「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第2章  「ダーウィンとグループ淘汰」 その2 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


ソーバーは第2章の主題を明らかにする.「ダーウィンはグループ淘汰擁護論者だ」という解釈を行いたいということだ.
そしてここでソーバー自身のグループ淘汰論争での立場を明らかにしている.

私はそもそも60年代に生物学者のツールキットからグループ淘汰を閉め出したのが間違いだと考えている.ただし,ナイーブグループ淘汰に組みするものではない.

要するに「ウィリアムズはナイーブグループ淘汰だけを閉め出すべきだったが,より大きな部分まで否定する結果になった」といいたいのだろう.しかし実際にはウィリアムズは,そして特にその後のドーキンスたちはまさに「ナイーブグループ淘汰」を否定したかったのではないだろうか.ともあれソーバーの議論に戻ろう.ソーバーはここでウィリアムズの議論を分析していく.


ここでウィリアムズの議論を再掲しておこう

  1. 性比が1:1になっていることはグループ淘汰からは説明できない.
  2. グループ淘汰は論理的に見て,ダーウィニズムにそぐわないとした.そしてある現象を個体淘汰から説明できるならことさらグループ淘汰を持ち出すべきでないという最節約論(系統的最節約論ではなくオッカムのカミソリ的議論)を唱えた
  3. そしてなぜ個体淘汰の方がより強いかにについていくつかの基礎的構造的議論を行った.
  • 数の議論:淘汰が問題になる場面が圧倒的に個体間淘汰の方が多い
  • 安定性の議論:グループは遺伝子がバラバラになりやすく,淘汰の結果が保たれにくい
  • 速度の議論:個体の方が世代間が短く,淘汰が速く進む
  • 起源の議論:グループ淘汰が働くにはそもそもその(利他的)形質があるグループの中で頻度が高くなければならない.そしてそれは個体淘汰的に難しい.

各論点に対するソーバーのコメントは以下の通り

  • 性比:これは実際に1:1からずれている例があり,そのなかにはグループ淘汰で説明できるものがある.(ハミルトンの議論との関連は後述)
  • 最節約性(オッカムのカミソリ)の議論:これはモデル選択論に属する問題だ.するとモデルは単純であればいいのではなくデータとのフィットとのトレードオフを考えるべきだと言うことになる.
  • 基礎的構造的議論
  1. 数の議論:しかしこれは絶対的否定ではない.グループの適応度差が大きくて多くのグループがあれば十分淘汰は生じうる
  2. 安定性議論も同じ,グループは完全にステイブルである必要はない.
  3. 速度議論も同じ.十分速い場合もあり得る.
  4. 起源の議論:グループが少数なら浮動に頼る必要もない.
  • ウィリアムズの主張のうち「個体淘汰とグループ淘汰はしばしばコンフリクトする」「現在グループのためになっている特徴があるとしても,それは必ずしも過去のグループ淘汰の産物とは限らない」は認めてよい.しかしグループ淘汰否定論者がよく用いる「グループ間で有利だとしてもグループ内では利己主義者が固定してしまう.ならば利他主義が残るはずがない」は認められない.
  • これは「シンプソンのパラドックス」と呼ばれるものの一つだ.「すべての『部分』について正しい言明が,『全体』についても正しいとは限らない」例「アメリカ50州の全州で男性の方が所得が高いとしても,全米では逆になることがあり得る」
  • ではなぜ60年代にはグループ淘汰は否定されてしまったのか.一つには還元主義の誘惑があったからだろう.そして70年代にカルチャーは変化した.当時新しい個人主義が勢いを持った.あるいは単にシンプソンのパラドックスにとらわれていたのかもしれない.いずれにせよいったんシンプソンのパラドックスが理解されたなら,単純にグループ淘汰を否定するのはナイーブに見えるようになる

私の印象は以下の通り

  • 性比の議論はまさにウィリアムズの念頭にあるのが「ナイーブグループ淘汰の否定」であることを示しているように思われるところだ.また学説史的にはまず包括適応度理論のフレームで説明できたことに触れずに単に「グループ淘汰で説明できる」とするのはやや公平を欠いた記述振りだろう.
  • 最節約性の議論についてはソーバーの指摘がなかなか鋭そうだ.
  • 基礎的構造的議論は,「ウィリアムズは『グループ淘汰は実際には生じにくい』ことを示そうとしている,そしてその狭い条件を示すのが包括適応度理論(そしてそれと数理的に等価なマルチレベル淘汰理論)である」というのが現代的な理解だろう.だからウィリアムズはグループ間淘汰が決して生じないとは最初から主張していない.そういう意味ではソーバーの指摘は最初から明らかなことを指摘しているに過ぎないように思えるところだ.
  • 「ある利他的形質がグループ間で有利だとしてもグループ内では利己主義者が固定してしまう」という議論はその後は「ならば利他主義が残るはずがない」ではなく「だから(無条件にグループ間淘汰が働くという)ナイーブグループ淘汰は成り立たない.」と続くべきものであり,ソーバーの指摘はかかしの議論に近い印象だ.(仮に厳密にテキストを読むと当時の様々な議論にはソーバーが指摘するような甘さがあるのかもしれない.しかし当時のこのような議論の仮想敵はナイーブグループ淘汰論であったのであり,様々な記述はその文脈で読むべきだろう)