
Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)
- 作者: Elliott Sober
- 出版社/メーカー: Prometheus Books
- 発売日: 2010/12/01
- メディア: ペーパーバック
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
さてソーバーのダーウィンエッセイ,第2章はソーバーがD. S. ウィルソンと組んで進化生物学者に論争を挑んだグループ淘汰がテーマだ.
ここではソーバーのグループ淘汰に関する議論が繰り広げられる.レビューの前にまずこのグループ淘汰論争における私の理解をディスクローズしておこう.
- ダーウィンの著作,書簡集には個体淘汰を基本とする姿勢が示されているが,「Descent*1」のヒトの性質についてグループ淘汰的な記述に読める部分が1カ所あるとされている.
- 特に種間雑種の不稔性の進化についてはグループ淘汰が成立するかどうかをはっきり考えた上で個体淘汰的に考えて懐疑的であり,「ダーウィンは全体としては個体淘汰的だが,厳密には淘汰の単位については不統一で,やや混乱している」というのが一般的な受け取り方だ.
- 私の「Descent」を読んだ印象は「ダーウィンはおおむね問題の本質を把握しているし,混乱もしていない.ただし一部ぎりぎりの状況の議論の説明振りが甘いところがある.また所々,途中の過程を飛ばして表記して誤解される文章になっている場合がある」というものだ.
- まずダーウィンが「種のため」議論に陥っていないことは明白だ.グループのための利益になる行動が進化しているような例があるとしても,それは一緒に暮らしている仲間にとっての利益であり,その仲間には血縁者が多いという認識ははっきりある.
ダーウィン以降1950年代まで
- 淘汰の単位はダーウィン以降の生物学者に意識されなかった.ナイーブに,ある形質はその個体にとって有利でも,属する集団にとって有利でも,種にとって有利でも適応が生じ進化すると扱われた.(なおここでは「ある形質はその個体が属する集団のために有利であれば無条件に進化する」という考え方を「ナイーブグループ淘汰」と呼ぶことにする)
- これは「種の保存のため」というフレーズで今でもよく見られる進化の大誤解の1つである.
1960年代以降
- ジョージ・ウィリアムズが「ナイーブグループ淘汰の議論は誤っている」と指摘した.これはハミルトンその他の進化生物学者にも受け入れられ,主流の考え方になった.ポイントは2つある.
- グループにとって有利であれば無条件で進化するという「ナイーブグループ淘汰」は理論的に誤りである.
- 一定の条件のもとで個体にとって不利でもグループにとって有利な形質は進化しうるが,その条件は極めて狭く実際上ほとんど生じないと考えられる
- その後,利他行為の進化条件については深く研究が進み,ハミルトンの包括適応度理論,トリヴァースの互恵理論などが受け入れられ,「ナイーブグループ淘汰で利他形質が進化することはない」という理解が主流になった.
1980年代以降
- D. S. ウィルソンがマルチレベル淘汰のフレームのもとに「グループ淘汰は一定の条件下で生じる.そしてその条件はそれほど狭くない」「通説のグループ淘汰は生じないという理解は誤りである」という主張を行った.ソーバーはここでウィルソンの側の論客として登場する.
- そして理論家の間で激しい論争となった.
1990年代以降
- 論争を通じて結局マルチレベル淘汰の枠組みでグループ間淘汰により利他形質が進化する条件は,包括適応度理論が提示する進化条件と数理的に等価であることが明らかになった.
- これによりD. S. ウィルソンと包括適応度理論家の論争のポイントは,理論の正否ではなく,理論の有用性,それを用いたリサーチの生産性に移った.
2000年代以降
さてこれに対してソーバーはどのように整理しているだろうか,早速見ていこう.
最初に枕としてダーウィンの「種の起源」における「race」という言葉の用法の話題を振っている.そもそも「種の起源」のサブタイトルは「the preservation of favored races in the struggle for life」と「race」がいきなり登場するのだ.現在この言葉はまず「人種」という意味で用いられ,その瞬間緊張が走る.だから前提知識が無いアメリカ人が「種の起源」のサブタイトル「生存競争を通じた優良raceの保存」を読むといかにも人種差別的に聞こえるらしい.
ソーバーは当時の用語ではこれはもっと広い意味があることを説明し,ダーウィンはこの用語で,「個体間の競争」「同じraceに属するグループ間の競争」「異なるraceに属するグループ間の競争」すべてを含んでいると解説し,グループ淘汰という主題に入る.
<60年代に戻る>
そしてこの章の主題はダーウィンのグループ淘汰に関する考察だが,その前にグループ淘汰についての学説史を見ておこうと,概説を行っている.ソーバーはまず最初に淘汰の単位の問題を提示したウィリアムズの議論を丁寧に追っている.
1960年代,ほとんどの生物学者にとって淘汰単位は個体でもグループでも問題なく,その間にコンフリクトがあると気づかれていなかった.
そしてジョージ・ウィリアムズが大きく物事を変えた.彼は個体単位で淘汰が生じるとしたときとグループ単位で淘汰が生じるとしたときで,予測が異なることを指摘し,そして証拠は前者を支持しているとした.
さらにウィリアムズは以下を指摘した.
- 性比が1:1になっていることはグループ淘汰からは説明できない.;これはデータドリブンでローカルな議論だ
- グループ淘汰は論理的に見て,ダーウィニズムにそぐわないとした.そしてある現象を個体淘汰から説明できるならことさらグループ淘汰を持ち出すべきでないという最節約論(系統的最節約論ではなくオッカムのカミソリ的議論)を唱えた
- そしてなぜ個体淘汰の方がより強いかにについていくつかの基礎的構造的議論を行った.;これは懐疑論へ合理性を与えようとするものだ.
- 数の議論:淘汰が問題になる場面が圧倒的に個体間淘汰の方が多い
- 安定性の議論:グループは遺伝子がバラバラになりやすく,淘汰の結果が保たれにくい
- 速度の議論:個体の方が世代間が短く,淘汰が速く進む
- 起源の議論:グループ淘汰が働くにはそもそもその(利他的)形質があるグループの中で頻度が高くなければならない.そしてそれは個体淘汰的に難しい.
ソーバーは当時の多くの生物学者にウィリアムズが支持されたのは,性比の議論より最節約性の議論と基礎的構造的議論だっただろうと推測する.さらにソーバーはより大きな影響を与えたものとして利他的行動の進化を可能にする3つの理論「包括適応度理論」「互恵理論」「進化ゲーム理論」が加わったことが大きいと評価している.
ソーバーのその後の動向をこうまとめる
しかし少数の頑固者が残った.
ソーバーはこう言っているが,現在この問題については,(Nowakたちの論文を別にすれば)マルチレベル淘汰と包括適応度理論は数理的に等価だという事実上のコンセンサスはあるということになるのではないかと思う.そもそもソーバーのいう「マルチレベル淘汰を認めること」と「マルチレベル淘汰を用いたいくつかの主張が間違っている」というのは排他的ではないだろう.
ともあれ,ようやくここでダーウィンが登場し,ソーバーのこのエッセイの(表面上の)主題が明らかになる.「マイケル・ルース,ヘレナ・クローニン,リチャード・ドーキンスはダーウィンはグループ淘汰否定に担ぎ出す.しかし私は逆にダーウィンをグループ淘汰擁護的に読む」ということらしい.
*1:The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex,日本では「人間の由来」「由来」とされることが多い,最新の長谷川眞理子訳では「人間の進化と性淘汰」とされている
*2:もっともE. O. ウィルソンの場合はドーキンス嫌いというより,かつて入れ込んだ3/4仮説への幻滅の逆回転という事情のように思われる
*3:ソーバーはこのレウォンティンの議論の現代的評価については沈黙している.私の理解ではこれらはいずれもマルチレベル淘汰モデルのグループ間淘汰を持ち出して説明するようなものではないように思う.なおレウォンティンの具体的な議論についてはちょっと調べてみたが見つけられなかった