「進化生物学入門」



本書は「多様性生物学入門」という書名で東海大学出版会から1997年に出版されていたものが講談社学術文庫として最近文庫化されたものである.著者は植物学者で長らく千葉大学で教鞭をとった栗田子郎.書名は「進化生物学入門」だが,進化生物学全般を扱うというわけではなく,現在の生物の多様性がどのように生まれたのかという観点から3つのテーマが選ばれて,それについて総説的に議論を整理するという構成になっている.3つのテーマは「多様性の進化史の全体像」「種問題」「霊長類の系統と進化」ということになる.具体例を書くにあたって専門の植物を選ばずに霊長類にしたのは読者により興味を持ってもらおうということかもしれないが,ちょっと面白いところだ.


第1章の進化史の概説は宇宙の誕生から始めている.ビッグバン,恒星の誕生,超新星爆発による元素組成の変化,そして太陽系と地球の形成あたりまでをさらっと流し,続く生命の起源については多くの考え方を整理しつつ紹介し,議論を丁寧に追っている.通常生命の起源は進化生物学の外側と扱われることも多いが,このあたりはなかなか意欲的だ.
ここからが通常の意味での進化史になる.先カンブリア期の微化石,ストロマトライト,エディアカラ動物群*1,多細胞生物の古い起源(17億年前)などがまず解説されている.ここで真核生物の起源,植物の起源が扱われ,共生関係から生物群が起源しうることが論争とともに示される.
次はカンブリア期の生物相と「爆発的」多様化について.多様性を概観し,それが空きニッチへの放散だけで説明できるのか,体制の決定の遺伝的拘束が緩かったのか,どの動物門が残ったのかについて偶然にどれだけ左右されたのかなどについてグールドの考察が好意的に紹介されている*2
オルドビス期以降の古生代中生代新生代については途中で白亜期末の隕石落下による大量絶滅にふれるほかは,淡々とへ生物層の変遷が解説されている.
この章の読みどころは生命の起源と古生代の進化を巡る論争の詳細な紹介だ.


第2章は「種問題」について.これは多様性を論じる際に避けて通れないということだろうし,著者が植物学者として長年取り組んできたことでもあるのだろう.
まず「種」とは何かという話題.古代ギリシアからリンネまではさらっと流して,ダーウィン以降を主に取り扱う.
ここではマイヤーとドブジャンスキーによる生物学的種概念が詳しく解説される.普段あまり目にすることのないデュ・リェーの議論が詳しく紹介されていて面白い.同胞種,突発的生態種,半種,シンガメオン*3などの様々な生物学的種概念にからむ問題については,植物学者によるものらしくそれぞれの具体例が取り上げられていて読み応えがある.また生物学的種概念では扱いにくい無性生殖種についても,生殖様式ごとに細かく議論されている.生物学的種概念に対立する概念については分類学的種概念,シンプソンの進化学的種概念が取り上げられている.「種」の「実在性」の議論やどの概念がいいのかという議論にはあまり踏み込まずに「種」を取り巻く様々な個別の現象により焦点を合わせた冷静に記述ぶりが本書の特徴だ.
次に種内変異を簡単に取り扱って(ここでも植物の具体例が面白い)から,種形成の問題に進む.植物学者らしく,交雑と染色体構造によるものから解説される.交雑に関しては複倍数体化,半種型種形成,3倍体などの不稔の雑種が栄養生殖により増えていくものがそれぞれ具体例とともに解説される.最後のものはいかにも植物的だ*4.染色体構造については,停滞的種形成,跳躍的種形成,核型の定向淘汰,B染色体等によるもの*5に分けて,やはりそれぞれの具体例とともに解説されているが.ここは難解だ.停滞と跳躍を分ける意味も難しいし,なぜ一定の環境要因と染色体数が相関することがあるのかはさらによくわからない.興味を持ったなら勉強してほしいという趣旨なのだろう.
ここでようやく地理的・空間的生殖隔離による種形成が登場する.ここはまず単一の遺伝子変異の役割と生殖的行動距離という理論的なトピックを取り扱い,その後,海洋島や湖水環境における具体例を詳細に解説する構成になっている.海洋島の例ではまずはグラント夫妻のガラパゴスフィンチのリサーチを取り上げるが,同じガラパゴスのキク科植物の例も取り上げていて面白い.湖水面に関する主役はシクリッドということになる.なおここでは生態的種分化の一種としての同所的種形成については議論されていない.面白いトピックだしリサーチ例もあるのでちょっと残念なところだ.
第2章は著者の思い入れがかなり入っているのだろう.冷静な総説的な文章表現は変わらないが,トピックの取り上げ方に濃淡がある.


第3章は霊長類の進化史.
分類と進化史に分かれており,分類は原猿亜目からヒト科までを70ページにわたって記述,進化史は化石記録に従って30ページ強*6,最後に分子的な類縁関係を扱っている.
これは淡泊な教科書的な記述になっている.とはいえ霊長類の進化史を詳しく取り扱った一版向けの本というのはあまりないように思われ,この記述はある意味貴重なものだ.(人類進化史の全段として類人猿のみ扱ったり,あるいは脊椎動物の進化史の一部分としての記述になっていることがほとんどだと思われる)


本書は全体としてユニークな構成を持った入門書になっている.最初の進化史の全体像についてはほかにもよい本はたくさんあるが,植物の具体例の詰まった種問題の冷静な見取り図とか霊長類の進化史などは価格も手ごろな一般向け書籍としては得難いものだ.また16年前の本にしては驚くほど内容が古びていないのもちょっとした驚きだ*7.総説的な内容なので初心者には読みにくいところもあるが,じっくり味わうに足るものだと思う.



関連書籍


元本

多様性生物学入門―ヒトへの道程

多様性生物学入門―ヒトへの道程


著者によるヒガンバナの本.著者はかなり充実したWebpage http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/index.html を主催しており,そこでもヒガンバナは主役の1つになっている.

ヒガンバナの博物誌 (のぎへんのほん)

ヒガンバナの博物誌 (のぎへんのほん)

 


 

*1:エディアカラ動物群がどのような動物であったか(現生生物に近いのか全く異なる体制を持つ生物か),なぜ絶滅したのかなどにかかる論争も概略が整理されている

*2:その後のコンウェイ=モリスのグールドへの反発の経緯にはふれられていない

*3:数種が複雑に交雑しあい稔性を失わないもの,日本ではコナラ属のカシワ,コナラ,ミズナラ,ナラガシワの例が紹介されている.

*4:動物についてもある種のトカゲなどの単為生殖種はここで扱っている

*5:なおB染色体については利己的な遺伝要素のように思われるがその記述はない

*6:進化史はややヒトの系統に偏った形になっている,森林地域の化石は残りにくく,化石の量という問題もあるのだろう.

*7:その後の進展については文庫版前書きに若干の補足がある.人類化石についてある程度の進展があったほかは余り大きな要改訂点はないようだ.