本書は長谷川眞理子によるヒトの本性についてのエッセイにまとめたもの.もとは月刊誌「Voice」の巻頭言として2021年から2023年にかけて連載されたもので,そこに一部考察を加え,最新知見にアプデートし,構成に手を入れて一冊にしている.長谷川には同じように雑誌に寄稿したエッセイをまとめた「進化的人間考」(「UP」2010~2012年の記事が中心)があり,それを10年後にアップデートしたような内容になっている.*1
第1章 生き物の世界
第1章では生物学とはどういうものか(生物学の構造),各分野の関心と分野間の関連性などが解説される.
- 生物学は様々な生物現象を取り扱い,細分化されて全体が見えにくくなっている.ここでは全体像の把握のために「生物現象のすべてをおさめた箱」という3次元の箱のメタファーを用いたい.
- 最初の次元は生物種だ.どの種(あるいは分類群)の話をしているのかということだ.
- 2番目の次元は生物の階層性だ.生物現象には遺伝子,タンパク質などの諸分子,細胞・器官,個体,個体群,群集・生態系という階層がある.各階層の現象は(物理と化学の法則に従っているので)互いに矛盾しないが,上のレベルで初めて生じる創発現象もある.それぞれの階層の現象は分子生物学,細胞生物学,行動生態学,個体群生態学,生態学などの専門分野で詳細に研究されている
- 最後の次元は機能だ.生物は生きて存続するために様々な種類の機能(採食,代謝,情報伝達,繁殖など)を持つ.このなかでどの機能の話をしているかということだ.それぞれの機能は形態学,生理学,生化学,遺伝学,神経科学などの専門分野で詳細が研究されている.
- 生物学の箱はこの3辺でそれぞれ細分化されており,各研究者はその小さな引き出しの1つを調べていることになる.全体を理解しようとするなら,それらの引き出し情報をまとめて意味を考えることになる.そして意味を考えるための鍵が進化理論だ.また実は箱には4つ目の時間という次元もある.生物が時間とともにどう変化するのかを説明するのも進化理論になる.
- 進化は19世紀に事実として認められるようになった.そしてどのように進化が生じるかのメカニズムを説明するのが進化理論だ.ダーウィンは自然淘汰と性淘汰理論を提示し,木村資生は中立説を提示した.(それらの簡単な説明がある)
- 最近では進化の考えに関してエピジェネティクスが発展している.これは遺伝子の構成が不変のまま表現型が変化することを意味しており,環境からの刺激などにより遺伝子発現のオンオフのスイッチが切り替わることにより生じる.これがラマルクの獲得形質の遺伝とは全く別のことであることには注意が必要だ.
- 地球の生物は単細胞生物として始まった.分裂して(同じ遺伝子を持つ)細胞が集まって分業するようになったのが多細胞生物で,多細胞生物は精子と卵子という複製に特化した細胞を持つ.このため多細胞生物の身体は時間が経つと寿命が来て死ぬが,親から子に遺伝情報が伝わっていくことになる.このようにして38億年前のLUCAから現代の私たちまで系統が連続していることになる.
- 次章からヒトの固有の性質を論じるが,その前に(西洋哲学においてヒトの固有の性質とされてきた)自意識についてここで触れておきたい.科学的に自意識のテストとされてきたのは鏡像自己認識実験だ.これまで(ヒト以外で)このテストに合格したのは,チンパンジーを始めとする大型類人猿,ゾウ,イルカ,シャチ,カササギだけだったが,最近ホンソメワケベラもこのテストをクリアできることが示された.これは非常に重要な結果であり,多くの動物が合格していないのは(鏡像が自己だと気付いていたとしても)単にマークをとろうとしないからで,実は自意識がある場合が多いはずだということを示唆している.私は昆虫も含めてごく原始的なレベルであってもすべての動物には(自分を周囲の環境から切り離して理解するという意味で)自意識があると考えている.
- ヒトの行動を理解するにはヒトの脳の働きを進化的に理解する必要があるはずだ.しかし心理学は生物進化とは全く無縁に,心の動きを物理的に測定して理解しようとする試み(精神物理学)から発展してきた.パブロフもフロイトもそして(行動を水理動力学的モデルで説明しようとした)ローレンツもこの意味ではみな同じだ.
第2章 ヒトに固有の特徴は何か
第2章のテーマは生物としてのヒトの固有の特徴は何かというものだ.
- ヒトの特徴として言語がよくあげられる.20世紀にはチンパンジーに言語を教えようとする研究が数多くなされた.結果彼らはいくつかの記号を理解したが文法構造を理解したとはいえず,何かを要求する以外に自発的に何かを伝えようとしないことがわかった.イヌについても調べられた.あるボーダーコリーはヒトが話す200以上の単語を区別できたが,こちらのことをそれほど理解しているわけでもなさそうで,やはり言語理解とは言い難い.
- ヒト以外の動物の信号は,基本的に求愛や警告で,ある情報の伝達により受け手を操作しようとするものだ.しかしヒトの言語はそれだけではなく,何かのテーマについて考えや気持ちを語ったり共有したりするコミュニケーションが多い.ヒトの言語の基盤には「心の共有」という問題が横たわっている.
- ヒトは自分には心があり,相手にも心があるだろうという想定で行動している.そしてさらにその先に「それを私が知っていることをあなたは知っているということを・・・」という入れ子構造の共有知識がある.いわば私たちは言語コミュニケーションによって心のOSを共有しているのだ.そしてヒトの心には他者の心の状態を推測することに特化した脳機能がある.これは「心の理論」と呼ばれる.
- ヒトは論理的な思考をすることができる.それだけから見るとヒトの脳はまるで万能論理機械のようだが,実はそうではない.脳は生存繁殖に必要な情報を分析し解決策を見いだすために進化してきた臓器であり,状況フリーで万能に考えられる論理機械ではない.そして重要なのは論理的な思考と快・不快を司る情報の違いだ.論理的に望ましい行動が分かっても,それを実行するには,「そうできれば嬉しい」という情動が必要なのだ.
- ヒトは心の成り立ちをみなで共有している.これは言語の基礎であるとともに文化の基礎でもある.では文化とは何か.
- 20世紀になりいくつかの動物の文化が報告され,行動生態学ではヒトと動物に共通する文化の定義が模索された.現在では「遺伝情報以外により,ある集団内の個体間で伝達され,共有される情報のすべて」という定義に収まっている.
- 動物の文化はどのように伝達されるのか.当初それは模倣によるとされたが,実は模倣は習う側に目的が理解されていないと,つまり心が共有されていないと難しい.チンパンジーのシロアリ釣りなどは,子供が親がやっていることを見て,観察から報酬を独自に推測し,試行錯誤で習得されている,つまり個別学習であり真の模倣ではない.ここに心の共有を行っているヒトの特殊性がかいま見える.
- ヒトの文化は急速に変化する.これは「文化進化」という分野で詳しく調べられている.また文化進化が生物進化を促すこともあり,そのような現象は「遺伝子と文化の共進化」と呼ばれる.有名なのは牧畜文化と乳糖耐性の進化だ.
- ヒトが現在のような文明を手に出来たのは,物事を抽象化する能力,一般化する能力,カテゴリー化する能力,因果関係を推論する能力,入れ子構造の理解能力などがあったからだとされる.このうち入れ子構造の理解能力は特にヒト固有の能力であるようだ.
- ヒトの適応的進化環境(EEA)は,特定の環境としてではなく,いくつかの共通要素(高栄養高エネルギー食物への依存,高度な道具使用への依存,技術習得に長い年月を要すること,高度な協力が不可欠な社会集団,長寿で3世代共存し,非血縁を含む多くの人々の協力による子育てを行う)から理解されるようになっている.
- このEEAはヒトの身体の解剖学的構造とも密接に関連している.直立二足歩行,効率良い長距離歩行可能,体毛が少なく多くの汗腺を持つ,運動機能から解放された手を持つなどだ.また高栄養高エネルギー食物への依存にとって重要なのは調理行動だったと考えられる.ヒトは調理をすることで限られたエネルギー予算の中で脳を大きくし腸を小さくすることが可能になったのだ.
第3章 「遺伝か環境か」論争の不毛
第3章は進化生物学周りのよくある論争や誤解が取り扱われている.主なテーマは,遺伝か環境か論争,進化環境と現代環境のミスマッチ,仮説を立てる学問と無意識の先入観,進化論という用語,進化にまつわる誤解だ.
- ヒトの行動と生態を進化的に考察しようとする学者の集まった学会が人間行動進化学会(HBES)だ.この学会の初期の大きな研究テーマは「ヒューマンユニバーサルはあるか,あるとしたらどのようなものか」だった.
- これに関連するのが「遺伝か環境か」という二項対立の論争だ.すべてが遺伝で決まるわけでも環境で決まるわけでもなく,答えは「どちらも重要」ということだが,実際には複雑な問題で,しかも論争にはナチスの優生学絡みでイデオロギーがつきまとう.ヒューマンユニバーサルを探る人間行動進化学の試みは保守反動だと非難されがちで,これは不幸な論争だった.
- 遺伝と環境がどのように相互作用してヒトの行動や感情を作りだしているかは非常に複雑だが,その詳細が最近ようやく少しづつ明らかになりつつある.(ただし個性の多様性についての説明はまだまだ道半ばだ)
- ヒトの(身体の形質を含めて)すべての性質には遺伝的基盤があり,さらにエピジェネティックな変化が環境により生じる.このようなことが遺伝子と環境の相互作用を作っているのだろう.またしばしば「能力」が話題になるが,その指標はパフォーマンスであり,そこには純粋な遺伝的能力だけでなく,気質,性格,感覚の違いがかかわる「好み」や,環境や周囲からの賞賛が関係する.遺伝と環境の相互作用は複雑なのだ.
- チンパンジーとの共通祖先から分岐して以降の人類の600万年史,ホモ属の200万年史,サピエンスの30万年史のほぼ全部に渡って人類は狩猟採集生活を行い,定住せずに移動していた.私たちの身体,酵素,脳の働きはこのような暮らしに適応するように進化してきた.
- しかし1万年前に農業革命が始まり,200年前に産業革命が生じ,さらに第二次世界大戦後に抗生物質の実用化が始まり,ここ30年ほどでIT技術が大きく発展した.ヒトの身体や脳はこのスピードに追いついて変化しているわけではなく,いろいろなところでミスマッチが起こっている.
- 火の使用と調理が人類の進化史上の重要な転換点だという発想を最初に指摘したのはレスリー・アイエロという女性の人類学者だ.これを広めたランガムは男性だが,料理が趣味だった.これは科学者が仮説を立てる時に心を全く白紙にできるわけではなく,それまでの人生でつちかってきた世界観が反映されることを示す例だ.人類進化を扱う自然人類学はその時代に自然人類学者が人類を何だと考えているかに影響される.
- 生物学はいわゆる「ソフト」な自然科学なので,世界的に見ても女性の進出が目覚ましい.だからこれからはこれまでと異なる仮説が出てくるだろう.私はそれは重要なことだと思っている.メスによる配偶者選択は1980年まで無視されていた.私はそれは男性の生物学者の無意識の先入観が影響していたからなのではと疑っている.人類を科学的に探索するにはより多様な集団で考えた方が良い結果を生むだろう.
- 私は「進化論」という言い回しが嫌いだ.私自身は必ず「進化理論*2」「進化生物学」という用語を使う.「~論」には「ある個人が考え出した単なる1つの見方」というニュアンスがあると思うからだ.ダーウィンぐらいまでは百歩譲って進化論でも良いかと思うが,その後のこの分野の研究の進展を考えると,「量子物理学」や「有機化学」と同じ扱いにしてほしいと考えている.*3
- また世の中には進化生物学がハーバート・スペンサーの「社会進化論」と同じものだと思っている人がいるらしい.後者は実証的な学問ではなく西洋白人優越の価値観から論じられたものにすぎず,これは全くの誤解だ.これはダーウィンの進化理論を自然淘汰を用いた進歩思想だと受け取った人が多かったからなのかもしれない.そして現代の日本でも進化を進歩だと勘違いしている議論が多々ある.
- 進化を進歩とする誤解は根強い*4.それは分類群ごとにより進歩しているかどうかを決めつけたり,進化の頂上にヒトが立っているという誤解に繋がっている.「退化」を進化の反対と考える誤解もそうだ.別の根強い誤解は「進化には目的がある」というものだ.
- もう1つ根強い誤解が「進化は種の保存のために起こる」というグループ淘汰的なものだ.「種の保存」という誤解は本当に根強く,「利己的な遺伝子」を「種の保存を示した本だ」と評した人もいたぐらいだ
第4章 ヒトは本来「利他的」なのになぜ争うのか
第4章はヒトの本性を踏まえて,社会のあり方や戦争がなぜ生じるかを論じる章になっている.長年ヒトを研究してきた著者のコメントがいろいろ深い.
- 人類の有史以前の社会ではかなりの戦いと虐殺があったようだ.1980年代ぐらいまでの研究結果をまとめると,小規模伝統社会における近隣グループ間での戦いの頻度は非常に高く,戦いによる死亡が全死亡に占める割合も高かったようだ.ただし争いはない方がよいという価値観はどこも同じで,抗争が大規模になって両集団に同じぐらいの犠牲者が出たところで誰か第三者集団が調停に入るということだったようだ.(片方で国家や法律や警察により国内の暴力が大きく減少し,国際秩序も一定の役割を果たしているとは言え)このあたりは今日の国際関係にも似たところがある.
- 文明が発達し,科学と技術は大きく進展したが,人々の社会の運営の仕方にははっきりとした前進がないようだ.ジョン・ダワーは著書「戦争の文化」において,「自分に都合の良い思考,内部の異論を排除し外部の批判を受け付けない態度,過度のナショナリズム,敵の動機や能力の過小評価」が「戦争の文化」であると指摘している.なぜこんなバイアスのかかった仕組みが改善されずに繰り返されているのだろうか.
- その答えは私にはまだよくわからないが,いくつか考えていることを述べてみたい.
- まず社会の運営の仕方は単純な最適化が難しい複雑な問題だということがある.それはメンバー各自の利害が異なり共通目標が立てにくく,さらにそこに権力構造があるからだ.社会によって良い運営の仕方が異なっているのだ.
- 文化進化には物事をゆっくりと改良する力がある.実際にこれまで社会は良くなってきた.しかし前世代の知恵が次の世代に確実に受け継がれていくかどうかは明らかではない.戦争がない時代が長く続けば戦争への忌避感が弱まるということが起こりうる.
- ダワーの「戦争の文化」の根底にはヒトの心の中にある「内集団と外集団を区別する傾向」があるだろう.これはまさに「ヒトの本性」といえるかもしれない.そしてそれがもたらす「戦争の文化」は,集団がハイリスクの選択に結束するための手段として(時に失敗し,時に成功しながら)機能してきたのだろう.私たちはこのようなバイアスがあることを常に認識し続けていかなければならない.
- ホモ・サピエンスは互いを思いやり,共感しあうことができる.個人同士の関係が中立から良い方にある者同士では互いに「良い人」として振る舞うものだ.しかし複雑な社会の中では利害が対立したり悪い関係も生じる.その場合には必ずしも「良い人」となれるとは限らない.また国家単位の利害が個人の利害と異なることもよくある.だからある国の人々に対する印象と国家としての選択にギャップが生じることもある.そしてその印象は様々な経験により左右される.対人関係,国家関係は複雑で一筋縄では行かない.
- 「ヒトは基本的に他者を信頼するのかしないのか」という問題は,性善説か性悪説かという形で問うことができる.私は,ヒトの発達から考えて「性善説が正しい」と考える.実際に幼児は非常に利他的に振る舞う.しかし7歳ごろから学習によってそれが修正されていく(修正されないと簡単に他者に搾取されるようになってしまう).大人が「良い人」なのか「悪い人」なのかは社会のあり方によるのだろう.
- ヒトが進化の過程で内集団と外集団を区別するようになったのは本当に重要だったのだろう.進化環境では協力しあうのは「内集団」であり,「外集団」はほとんどの場合敵であった.その後,文明が発展し,人権,民主主義,人道主義という概念が生まれ,自分と異なる文化,宗教,信条を持つ人であっても同じ扱いをしようということになった.これは理性による目覚めだが,進化により刻まれた情動と感情はそれに追いついていない.しかし人類は理性で理解し,感情や情動をコントロールしようとしてきて,それにある程度成功し,人間社会は進歩してきた.
- そういう意味で効果が不明なのが昨今の情報技術の発展だ.特にソーシャルメディアはフィルターバブルなどにより社会の分断の問題を生じさせているが,それはヒトという生物の本性にすり寄って搾取するように設計されているからだ.ソーシャルメディアに関する技術が経験に学んで改良されていくことを願ってやまない.
第5章 「現代病」に陥る人類
第5章は文明論エッセイのような章になっている.ところどころ進化生物学者としての著者の鋭い視点が示されている.
- 私は1980年代にタンザニアでチンパンジーの研究を行った.当時のアフリカは少し前に植民地から独立したものの西欧による思想的経済的支配は続いており,独立後の混乱が続いていた.そこで泥壁とトタン屋根の小屋に住み,石油ランプの明かりの元で観察記録や報告書を書いた.人間の生活の原点に近いものを体験できたのは人類学者として貴重なことだった.
- 2023年にJICAの「日本の近代化の経験を途上国と共有する」プロジェクトの一環でタンザニアを再訪し,そこで日本の西洋科学の受容の歴史を講義した.しかしもはやそんな時代ではないのかもしれない.それは現代の世界が直面しているのが生態系破壊や気候変動などの地球規模の問題で,文明そのもののあり方を変えなければならないと思うからだ.
- しかしこの新たな目標に対しては誰も解決の筋道を見いだせていない.先進国の方が解決の筋道を見つけやすいとも限らない.
- 文明の発展は速すぎるのだろうか.200年前の産業革命のころから社会全体の様相が非常に速く変化するようになった.
- 私が子供だった頃に比べて環境は超清潔になり,おそらく進化環境とのミスマッチとしてアレルギーが増えている.現代日本では「清潔」を極端なまでに追求しすぎているように感じる.
- また現代日本では対人関係を良好にすることを大変に重視するようになった.上手く愛想よくコミュニケーションをとれないことは「障害」とみなされる.それも窮屈ではないだろうか.
- 砂糖,塩,脂肪を摂りすぎてしまうこと,運動不足になりがちなこと(そしてそれによる健康の問題)も進化環境とのミスマッチが引き起こしている.運動不足になりがちなことについて,ダニエル・リーバーマンは「人間は運動したいと思うように進化してはいない」と説明している.
- アートには物語性,感情表現の重視などのユニバーサルな特徴があるが,サイエンスはそうではない.「物事の成り立ちを知りたい」という動機はユニバーサルだが,手法はそうではない.サイエンスの手法には普遍的な真実に迫れるという客観的な良し悪しの基準があるが,アートにはなさそうだ.私から見ると人文社会系の学問はサイエンスとアートの中間にあるような気がする.
第6章 ヒトを育てる,人を育てる
第6章はその他のエッセイ集.老後,少子化,リーダーシップが取り上げられている.
- 雑誌のインタビューで「老後とは何か,どうしたら良い老後を送れるのか」を聞かれ,考えてみた,進化的に見るとこれは生活史戦略の話になる.老後を繁殖終了したあとの時間だとすると,ほとんどの生物に老後はないが,ヒトは子育て後も生き続けることができる.それは狩猟採集時代でもそうだったが,しかしほぼ全員が60代以上生きるのは現代の先進国のみで起こっていることだ.
- 狩猟採集生活では定住せずに常に移動している.そこでは老いて食料獲得に貢献できなくなり皆の移動についていけなくなると,多くの場合「置いていってくれ」と頼むことで自ら死を選ぶようだ.良い老後というのはなるべく長く自分で自分の面倒を見て活発な精神生活を送り続けることではないかと思う.
- 現代日本は高齢化が進み,意思決定者がおおむね60〜80歳代になっている.社会の変化のスピードが増し,高齢者の経験や叡知があまり役立たない中でこれは困ったことかもしれない.それは今の高齢者たちが,かつての60年代の若者の騒乱のようなことを好まずにそう仕向けてきたからかもしれない.
- 進化的な視点から見て,常識の見直しによる改善が可能な事柄に学校制度がある.現在の日本の同年齢集団による学年制度に基づく学校制度は明治の富国強兵政策から導入されたものだ.そしてかつては普通にあった(子供の成長という点で非常に重要だった)子供の異年齢集団が崩壊してしまった.
- 同じようなことはほかにもある.社会には専門的な事柄を行う組織にあふれ,多くの人々が専門的職業に就くようになった.これは農業革命以降社会が分業により複雑化し,コンパートメント化せざるを得なくなったからと考えられる.
- なぜ先進国で少子化が起こるのか.生活史戦略から見ると,自分の資源をどう時間軸にそって配分するかが問題になる.資源量が増えると生活水準が向上するが,同時に持ちたいものややりたいことが増え,教育費などの出費も増えることになる.そしてヒトは自分で考えて予測する.豊かな社会に生まれて,より生活水準を高めたいと思い,子供を持つことがコストに感じられるようになると子供の数は減ることになる.
- 狩猟採集生活では暮らし向きはその日の運次第であり,一生懸命になるのは「今,ここ」の作業のみだった.だから将来に備えた勤勉さや向上心が美徳になったのはせいぜい農業革命以降の話だ.高度成長期には将来のための努力は確かに合理的だった.そういう時代が終わりつつあるのなら「勤勉さ」は私たちをこれからどこに連れて行くのだろうか.
- 狩猟採集時代の社会は小さな集団で皆でうまくやっていくという形だった.大きな集団のリーダーという存在は農業革命以降に現れたと考えられる.リーダーシップは人類にとってまだ試行錯誤途上の性質なのだ.
以上が本書の内容になる.ヒトについて長年研究と考察を続けてきた著者による進化的な人間像の解説と並んで,様々なエッセイ風の考察が並んでいる.研究者として第一線を退きつつある著者からのメッセージと思うとなかなか万感胸に迫るものがある.多くの人に読んでほしい一冊だ.
関連書籍
最近の長谷川眞理子の雑誌寄稿記事をまとめた本
東京大学出版会の雑誌「UP」に2010〜2012年ごろ連載されたものをまとめたもの.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/2023/05/16/105225
雑誌「財界」2018年9月以降に連載されているコラムの100回分を再構成の上一冊にまとめたもの.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/2023/08/25/114537
日本生態学会誌,現代思想,文芸春秋ほか様々なところへの寄稿を集めた一冊.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/2018/10/28/114042
*1:長谷川には同じように雑誌連載記事をまとめた「ヒトの原点を考える」もあるが,こちらはもともとビジネスマン向けの雑誌「財界」(2018~2022年)の記事がもとになっており,かなり一般向けにかかれた短い原稿が中心になっていて,やや趣が異なる
*2:わざわざ「進化論」に直してくる校正者がいると愚痴が書かれている
*3:なお,量子物理学を量子論,相対性理論を相対論と呼ぶように,進化論も単なる略称ではないかという議論については,「いや,しかし,どうもそうとは思われない」とコメントされている
*4:ここで,用語の話に戻って,進化論という言葉には諸々の誤解がすべてこびりついているように感じられ,それもこの言葉が嫌いな要因なのだろうとコメントされている



