Richard Dawkinsによる書評に対するD. S. Wilsonの反応:「Richard Dawkins, Edward O. Wilson, and the Consensus of the Many」


前回ドーキンスによる書評「The Descent of Edward Wilson」http://richarddawkins.net/articles/646009-the-descent-of-edward-wilsonを紹介した.
この書評は5月24日にポストされたものだ.そこではE. O. Wilsonがナイーブグループ淘汰の主張を全面的に打ち出し,包括適応度を拒絶していることについて厳しい批判がなされているのだが,E. O. Wilson流の曖昧な「ナイーブグループ淘汰」の主張を単に「グループ淘汰」と呼び,近時の包括適応度理論と等価であるきちんと定式化された「新しいグループ淘汰」と区別していなかった.読んだ瞬間,これは絶対にD. S. Wilsonが噛みついてくるなと思ったものだが,果たしてわずか5日後の5月29日にD. S. Wilsonが主催している「Evolution: This View of Life」というサイトにD. S. Wilsonから痛烈な記事「Richard Dawkins, Edward O. Wilson, and the Consensus of the Many」http://www.thisviewoflife.com/index.php/magazine/articles/richard-dawkins-edward-o.-wilson-and-the-consensus-of-the-manyが投稿された.


なおこの「Evolution: This View of Life」は様々なトピックについて進化的に考えていくというD. S. Wilsonの最近の活動に沿うべく作られたもので,なかなか面白そうなサイトになっている.
http://www.thisviewoflife.com/index.php/magazine/about


さて問題の記事の方を見てみよう.(なおここから単にウィルソンと表記したときにはD. S. Wilsonを指し,E. O. Wilsonについては必ずE. O. を表記するということにしたい)


「Richard Dawkins, Edward O. Wilson, and the Consensus of the Many」


まずウィルソンは,ドーキンスが例のNature論文について137名*1の批判があるという「権威」を持ち出したことを取り上げている.
これは血縁淘汰やグループ淘汰について研究している学者は非常にたくさんいて,ドーキンスもE. O. Wilsonもそのうちの2人にすぎないということを示しているというわけだ.
ウィルソンはさらに「例のNature論文やその反論を読むと科学コミュニティが分裂しているような印象を与えるかもしれないが,実際には分別ある科学者は大半のところに同意している.そしてこの記事はここからコンセンサスとは何か,ドーキンスとE. O. Wilsonがいかにそこから外れているのかを示したい」としている.それがこの記事の題名「Richard Dawkins, Edward O. Wilson, and the Consensus of the Many」の意味ということになる.


分別ある科学者の大半は同意するコンセンサスがあるというのはその通りだろう.しかしそこから思いっきり外れているのは(包括適応度理論を拒絶する)E. O. WilsonとMartin Nowakなのだ.ドーキンスはE. O. Wilsonの「ナイーブグループ淘汰」について「グループ淘汰」という表記をして,これとは別にきちんと定式化された「新しいグループ淘汰」があることを書いていないに過ぎないのではないだろうか.(もちろん後者について何も書いていないので両者を混同している可能性がないとは言えないが,明らかに混同しているという証拠は無い)


ここからまずコンセンサスの説明がある


<グループ淘汰と血縁淘汰の起源>

ウィルソンはこのように整理する.

  • 利他行為の進化の問題は「自分にとって不利で,属するグループにとって有利な形質はどのように進化できるのか」という問題だ.
  • 20世紀前半の科学者は「生物の進化は(個体,グループ,種,生態系という)全てのレベルで生じると曖昧に考えていた.その当時は「利他行為の進化の説明にはグループ淘汰が必要だ」とか「個体淘汰の力が強いのでグループ淘汰は難しい」という論点については気づかれていなかった.
  • 今日これらの考え方は「ナイーブグループ淘汰」と呼ばれている.
  • この考え方は60年代に精査され,「グループレベルでの淘汰は理論的には可能だが,実際にはまず考えられないほど条件が厳しい」とされた.だから「利他行為の進化の説明にはナイーブグループ淘汰を用いない説明が必要だ」とされた.そして血縁淘汰,互恵的利他行為,利己的遺伝子理論が花開いたのだ.これらはもともとグループ淘汰の代替説明だった.
  • メイナード=スミスはこの状況を「1グループが外部交配せずに個別の積みわらの中で何世代か継続,増殖した後に分散して交配するネズミ,おとなしいネズミが多いとグループの増殖率は上がるが,1つの積みわらの中では凶暴な方が有利」という仮想例を使って考察している.メイナード=スミスはこのネズミにおとなしさが進化することをナイーブグループ淘汰では説明できず,ハミルトンの包括適応度理論によって説明できるとした.(そしてハミルトンの理論を「血縁淘汰」と呼び始めたのはメイナード=スミスなのだ)
  • ここまではドーキンスもE. O. Wilsonも同意するはずだ.


ウィルソンはこの後きちんと定式化されたマルチレベル淘汰が包括適応度理論と等価である説明をするのだが,ここの整理では「利他行為の進化の説明にはグループ淘汰が必要だ」とか「これらはもともとグループ淘汰の代替説明だった」などと書いていて(グループ淘汰礼賛的に)やや強引だ.コンセンサスを書くといいながらいつもの癖が出てしまったのかもしれない.
そしてこの『ナイーブグループ淘汰理論』についての整理はドーキンスが問題の書評でE. O. Wilsonを批判しているまさにその部分だ,だから素直な解釈としてはドーキンスはE. O. Wilsonの「ナイーブループ淘汰」的説明を「グループ淘汰」と呼んで批判していると感じられると思うのだが*2,ウィルソンはそうは取らない.ここはやや強引で悪意も感じられるところだが,ウィルソンとしてはこれまでの激しい論争を考えると引くに引けないところなのかもしれない.



<複製子とヴィークル>


ウィルソンの説明は続く

  • ジョージ・ウィリアムズドーキンスはそれぞれの著書(「Adaptation and Natural Selection 」および「The Selfish Gene」)の中で,遺伝子を「複製子」という概念の元に位置づけた.この見方によれば有性生殖生物は繁殖にあたり遺伝子をシャッフルするのでその個体は複製子ではない.淘汰の単位は高度に忠実に複製されなければならず,それに値するのは遺伝子だけだというわけだ.
  • ドーキンスは,個体は複製子ではなくヴィークルとみる.(彼のアナロジーでは漕ぎ手のたくさん乗ったボートのようなもの)だから遺伝子は時に同じ個体の他の遺伝子の犠牲の上に繁殖し(癌や分離歪曲遺伝子(マイオティックドライブ)など),そうなれば個体の機能を損なうが,それはまれな出来事だ.
  • 一方ウィリアムズは複製子の概念を集団遺伝学から得た.そこでは「平均的な効果」が理解のキーになる.要するに利己的遺伝子はグループ淘汰と何ら関係のない概念なのだ.
  • ここで多くの混乱が生じた.特に「遺伝子が基本的な淘汰単位」であればグループ淘汰は論理的に否定されると考える誤解が生じたのだ.
  • しかしこの問題は解決している.ドーキンス自身認めているように,グループ淘汰について何か言うためには「淘汰の単位は遺伝子だ」ということ以上のことを言わなければならない.
  • すると利己的遺伝子理論で残ったのは「ヴィークル」だけだ.
  • 典型的なヴィークルは「個体」だ.個体の中では遺伝子は協力しないと成功しにくい.
  • しかしここで問題がある.先ほどのメイナード=スミスのネズミの例でいえば,おとなしさのグループ間のメリットが非常に大きければおとなしさは進化できる.要するにヴィークルは個体である必要はないのだ.
  • ついでに言うと進化が進むためには「忠実な複製を行う複製子」と「複製子が緊密な結びついたヴィークル」がなければならないわけではない.「平均的な効果」が1より大きければ進化は進むのだ.それはDNA以前の生物進化,文化進化などを考えればわかる.


ここのウィルソンの議論は強力だ.ドーキンスは書評の中で「グループはヴィークルたり得るか」と問いかけ,はっきり答えずに,説得力のある証拠は無いとコメントしている.ここはドーキンスにしては珍しく明晰さを欠いていたのだ.グループもヴィークルであることは可能なのだ,そして(ナイーブグループ淘汰的にグループであればいいわけではなくそれには条件があり)その条件を定めるのが包括適応度だと明言すべきであった.
私は長年さまざまなドーキンスが絡んだ論争を見てきているが,ドーキンスがここまで一本取られたのは珍しい.


もっともウィルソンは「利己的遺伝子理論」を包括適応度理論の視点を変えたものだということについては無視してあたかもそれと並列の別の理論のように書いている.ここはややいただけない.


<等価性の降臨>


ウィルソンはいよいよ等価性に進む

  • 70年代に重要な分岐点があった.ハミルトンがプライスの共分散方程式を用いて,グループ淘汰が可能である条件をより一般的に導き出したのだ.
  • そしてその結果包括適応度理論による血縁個体間の利他行為の進化の説明は,(血縁個体群をグループとみて)グループ間のメリットとグループ内のデメリットと整理してマルチレベル淘汰的に説明できることが明らかになった.つまり包括適応度理論はマルチレベル淘汰理論と相反するのではなく,それを含むことがわかったのだ.
  • ハミルトンはさらに,包括適応度理論は全ての社会的な現象に適応できることに気づいた.相互作用を行う個体群をグループとみればよいのだ.ハミルトンは血縁度は全ての行為者と受け手の間で考えることができることを理解し,血縁度の概念を一般的な遺伝子共有確率を元にしたものに拡張した.
  • 片方でハミルトンのもともとも包括適応度理論の応用法は,引き続き全体の集団の中でどのような性質が進化するのかを考える上では有用だった.
  • 要するにどちらのフレームワークを利用するかはいわば「好み」の問題になったのだ.両理論は等価なのだ.
  • そして70年代,80年代に行われた多くのリサーチは60年代の「グループレベルでの淘汰は理論的には可能だが,実際にはまず考えられないほど条件が厳しい」という結論が誤りであったことを明らかにした.
  • このように社会生物学多元主義と等価性の時代が始まった.これが現在の多くの学者のコンセンサスであり,これにはドーキンスとウィルソンが含まれていない.
  • Nowak et al.のNature論文への137人の反論はグループ淘汰についてのものではない.彼等の反論は「包括適応度の拒絶」「その有用性の否定」のところにあるのだ.


ウィルソンの「等価性」の説明は基本的に正しい.(もっともちょっとずつ説明がグループ淘汰礼賛基調よりなのは気にならないでもない.)結局グループであるだけではグループに有利な利他的性質は進化できない.それには一定の条件が必要なのだ.包括適応度を考えることでその条件を定めることができる.そしてそれはきちんと定式化されたグループ淘汰理論あるいはマルチレベル淘汰理論でも可能だ.
ただし包括適応度理論は理論的に広範囲に応用可能に展開されており,利他行為の他,性比の進化などにも極めて強力な理論だ,そういう意味ではマルチレベル淘汰理論はなお粗く,全面的に包括適応度理論に置きかえられるわけではない.
さらに利他行為のリサーチについて,「好み」の問題だとしても,どちらが有用かについては激しい論争がある.基本的にはウィルソンは非常にがんばっているが極めて劣勢という状況だろう.


またウィルソンの説明だとコンセンサスは70年代のハミルトンの論文の後すぐに形成されたように読めるが,そのようなことはない.ウィルソン自身激しいグループ淘汰論争の中で包括適応度とグループ淘汰を対立するものと扱ってきて,80年代に論争相手から知らされて理解した節がある.(http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110121あたりを参照)ハミルトンは時代をはるかに突き抜けていたのだろう
私のグループ淘汰論争全体についての感想はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110129を参照.


137人によるNature論文への反論の趣旨は基本的にはウィルソンの言う通りだろう.これについての本ブログの紹介はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110430参照.しかしE. O. Wisonの誤解はまさにここ(血縁淘汰,包括適応度理論の拒絶)にもあるのだ.だからドーキンスがこれを持ち出すのは何らおかしくないだろう.


ドーキンスがコンセンサスと異なっている」という点については,繰り返しになるが,単に「きちんと定式化されたグループ淘汰」に触れていないだけのように思われ,ここはかなり強引な主張のように見える.


ドーキンスをアカウンタブルに>


ここからウィルソンはドーキンスの誤りを1つずつ挙げていく.(E. O. Wilsonの誤りは多くの人が指摘しているのに,ドーキンスについて誰も指摘しないのは奇異だともある)

  1. 「グループ淘汰:グループの生存確率の差で進化が進むと貧弱に定義された理論」:グループ淘汰はきちんと定式化されている.
  2. 「アカリスとハイイロリス」:グループ淘汰の例示として外来種による在来種の駆逐過程を取り上げるのはいかがなものか.グループ淘汰は種間淘汰ではない.仮に種間淘汰だとしても普通外来種による駆逐は取り上げられない.
  3. 「biologists with non-analytical minds」:グループ淘汰理論は十分分析的だ.包括適応度理論擁護者は時に包括適応度理論の方が「直感的だ」とまで主張する.それは置いておいても,自分と意見の合わない学者はメンタル的に問題があると揶揄する態度はいかがなものか.
  4. ダーウィンは『Descent』における一カ所の例外を除いて,常に個体淘汰の立場に徹している」:ドーキンスはElliot Soberの「Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory 」を読むべきだ.Soberによるとダーウィンは多くの箇所でグループ淘汰的な記述を行っている.歴史修正主義は科学者に似合わない.
  5. 「グループはヴィークルだろうか・・・」:この後ドーキンスはペンギンやライオンの群れ,サイクリストや渡り鳥の列を挙げている.これらはマルチレベル的に十分説明できる.
  6. 「説得的な例はほとんどない」:グループ間淘汰の例は豊富にある.(2編の論文を参照した後)読者はGoogleスカラーで「グループ淘汰」とか「マルチレベル淘汰」とかを入れてみるとよい.
  7. 「血縁淘汰をめぐる12の誤りの2:血縁淘汰はグループ淘汰の一形態である」:血縁淘汰をグループ淘汰の特殊ケースとみるのは正しい.ハミルトンの仕事以降は包括適応度理論はグループ淘汰理論の一部というより等価になった.メイナード=スミスのネズミは今や包括適応度理論でもフレームできるのだ.
  8. 「 Bert Hölldobler (yet another world expert who will have no truck with group selection)」:ドーキンスはこのようなことを書くときにはちゃんと誰かに聞くべきだ.ホルドブラーはE. O. Wilsonの血縁淘汰の拒絶には賛成していないが,グループ淘汰理論と包括適応度理論の等価性は受け入れている.彼の許可を得て私信をここに紹介する.「ほとんど誰もが淘汰はコロニーレベルでも生じると考えている.コロニーは明らかにヴィークルとして作用する.そしてこれは包括適応度理論でもマルチレベル理論でもモデル化できる」


これらの指摘のほとんどはドーキンスが「グループ淘汰」という言葉でE. O. Wilsonの「ナイーブグループ淘汰」を呼んでいることから派生している.ドーキンスの書評の「グループ淘汰」を「ナイーブグループ淘汰」に置きかえれば1点目,3点目*3,8点目(そしておそらく7点目も)の指摘はなくなる.
2点目はあくまで馬鹿げた例としてあげているものだから「誤り」とは言えないだろう.ただしあまり良い例でないことは同意する.
4点目.ダーウィンの文章の読み方についてはいろいろな解釈があるだろう.私がOriginとDescentを読んだ印象では,はっきりグループ淘汰的なのは人間について論じているDescentの一カ所だけだ.後の記述は理論的には曖昧ではっきりしないものが多かったように思う.だからドーキンスは「はっきりグループ淘汰的であるのは1カ所だけ」と書いておくべきだったのかもしれない.それでもソーバーの解釈が正しくてドーキンスの解釈が間違っていると決めつけるのもどうかと思う.(もちろんソーバーの議論は傾聴に値するものであろうが)いずれにせよ元の書評の趣旨はE. O. Wilsonの引用がおかしいということであって,それはその通りだと思う*4
なおダーウィンがこの問題をどう考えていたかについては(日本語で読めるものとしては)ウォレスとの書簡集がある.(主題は利他行為ではなく,種間交雑の不妊性だが)これを読むとダーウィンは基本は個体淘汰主義的なのだが,時にナイーブグループ淘汰理論に説得され,でも後で考えてみて個体淘汰主義に戻ると言うことを繰り返している.個体淘汰主義的だが明晰に詰め切れてはいなかったということだと思う.
5,6点目.グループがヴィークルであり得るかについては先ほども書いたが,ドーキンスの負けだ.グループも(一定の条件下で)ヴィークルになり得るのだ.
7点目はなかなか微妙で,議論はすれ違っている.ドーキンスの用語ではこの「グループ淘汰」は「ナイーブグループ淘汰」であり,その意味ではこれは誤解と言うことでドーキンスは正しい.仮にウィルソンの土俵に乗ったとして,この「グループ淘汰」を定式化された「新しいグループ淘汰」だとしても,これは包括適応度と等価なのだから,やはり血縁淘汰がグループ淘汰の特殊ケースだと考えるのはおかしいということにならないのだろうか?
8点目も用語の問題だが,このウィルソンの説明ではホルドブラーの考えがわかって面白い.もっとも彼はE. O. Wilsonの誤解をどう考えているのだろうか?


<重要な問題を取り戻す>


ウィルソンはここで書評の元になった本の価値を取り上げる.たしかにE. O. Wilsonの誤解だらけの記述(「血縁度 r が低くでも真社会性が進化できるから血縁淘汰理論は間違い」など)はあるが,それを飛ばして読めば興味深く重要なことが書いてあるのだというわけだ.E. O. Wilsonはヒトの繁栄はヒトが(E. O. Wilsonの定義による)真社会性の種であることに由来していると言う興味深い主題について書いており,書評であるならそこも取り上げるべきだろうと言いたいのだろう..


私としてはこの本自体未読なのでここについてはコメントを留保しておこう.


ウィルソンは本記事をこう締めくくっている.


「私のここまでの分析が正しければ,ドーキンスとE. O. Wilsonはコンセンサスに同意すべきだ.そしてそれが無理でも権威を持ち出して自説を補強しようとするのはやめるべきだ.もちろん私がコンセンサスを誤解しているのかもしれない.そのときは同僚が私の間違いを正してくれるだろう」


全体としての私の感想は以下の通り.

  • ドーキンスが「ナイーブグループ淘汰」について「グループ淘汰」という用語を使い,包括適応度理論と等価である「新しいグループ淘汰」について全くコメントしていないのは大変残念なことだ.ドーキンスがこれを区別できていないとウィルソンは主張しているが,それはありそうもないというのが私の感度だ.
  • 「グループがヴィークルたり得るか」についてのドーキンスの記述は明晰さを欠いていた.ここは珍しくドーキンスの完敗だ.
  • 本記事でウィルソンは「包括適応度理論より『新しいグループ淘汰理論』の方が有用で,因果の実在性の点からも望ましい」といういつもの(強引でコンセンサスから外れた)主張を控えている.そのため彼によるグループ淘汰関連の記述としては珍しくきわめて説得的なものになっている.
  • 問題のNature論文ではNowakたちは包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論の等価性自体を明確に否定している.だからE. O. Wilsonが「コンセンサス」を認めるのは非常に難しいだろう.
  • いずれにせよ様々な点でコンセンサスから思いっきり外れていて,それをはっきりと公言しているのはMartin NowakとE. O. Wilsonなのだ.ウィルソンがそれをあまり明確にしないのはフェアではないだろう.(ウィルソンのE. O. Wisonへの敬意を考えると本記事でも十分踏み込んだとも言えるのかもしれないが.)


<Nowak et al.のNature論文の余波 完>


関連書籍


ドーキンスの書評の元になったE. O. Wisonの新刊.

The Social Conquest of Earth

The Social Conquest of Earth



ナイーブグループ淘汰を明確に否定したジョージ・ウィリアムズの名著.初版は1966.邦訳は私が知る限りでていない.

Adaptation and Natural Selection: A Critique of Some Current Evolutionary Thought (Princeton Science Library)

Adaptation and Natural Selection: A Critique of Some Current Evolutionary Thought (Princeton Science Library)


哲学者ソーバーによるダーウィン本.ダーウィンオタクとしては気になっている本の1つだ.

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


ダーウィンとウォレスの書簡集.これが訳されたのはダーウィンファンとして大変嬉しいことだった.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100618

進化論の時代――ウォーレス=ダーウィン往復書簡

進化論の時代――ウォーレス=ダーウィン往復書簡





なお,しばらく非常に多忙になりますので,本ブログの更新は1ヶ月半ほど停止する予定です.7月中旬に再開できればと思っています.






  

*1:ドーキンスの原文は140名になっている.反論ペーパーは5本あって,その著名な科学者が名を連ねている最大のものは137名が共著者になっているのでウィルソンは137名と書いている.この数字については特にコメントされていないが,自分の方がきちんとしているのだというディスプレーのようにも感じられる

*2:ウィルソンはあたかも全ての学者がこのような曖昧な考え方について「ナイーブグループ淘汰」と呼ぶことに同意したかのように書いているが,「ナイーブグループ淘汰」という用語がどこまで普遍性があるかという問題もあるだろう.ドーキンスの書評はもともと一般向けのものだ.

*3:non-analytical mindsというのはメンタル面の問題を指摘する表現でもあるのだろうか?ここでは単に明晰でないという意味で使っているだけのような気がする

*4:それともソーバーはこの部分もグループ淘汰的だと言っているのだろうか?いずれにせよダーウィンオタクとしては一度読んでみるべき本のようだ