Language, Cognition, and Human Nature 第5論文 「自然言語と自然淘汰」 その9

Language, Cognition, and Human Nature: Selected Articles

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少し間が空いたが,ピンカーの言語進化論文の続き.

言語適応仮説への批判には「言語が適応産物であるべき特徴を持たない」という視点からのものある.
本論文が批判している非適応説を主張するピアテリ=パルマリーニはこの形式の議論を用いている.そしてピアテリ=パルマリーニは「適応産物は恣意性を持たないはずだ」といういかにも筋悪で誤解に満ちた議論をしているようだ.こういうどこから突っ込んでいけばいいのか迷うようなあからさまな誤解に基づく議論に対して,きちんと反論するには逆に骨が折れる.しかしピンカーはひるまずに,丁寧に,そしてときに辛辣に批判する.

3.4 言語のデザインと恣意性

  • ピアテリ=パルマリーニは別の議論をしている.文法はコミュニケーションに対する適応として予測できるようなものではない以上,それはデザインではなく,適応産物ではあり得ないというものだ.
  • 彼はこう書いている.「生存基準,コミュニケーションと関連する行動の必要性は,われわれの言語の性質を説明できない.適応ではこれらの現象について説明し始めることさえできない」
  • 恣意性のある特徴としてよく引かれる例には,ムーブメントの制限,不規則型,主題-賓辞構造の語彙差異などがある.具体的には,なぜ「Who did John see Mary with?」と言えるのに「*Who did John see Mary and?」とは言えないのか,なぜ「John broke the glass.」と言えるのに「*John breaked the glass.」とは言えないのか,なぜ「John filled the glass with milk.」と言えるのに「*John poured the glass with milk.」とは言えないのかなどが問題になる.
  • 言語が適応ではないという議論は二つの形態をとる.(1)(それなら)言語はもっとよいはずだ.(2)(それなら)言語は別の形になっているはずだ.というものだ.これからどちらの議論も成り立たないこと,そしてそれらが指し示す事実は適応仮説と整合的でありどんな代替仮説も支持しないことを示していく.
3.4.1 本質的なトレードオフ
  • 文法に機能がないとする最も荒削りな議論は以下のようなものになる.「X制限についてあなたは機能を説明できないはずだ.だから言語はスパンドレルだ」.しかし言語のある部分の機能が説明できないからといって言語のすべての部分が機能を持たないことにはならない.身体のあるパーツのある特徴に機能がないからといって身体を構成する個別の臓器に機能がないことにはならないのだ.さらに,X制限は,言語の意味あるパーツではなく,その(複数ある)態様の一つの記述にすぎないのかもしれない.どんな適応産物であってもそのすべての特徴に機能があるわけではない.
  • 最近の言語学史は,新しく発見された制限が,最初は文法の一部としての明確なルールとして提唱され,その後それは実はより広い原則から推測できる結果に過ぎないことがわかったという例に満ちている.例えば「*John to have won is surprising.」が非文である理由は,かつては「NP to VP」列を許容しないという特殊なフィルターの結果だと考えられていた.しかし現在ではそれは「格フィルター」の一つの結果だとされている.「NP to VP」フィルターの機能は説明しにくいが,「格フィルター」の機能は明白だ.
  • いくつかの最適でない特徴があるだけでは結論を出すことができない以上,私たちはなぜその特徴があるかが説明できるかどうかをよく吟味しなければならない.ピアテリ=パルマリーニにより主張される非適応主義的な立場の場合そのような吟味はなされていない.彼等の立場はそれについての適応的説明がないであろうことにすべてを依存している.そして実際のところ,これから説明するように進化理論上も言語学的な視点からもそのような説明はできるのだ.だから彼等の立場は成り立たない.
  • 自然淘汰が常に完璧を創り出すという命題は進化理論では否定されている.メイナード=スミスがいうように,もし無制限に何でも可能なら,最上の表現型は無限に生き続け,捕食者には捉えられず,無限大の効率で卵を産むというものになるだろう.互いに排他的な適応のゴールにより生じるトレードオフは生命体のデザインの最適性に重大な制限を与えるのだ.ゴージャスな羽毛で自分の健康さをメスに示すことは鳥のオスにとっては適応的かもしれないが,それは捕食されたり飛べなくなったりしない限りという制限の元にある.
  • 同じように言語の有用性においてもトレードオフの存在は不可避だ.例えば,話し手と聞き手の間には利益のコンフリクトがある.話し手は発声努力を最小化したい.だから短縮化,音声的簡略化を望む.聞き手は理解努力を最小化したい.だから明解で明白であることを好むのだ.このコンフリクトは本質的なものであり,様々なレベルで現れる.編集者は省略的な記述を展開させるように著者に圧力をかけるし,記者は新聞の見出しを短く簡略的にしたがる.同様なコンフリクトは話し手と学習者の間にもある.大きな語彙は簡潔で正確な表現を可能にするが,学習者がそれを習得できてはじめて有用性を発揮する.これも本質的なトレードオフなのだ.ある人にとってのジャーゴンは別の人にとって至言になる.
  • コミュケーションのための共通システムはこれらの要求間の妥協となるコードを採用するようになり,ある特定基準から見ると最適ではなくなる.そして解決可能な組み合わせ空間は広い.スロービンによると,セルボクロアチア語の屈折システムは「古典的インドヨーロッパ語の合成の泥沼」に陥っていて,名詞には不規則性,同音異義性,ゼロ形態素性にあふれたパラダイムから一つの接辞が付加される.その結果このシステムの習得には時間を要し,しかも難解だ.これに対してトルコ語尾の屈折システムは明解で,規則性の高い接辞で区切られており,2歳でマスターできる.しかし一旦マスターした大人にとってはセルボクロアチア語は発音しなければならない音素を最小化できるというメリットがある.
  • さらにスロービンは,このようなトレードオフは言語の歴史的変遷からも見て取れると主張している.例をあげると,簡潔性に向かう変化は理解が困難になるところまで進むが,そこからは新しい接辞や区別が導入されバランスが元に戻るという傾向がある.言語のある特徴は,特定の基準から見ればより良い方法があるという意味では恣意的であり得る.しかしそれはまったく役に立たないということにはならないのだ.
  • subjacencyの制限(特定の句のノードを越えた場合に,ある先行語とギャップに間に従属が生じることを禁止するもの)は恣意的な制限とされたものの古典的な例だ.英語においてWhat does he believe they claimed that I said?とは言えるが,*What does he believe the claim that I said?とは言えない.なぜ言語にこんな制限があるのだろうか.それは,ギャップのある文章を追うのは難しい問題であることを踏まえた,発音されない要素がどこにあるかわからない場合に備えたシステムなのかもしれない.subjacency制限があれば,文章の構造のセットを切り分け可能にするので,ギャップのある文章を追うのが容易になるのだ.この聞き手にとってのボーナスは,しばしば話し手にとっては煩わしいものになる.これらの制限に「必然性」はない.しかし,表現力と理解の容易さの間の妥協点を選ぶことによって,進化プロセスはいくつかの満足しうるサブセットに収斂したのかもしれないのだ.


まず最初に言語学による「最初は無意味な制限であるかのように見えたものが実は深い構造の一部である」ことの発見を持ってきて(互いの)専門分野における知識を利用したジャブを放つ.それから恣意性への最初の反論「それはいくつかのトレードオフの妥協の産物であり,様々な妥協があり得る」を説明している.例はいずれも言語学周りのものでいろいろと興味深い.