E. O. Wilsonは,アリについての世界的権威であり,学問分野の統合を主張する巨人であり,70年代の社会生物学論争の一方の主人公(というか被害者)であるわけだが,最近ではD. S. Wilsonのグループ淘汰理論の論文や,Martin Nowak et al.のNatureに載せられた包括適応度理論をこき下ろす悪名高い論文の共著者になっている.おそらく,これらの論文の主要なところはD. S. WilsonやMartin Nowakの手によるもので,E. O. Wilson自身は(理論的な諸問題への理解が怪しい中で)それに賛同して,社会性昆虫についてのコメントを担当しているということなのだろう.
いずれにせよE. O. Wilsonは「血縁淘汰・包括適応度理論を否定してグループ淘汰理論で真社会性を説明する」というのが自分自身の理論的な立場だと理解していると思われる.私はまだ読んでいないが,最近出された「The Social Conquest of Earth」では,ヒトと社会性昆虫の題材にそのような主張が全面的に展開されているようだ.
そして今回「The Social Conquest of Earth」への書評という形でドーキンスが包括適応度理論とグループ淘汰理論についての意見を表明している.この中では例のNature論文も扱われている.これまで本ブログではNowak et al.のNature論文を追ってきてもいるので,このドーキンスの書評も紹介しておこう.(なお私はこの「The Social Conquest of Earth」については未読なので書評の適切性については判断しきれないところがある.)
さらにこの書評に対してグループ淘汰理論の守護聖人たるD. S. Wilsonが早速反応している.http://www.thisviewoflife.com/index.php/magazine/articles/richard-dawkins-edward-o.-wilson-and-the-consensus-of-the-many(これは「その2」で取り扱う予定)
まず書評の元になったE. O. Wilsonの最新刊
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問題のDawkinsによる書評はここにある.
http://richarddawkins.net/articles/646009-the-descent-of-edward-wilson
まず書評の題がなかなかふるっている.「The Descent of Edward Wilson」.これはもちろんダーウィンの「The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex」から来ているのだろう.この書名については「人間の由来(と性淘汰)」と訳されることが多いわけだが,ここでは「Descent」は家系や血統が下ってくるという意味で使われていて「人類の起源および現在までの血統的なつながり」というぐらいの意味を持つ書名だと思われる.
そしてこの書評の題の「Descent」はさらに原義の「下ること」に重きが置かれていて,いわば「エドワード・ウィルソンの凋落」とでも訳すべきものだろう.
冒頭では「種の起源」の草稿を読んだ出版社のレフェリーが「この本は進化をめぐるたわごとを全部捨ててハトの本とした方がいい」といったという逸話や,「チャタレー夫人の恋人」のある書評が(おそらく皮肉として)「狩猟場の管理の本としてなかなか面白いが,それを体系的に知るにはあちこちのページに飛ばなければならず,定番の本には及ばない」としていたことを紹介している.
要するに本書「The Social Conquest of Earth」において,確かにアリの世界的権威としてのウィルソンによる社会性昆虫の話やヒトの社会との比較の記述は大変興味深いのだが,それを読むためにはあちこちにばらまかれている間違いだらけのグループ淘汰礼賛の進化理論を読まされてしまうというわけだ.
ではドーキンスの「ウィルソン流のグループ淘汰理論」への批判はどう書かれているだろうか.
まず全体的な問題として「進化はグループ間の生存率の差によって進む」という説明の仕方があまりにいい加減だと批判されている.
2グループの間で(ここでは英国のアカリスと外来種のハイイロリスが題材に取られている.アカリスは今や絶滅の恐れがあるほど追い詰められているらしい)生存率に差があれば,何らかの結果が生じるが,それを単純に「進化」と呼ぶべきではないというのだ.ウィルソンは2種のリスを使うほど馬鹿げたことは書いていないが,そのいい加減な記述は同じことだというわけだ.
しかしもしE. O. Wilsonが2種の別の動物群を題材にして種間淘汰のような主張をしていないのだとすれば(「そこまで馬鹿げたことは言っていない」というのはそういうことだろう),このリスのたとえはどうなのだろうか.交配が生じているグループと他種ではちょっと話が飛びすぎているような気もする.グループ淘汰の定式化があまりにいい加減でナイーブならそれだけを問題にすればよかったのではないだろうか.やや勇み足的な気もするところだ.
ここからは各論
1. 批判の無視
最初に問題のNature論文と,それが140人の高名な進化生物学者から批判されていることを紹介している.(ここでは,もちろん科学における真実は主張者の高名さで決まるものではないが,そもそもあんな論文がNatureに載ったのは共著者のウィルソンが高名だったからだとしか思えず,そうであれば批判者に高名な学者が多く含まれると主張しても良いだろうとコメントがある)
そしてウィルソンがこのような批判について完全に無視していることを指摘し,それが傲慢尊大(原語は "the patrician hauteur" ,いかにも英国的な表現だ.)であると批判している.少なくとも自説には有力な批判があること,それに対する自説からの反論を書くべきだというわけだ.
2. 理論的な問題
ドーキンスは「利己的な遺伝子」以来の説明様式を簡潔にまとめて「包括適応度」を擁護している.
- 最適者生存というときに,何にとっての最適かという問題がまずある.そして突き詰めて考えない生物学者(biologists with non-analytical minds)は,遺伝子,個体,グループ,種,生態系と並べてマルチレベル淘汰に親近感を抱きやすい.(ここではさらに,ウィルソンは気に入らないだろうが*1,このような思考は,スティーヴン・ジェイ・グールドによって推進されたような,当たりが柔らかいだけの焦点のぼけた世界教会統一運動的なものだ "a bland, unfocussed ecumenicalism of the sort" とまで皮肉っている)
- しかしこの階層の中で,遺伝子はそれ自身が複製子であるという点で特別なものだ.そしてこれは個体以降の階層と本質的に異なる.つまり進化は遺伝子プールの中の遺伝子の生存確率の違いの結果生じるのだ.
- そして個体以降の階層はその遺伝子の生存確率がどのように決まってくるかに関わる.それは基本的に遺伝子が個体に与える表現型により決まる.だから私は個体を「ヴィークル」と呼んで遺伝子と区別するのだ.
- 自分の子を育てる行為は,自分の子に「子育て行為という表現型を与える遺伝子」のコピーがあるから,(一定の条件の下で)遺伝子頻度を上げる効果を持ち,進化することができる.
- そしてそれは直系の子孫でなくとも同じだ.これがハミルトンの偉大な洞察で,血縁淘汰理論の本質だ.
- そして血縁淘汰により進化するにも,遺伝子頻度を上げるための条件がある.これがハミルトン則で,rだけでなくB,Cも重要だ.(ウィルソンの大きな誤解は,これが全く理解できてなく,rのみが問題だと考えたところにある)そして兄弟や甥や姪はB, Cのところでこの条件を満たすのが難しいのだ.
- ハミルトンは「古典的適応度」に代わり極大化される変数として「包括適応度」を定義した.私はちょっとおどけて(でもハミルトン本人にも認めてもらい)包括適応度を「個体が極大化しようとしているように見える変数.実際には遺伝子の生存が極大化される」と定義している.
- 包括適応度は個体を「遺伝子のエージェンシー」として扱うために生みだされた概念だ.だから「個体がその包括適応度を極大化する」ことと「遺伝子がその生存確率を極大化する」ことは等価だ.
- 遺伝子の生存確率の極大化の方が簡単そうなのに何故「包括適応度」を使うのか?それは世界の中に目的を追求するようにして現れるエージェントは(多くの場合)個体だからだ.遺伝子は表現型を通じて代理的にしか作用できないのだ.
- つまり遺伝子とヴィークルとしての個体はそれぞれ異なる意味で「淘汰の単位」なのだ.遺伝子は世代を通じて生存するかどうかの単位であり,ヴィークルは遺伝子が表現型を与える単位なのだ.
- ではグループはどう考えるべきか.複製子ではあり得ない.ではヴィークルになり得るだろうか.
- この問題を(ウィルソンが誤解しているように)「個体はグループに属することにより利益を受けるか」という問題と混同してはならない.後者は様々な場合に肯定される.しかしグループ淘汰が成り立つかどうかは,グループがグループとしての表現型を持ち,それがグループの生存,死亡に影響するかどうかによるはずだ.
- グループ表現型は存在するか? 説得力のある証拠は少ない.ウィン=エドワースの挙げるなわばり制や順位制は個体表現型によりはるかに簡単に説明できる.
- 社会性昆虫の真社会性はどうだろうか.メス個体は環境条件により女王にもワーカーにも発達できる.そのような条件付きの不妊性が進化した.これは「ワーカーに発達したときに姉妹を育てることによりそのような性質の遺伝子のコピーを増やすことができる条件で進化する」とハミルトンの包括適応度を用いて(グループ淘汰を持ち出さずとも)美しく説明できる.
3. ダーウィンの間違った引用
- ダーウィンは「Descent」における一カ所の例外を除いて,常に個体淘汰の立場に徹している.
- またダーウィンは “seeds of the same stock” や "same family" と言い方を用いて不妊の去勢オス牛の肉質が人為淘汰にかかることを説明している.
- ウィルソンはこれをグループ淘汰の主張だと引用する.しかしここでの “seeds of the same stock” や "same family" という表現は(この性質が遺伝で伝わる,つまり現代的にいえば遺伝子を共有する)血縁であるというところがポイントなのだ.
4. ウィルソンの誤り
- ウィルソンは私がかつて「血縁淘汰をめぐる12の主要な誤解」の1と2にはまっている.
- まず彼は「社会生物学」で血縁淘汰を熱狂的に支持していた頃から「血縁淘汰はグループ淘汰のうちの特殊なものだ」という誤解(12のうち第2のもの)を継続している.グループには血縁個体が含まれているものもないものもあるだろう.しかし「血縁淘汰理論」は全てに適用できる.
- 彼の誤解の最たるものは「血縁淘汰は自然淘汰のうち特別で複雑なものだ」という誤解(これは第1のもの)だ.だからより「標準的」な「自然淘汰理論」で説明できれば包括適応度理論は不要だと考えてしまう.「包括適応度理論」は論理的に「自然淘汰理論」に必要とされているのだ.現代的総合は包括適応度を最初から論理的に内包していたのだ.それは誰かに指摘されるのを持っており,ハミルトンが指摘したということなのだ.包括適応度なしの自然淘汰理論はピタゴラスなしのユークリッドのようなものだ.*2
以上がドーキンスの議論のポイントだ.私の感想は以下のようなものだ,
- 1点目は確かにその通りだが,一般向けの啓蒙書ではよくあるタイプの著述振りだとも言えるだろう.ウィルソンとしては理論的な問題はNowakにまかせたということかもしれない.
- 中心になる2点目については包括適応度理論がいかに堅牢な基礎的理論であるか,そしてそれと利己的遺伝子の考え方の関係がよくわかる簡潔なまとめになっていて素晴らしい.
- しかしグループ淘汰理論に関しては中途半端だ.
- まず結局グループ表現型があり得るかどうかについて明言を避けている.これは結局「あり得ない」とは言えないということなのだろう.だからいくつかの問題が包括適応度で(より節約的に)説明可能だとしか主張できていない.
- そして何より,ナイーブグループ淘汰とD. S. ウィルソンたちの「新しいグループ淘汰」あるいは「マルチレベル淘汰理論」を区別して,前者は誤りで,後者はきちんと定式化すれば包括適応度理論と等価になるが,実務的には使いづらいとというポイントをきちんと指摘していない.社会性昆虫の不妊性がグループ淘汰の産物と言えるかどうかについては,このあたりを踏まえて議論した方が良かっただろう.(私はまだ読んでいないので断言はできないが,おそらくE. O. ウィルソンの説明振りは(冒頭にあるように)ナイーブグループ淘汰的なものなのだろう.だからドーキンスがこれほど嘆き悲しんでいるのだと思われる.であればE. O. ウィルソンの本書の記述がナイーブグループ淘汰的であることをきちんと示しておく方が良かっただろう)*3
- そしてきちんと定式化されたマルチレベル淘汰理論が包括適応度理論と等価であるということは,「グループはヴィークルたり得るか」という問いへの答えは(グループ内の血縁度が高いなどの条件下で)YESということになるはずだ.
- 3点目,4点目についてはその通りというほかないだろう*4.要するにウィルソンは最初から理解が怪しかったのだ.
- それにしてもE. O. ウィルソンの凋落振りはドーキンスにとっては本当に悲憤慷慨ものなのだろう.やや筆が滑りすぎているところもあるように感じられる.
ドーキンスは最後にこういって書評を締めくくっている.
「ドロシー・パーカーの言葉を借りると,本書は軽く放り出すべき本ではない.力一杯投げ捨てるべき本だ.深い悲しみとともに」*5
ここまで書かれているのだから「The Social Conquest of Earth」は,アリの権威,生物多様性の偉大な牽引役であり,進化理論を様々な問題に応用し学問分野の統合を図るべきだというコンシリエンスの提唱者でもあるE. O. ウィルソンに敬意を抱いてきた私のような読者には読み進めるのがかなりつらい本なのだろう.私はこれまでE. O. ウィルソンの本については「社会生物学」も含め,(特に最近の本は)できるだけ読むようにしてきたのだが,(Nature論文以降ある程度覚悟していたとは言え)なかなか複雑で悲しい気分である.
関連事項
E. O. Wilsonのグループ淘汰擁護,あるいは血縁淘汰攻撃論文
- Rethinking the Theoretical Foundation of Sociobiology (2007) David Sloan Wilson, Edward O. Wilson The Quarterly Review of Biology, Volume 82: 327-348.
私の紹介はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080330
- The evolution of eusociality (2010). Nowak MA, CE Tarnita, EO Wilson Nature 466: 1057-1062.
本ブログでhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101012以降半年以上かけて紹介してきた論文.私のまとめはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110418
「血縁淘汰をめぐる12の誤解」について
せっかくだからドーキンスのいう「血縁淘汰をめぐる12の誤解」を紹介しておこう.これは彼の1979年の論文「Twelve Misunderstandings of Kin Selection」Z. Tierpsychol., 51, 184―200 (1979)(http://c2377742.cdn.cloudfiles.rackspacecloud.com/Twelve%20Misunderstandings%20of%20Kin%20Selection.pdf参照)で整理されたものだ.なお「延長された表現型」に訳注として簡単な解説が載せられている.
- 血縁淘汰は自然淘汰の特殊で複雑な種類のものであり,「個体淘汰」では不十分とわかったときにだけ援用されるべきものである.
- 血縁淘汰はグループ淘汰の一形態である
- 血縁淘汰理論は動物がありそうにない認知的理性を持っていることを要求する
- 近縁者に対する利他的行為という,複雑な何かの「ための」遺伝子を想像することは難しい.
- ある種の全構成員は遺伝子の99%以上を共有している.それなら何故淘汰は普遍的利他主義を進化させなかったのか.(だから血縁淘汰は間違っている)
- 血縁淘汰はまれな遺伝子に対してのみ働く.
- 同一のクローン間には必然的に利他主義が期待される
- 不妊のワーカーは特に自分の血縁度の高い他の不妊ワーカーを世話することで自分の遺伝子を広げている.
- ある個体にとっての両親共有の兄弟の価値は自分の子供と同じなのだから親子間のコンフリクトにかかるトリヴァースの理論は単婚性の種には当てはまらない.
- 単純に近縁者を余計に生みだすという理由で個体は同系交配する傾向にあるはずである.
- きっちりとした値を持った血縁度と確率的血縁度の間には重要な差がある.(その違いは予想される利他行為の種類に影響する)
- 動物は血縁度に比例した量の利他主義を各血縁者に分配すると予想される.
1点目に関しては上記のドーキンスのコメントで十分だろう.包括適応度理論がより一般化された理論で,血縁度を使わなくてもよい自然淘汰は前提条件がある場合の特殊な理論なのだ.
2点目に関しては,先ほども書いたがこの論文のはるか後に提唱された「新しいグループ淘汰理論」あるいは「マルチレベル淘汰理論」はきちんと定式化すると包括適応度理論と等価になる.これはこの論文の後の理論的な進歩というべきものだろう.ドーキンスがこの点には触れようとしないのは(ドーキンスファンである)私としてはまことに残念だ.
3,4点目は行動の進化にかかる初歩的な誤解というべきものだ.
5,6点目は「血縁度」の定義の本質的な性質にかかるものだ.血縁度は単純な遺伝子共有確率ではない,遺伝子プール内での平均的な共有率との相対関係が問題になるのだ.(本ブログではhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101023あたりを参照.)
7,10,12点目はB,Cの重要さの問題だろう.8,9点目は誤解が幾重にも重なっている.11点目は進化が遺伝子頻度の変化によるもので基本的に統計的な現象であることの理解にかかるものだろう.
- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,遠藤知二,遠藤彰
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*1:これはもちろん社会生物学論争の因縁を指している.このあたりの「理論的にすっきりしない攻撃を行う社会生物学論争の時のヒール役」のような役回りを今度はウィルソンが担っているようにみえるという皮肉な印象はNature論文を読んだときに私も強烈に感じていたところだ
*2:これはNowakたちの論文で包括適応度理論をプトレマイオスの周転円としていることへの反論だろうと思われる.しかしピタゴラスなしのユークリッドという比喩はあまりいいものだとは思えない.
*3:結果的には(私の最初に読んだときの予想通り)D. S. ウィルソンに思いっきり噛みつかれてしまうことになる
*4:ただし,4点目の最初のポイントに関しては,上述のようにきちんと定式化した新しいグループ淘汰理論,あるいはマルチレベル淘汰理論は包括適応度理論と等価になる.
*5:ドロシー・パーカーはアメリカの詩人でウィットに効いた風刺などを得意にした人らしい.小説をこき下ろしたクォーテーションとして「This is not a novel to be tossed aside lightly. It should be thrown with great force.」というのが検索で引っかかる.この部分のドーキンスの原文は「This is not a book to be tossed lightly aside. It should be thrown with great force. And sincere regret」