協力する種 その4

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

訳者たちによる解説 その4


大槻による理論的解説は,いよいよ本丸である2番目の論点「マルチレベル淘汰の重要性」,あるいは「血縁淘汰をめぐる本書の混乱振り」に突入する.ここは解説の中でも読みどころだ.


各論2-1 進化生物学からの批判
  • 本書では「近縁個体からなる家族集団における利他行動の進化」をハミルトン則で説明できることから「血縁に基づく淘汰(kin-based selection)」と呼び,これではヒト集団の大規模な協力を説明できないととして,「マルチレベル淘汰」の概念を登場させている.(その後マルチレベル淘汰をプライス方程式から説明する)
  • 読者は「血縁に基づく淘汰」と「マルチレベル淘汰」は別の概念であり,ヒトの協力行動の進化は(前者では説明できず)後者で説明できるのだという印象を持つだろう.そして実際に著者たちも両者を区別して後者の優位性を主張しているようだ.
  • しかしこのような主張は,多くの進化生物学者から激しい批判を受けている.例えばウエストは「(1)マルチレベル淘汰と血縁淘汰は同じ現象の別解釈である.(2)マルチレベル淘汰は血縁淘汰に欠けている点を補う新しい理論などではない.(3)むしろ「マルチレベル淘汰」という不必要な理論を持ち出して,問題の本質を見えにくくしている」と厳しく批判している(West et al. 2008, West et al. 2011).私(大槻)もこの批判におおむね賛同する.
  • 本書の記述においてまず気になるのは,進化生物学用語を独自に改変しているところだ.著者たちは通常使われている「血縁淘汰(kin selection)」ではなく(特に血縁者を認知して選択的に協力するという意味合いで)「血縁に基づく淘汰(kin-based selection)」という用語を用い,この「血縁に基づく淘汰」と「マルチレベル淘汰」の上位概念として「包括適応度淘汰(inclusive fitness selection)」という概念を導入する.しかし「包括適応度淘汰」という用語は進化生物学には存在しない.
  • そもそも科学用語は,意味だけでなくそれが生みだされた歴史的背景や過程を含むものだ.それを元に造語を生みだしたり,特定の文章で特定の意味を持たせたりする場合には,特段の注意を払うべきだ,その意味で本書の「包括適応度淘汰」という用語には3つの問題がある.(1)包括適応度を既に知っている読者を混乱させる(2)包括適応度を知らない読者を誤解させる(3)著者たちの権威によりこの用語自体が権威を持ってしまう.
  • そして本書をよく読めば,著者たちが包括適応度自体を誤解していることが明らかになる.
  • 著者たちは,マルチレベル淘汰におけるグループ内淘汰とグループ間淘汰と同じように,「包括適応度淘汰」には「行動がある形質に与える直接効果」と「家族構造やグループ構造があることから生じる間接効果」の2つがあると主張する.しかしこの二組の効果は直接の関係がないはずだ.
  • 著者たちのいう直接効果と間接効果はそもそも曖昧な説明でよくわからない.そして少なくとも,通常包括適応度理論で用いられる直接適応度と間接適応度の分解とは異なっている.(この分解は行為者の包括適応度を,その行為の自らへの効果で増減する部分(直接適応度)と,受け手である血縁者への効果を血縁度で重み付けされて増減する部分(間接適応度)に分解するものである.だから直接適応度は「行動」が「形質」に対して与える「直接効果」部分とはなり得ない)
  • これは単なる用語の表現の不備をあげつらっているわけではない.この部分は本書全体の主張の核心に直結している.そして著者たちの「ヒトの大規模な協力は血縁に基づく淘汰では説明できない」という主張は,単に血縁淘汰(包括適応度理論)を過小評価している結果に過ぎないと思えてならない.
各論2-2 血縁淘汰理論の本来の適用範囲

続いて大槻は,著者たちによる「血縁淘汰の過小評価」「血縁に基づく淘汰という名前をつけて勝手に適用範囲を縮小している問題」を詳しく説明している.
まずハミルトンの1964年論文での血縁淘汰の提唱,その後1970年論文での精緻化を説明し,血縁淘汰理論(包括適応度理論)は行為者と受け手の間に遺伝相関があれば成立するもので,同祖的な家族関係や血縁認識を必要としていないことを丁寧に説明し,著者たちの過小評価振りを詳しく解説する.
また本書で説明されているマルチレベル淘汰的な状況が血縁淘汰(包括適応度理論)としても成り立つことを,グループ内集団=血縁度が高い集団となることを示す具体的事例(集団が島ごとの個体群に分かれていて島間の交雑可能性が低い状況:この場合,ある島の個体同士は血縁度が高くなることは簡単にシミュレーションで示せる)を出し,さらに利他行為のマルチレベル淘汰的説明が包括適応度理論的にも示せることを数式を用いて丁寧に解説している.(さらにそこでは著者たちの「『包括適応度淘汰』のハミルトン則を示す式」をさらにより包括適応度理論的に展開してその深い意味内容を解説し,著者たちの理解の浅さを指摘している)このあたりは単に「数理的に等価だ」として抽象的に解説するだけでなく具体例を示していて迫力がある.


大槻はこの理論的な部分をこう締めている.

  • 著者たちのこの態度は,進化生物学者たちからは「血縁淘汰によるモデルを作っておきながら,その解釈においてマルチレベル淘汰を持ち出している」と批判されている.
  • このような論争は散発的に繰り返されており,2010年にもノヴァクたちの「血縁淘汰理論は間違いである」と主張する論文がNatureに掲載されて大騒ぎになった.これに対しては即座に100名を超える進化生物学者たちが連名で反論論文を掲載しており,ノヴァクたちの主張の大半は進化生物学者には受け入れられていない.
  • 血縁淘汰(包括適応度理論)は究極因レベルで正の同類性を包括的に理解する枠組みを与えたことに価値があり,その部分を理解するなら,本書の主張は(至近要因を問題にする「血縁に基づく淘汰」では説明できないとしても)「血縁淘汰」で理解可能である.

なかなか厳しい批判も含まれているが,全く同感というところだ,そもそも「血縁淘汰(あるいは包括適応度理論)とマルチレベル淘汰が数理的に等価である」というのは(マルチレベル淘汰の守護聖人であるD. S. ウィルソンも含めて)多くの進化生物学者の共通認識だ.それを全くスルーして「ヒトの大規模な協力は血縁淘汰では説明できないがマルチレベル淘汰では説明できる」と主張するのは荒唐無稽にすぎるだろう.しかもそこで「血縁淘汰」といわずに「血縁に基づく淘汰」なる怪しい用語を用いて,(血縁淘汰の適用範囲を勝手に狭めた上で)言い逃れ可能にしているように見えるところが,読んでいて全くイライラさせられるところであり,いかにも不誠実で姑息な印象だ.


ノヴァクたちの論文の筋悪ぶりについては本ブログでも延々と採り上げたことがある(http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101012以降,結論はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110418)が,ノヴァクたちの議論は,包括適応度理論がモデルを単純化するための前提を「理論の制限」と批判するものだったのに対して,ボウルズ,ギンタスの議論はそもそもの包括適応度理論を矮小化させたうえで叩くという「かかしの議論」であり,より姑息だという印象だ.(なおここで言及されている100人を超える著者によるノヴァクたちへの反論論文についてはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110430参照)


本書全体を通読してみると,そもそも著者たちの主張は血縁淘汰(包括適応度理論)で説明しても何も問題はないことがわかる.なぜ彼等はことさらに血縁淘汰を貶めようとするのだろうか.それはかつてラディカル政治経済学者としてならした著者たちにしてみれば,美しい「協力」が「身内びいき」から進化したという言い方に我慢できないということなのだろうか.あるいはそういう考えから誤解に凝り固まっているリチャーソンの説明を額面通りに受け取って,ハミルトンのオリジナルな主張については単純に不勉強ということなのだろうか.いずれにせよヒトの「自分は道徳的であると思われたい」という感情はつくづく厄介だというのが私の感想だ.