷に打たれて色を見たときとまったく同じ脳の状態になったらどうか」と問いかける.そして真打ちとしてロボットメアリを登場させ,まず「色を見ればそうなるはずであるように電子頭脳のレジスタをいじればどうか」,さらに,それを(白黒の部屋という制約から)禁止しているという議論をするとしても,「ロボットの頭脳のシミュレーションを行ってレジスタがそうなったらその後にどういう反応が生じるかを知ればどうなのか」と続けている.要するに意識を持つ主体でなくとも「色を見る」ということは理解できるのであり,「できないはずだ」と思うのは錯覚だという主張だ.
デネットによるとクオリアの主張は「ドルには,円やユーロにはない,何か本質的な購買力があるのだ」と考える素朴なアメリカ人の主張と何ら変わらないのであるということだ.


デネットは,「中の人」議論を木っ端みじんにした後,自身の「意識」の仮説,「脳内名声モデル」を説明している.脳の様々な無意識下で働くモジュールのうちに,一部のニューロン集団が注意の増幅によって駆動されて脳全体にかかわる状態になったものが意識だというものだ.なかなか面白いところもあるが,個人的には,意識には(後付けの理由作成など)このモデルだけでは説明できないような特性もあるように思われるところだ.
最後にデネットはかつて唱えた意識のミーム説「ヒトの意識は主として文化が生みだすミーム製造機械である」にも触れ,この脳内名声モデルによる注意増幅が動物にも見られるのであれば,動物にも何らかの意識があることになり,ミーム説は否定されることになるだろうと述べている.このミーム説はデネットの主張にしては珍しく筋悪であるように思われ,ここで撤退を表明したということだろうか.


「意識」や「クオリア」を巡る最近の哲学的議論*3が基礎知識としてあることが前提の書物であり,そのあたりは若干の予習があった方が読みやすいだろう.しかしデネットの議論は科学的手法を信頼できる人にとってはある意味当然の主張であり,またわかりやすい言葉で平易に書かれており,「哲学的議論を駆使することによる『直観的ではあるがどこか奇妙な主張』の正当性についてがんばる人たちへの反論」という図式は,それほど把握困難ではない.デネットの思考実験を積み重ねる議論は流麗であり,「中の人」や「脳内の神秘」を主張する筋悪の議論を鮮やかに料理している.もちろん意識の錯覚は私にもあるわけで,当初メアリの議論に素朴に納得していた自分自身の錯覚が曝かれ,粉々に粉砕される経験は,私にとってはなかなか痛快な読書経験であった.



関連書籍

Sweet Dreams: Philosophical Obstacles to a Science of Consciousness (Jean Nicod Lectures)

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原書 表紙の絵は意識を主題にしたものでスタインバーグによるもの.本書の中でも取り上げられている


解明される意識

解明される意識


意識にかかるデネットの前作.本書はこの「解明される意識」の15年後の増補部分というべきものだから,まず先に読んでおくのがよいだろう.


Consciousness Explained

Consciousness Explained


同原書


意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

意識する心―脳と精神の根本理論を求めて

マインド―心の哲学

マインド―心の哲学

このあたりが論敵ということになるのだろう.いずれも未読

*1:ここで機能主義に関して,「心臓がポンプでありさえすれば材料はなんでもいい」のと同じように「脳は計算機として機能さえすれば中身はなんでもいい」という主張が,神経科学者の反発をまねき議論がややこしくなってしまったと指摘しておりなかなか笑える

*2:デネットは「客観的な物理科学とその3人称的視点のこだわりから出発して,最大限私秘的で表現不可能な主観的な経験を尊重しながらも,科学の方法論的原則を絶対に放棄しない現象学記述の方法にいたる中立的な道」と説明している.要するに主観的な経験の報告もデータとして認める普通の科学的な方法だということだと思われる

*3:クオリアについてリサーチしている神経学者,脳科学者についてのデネットのご託宣は,「彼等はクオリア支持派の哲学に影響されて研究を始めたのだが,彼等のほとんどのものの手法はまっとうなヘテロ現象学によるものであり,クオリア支持派の哲学者が本当は何を主張しているかを知ると驚くだろう」というものだ