Enlightenment Now その69

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

第22章 科学 その4

 
極端な科学叩きを概観したあと,ピンカーはより重要な問題に移る.
 

  • 科学の本質についての批判は,1980年代のサイエンスウォーズの遺物などではなく,大学における科学の役割をいまでも規定し続けている.(ピンカーの所属するハーバードが2006年に教育基準を改定したときのやり方が批判されている.科学の功績とその害悪(とされるもの)を,その重大性を無視して並べて記述するスタンスは確かにひどいといわざるを得ないだろう)
  • 人文科学教育で科学が悪魔化されるのは問題なのか.もちろん大問題だ.まず入学時に多くの学生は進路を決めていない.彼等に「科学は,宗教や神話と同じナラティブであり,人種差別や性差別を理屈づける」と教示することはどんな結果を生むだろうか.私は「それが科学なら金儲けの方がはるかにましだ」と叫ぶ学生を実際に見たことがある.
  • また科学への非難は科学そのものの進歩を遅らせる.今日ヒトについて調査するには面倒な倫理委員会をパスしなければならない.もちろんリサーチにより被害や害悪が生じるのは避けねばならない.しかしこの官僚組織は本来の役割をはるかに越えて妨害的だ.(ひどい干渉の事例がいくつか紹介されている)
  • この妨害主義は「生命倫理学」と呼ばれる分野で正当化されている.この分野の理論家たちは,いかにも曖昧な「威厳」「神聖」「社会正義」などの概念を用いて,なぜ同意している理性と常識を持つ大人たちが自分たちにとって有益なリサーチに誰も他人を傷つけることなく参加することを禁止されなければならないかの「理由」を作り出している.彼等は核兵器やナチスや世紀末SFを引き合いに出して生物医学の進歩を止めようとしているのだ.道徳哲学者のジュリアン・サビュレスキュは「生命倫理学」の妨害主義の反倫理性について「毎年10万人が死んでいる病気の治療法を1年遅らせるのには10万人の命の責任を伴うのだ」と説明している.

 
このあたりもピンカーの怒りが吹き出ている感じがある.確かに「生命倫理学」が当然視する「威厳」「神聖」「社会正義」には首をかしげざるを得ないようなものが含まれている.日本では大学の1,2年次一般教養の科学概説などの講座で「科学は,宗教や神話と同じナラティブであり,人種差別や性差別を理屈づける」などという教示が行われているのだろうか.現在の状況はよく知らないが,そこまでではないのではないかという気もするところだ.
 
ここからピンカーの科学擁護が始まることになる.
 

  • 科学を正しく評価することの最大のメリットは皆が物事を科学的に考えられるようになることだ.科学は認知バイアスや政治的部族主義自体を治療するわけではないが,皆が科学的に考えればより良い状態になるはずだ.科学的洗練を広げようとすること(例えばデータに基づくジャーナリズム,ベイジアン予測,エビデンスベースの医療など)は人類の幸福を増やす可能性を秘めている.
  • しかしその広がりは遅い.医者は治療法が有効かと尋ねられると「私の患者の一部はそう認めている」と答える.ビジネス界は,相関と因果を区別せずに物事は逸話で証明可能だと信じる賢い人であふれている.私の同僚は国連のことを法律家と人文学を修めた人々による「エビデンスフリーゾーン」だと描写する.
  • 科学への抵抗主義者は,物事には定量化できないものもあると主張し科学的思考に反対する.彼等はすべてを0か1かで判断し,数字を使わずにmore, less, better, worseのみを用い,数量化を要求されると「私の直感を信じて欲しい」という.
  • しかし認知科学で最もはっきりわかっていることの1つは「専門家も含む人々は自分の直感に対して傲岸不遜に自信過剰だ」ということだ.(リサーチが解説されている)
  • 良い物事の常として,データは万能薬ではない.予算制約の中でどのようなデータを集めてどう分析するかを考えなくてはならない.だから問題を数量化しようとしても,最初はおおざっぱなものにならざるをえない.それでも数量化すればそれを評価して改善していけるのだ.
  • 政治とジャーナリズムの文化はほとんど科学的な思考法に無知だ.そして多くの人の生死を分ける重大な問題に,逸話,ヘッドライン,レトリック,高給取りの意見という誤謬に導きやすいことがわかっている手法を用いる.

 
ここでピンカーはデータを見ないことによって世間に広まっている誤解の例をいくつかあげている.

  • データ恐怖症は重大な悲劇に直結する.
  • 国連の平和維持活動は有効か?:多くのジャーナリズムはボスニアの失敗の一例でそれが否定されたと思っているが,データを見るとその有効性ははっきりしている.(ヴァージニア・フォルトナの著者が引かれている)

Does Peacekeeping Work?: Shaping Belligerents' Choices After Civil War

Does Peacekeeping Work?: Shaping Belligerents' Choices After Civil War

 

  • 多民族地域には「古代からの憎悪」が巣くっているのか?:95%の隣り合う民族は暴力なしで共存している.アフリカではそれは99%だ.
  • 非暴力的反対キャンペーンは有効か?:多くの人はガンジーとキング牧師は単に幸運だっただけだと思っている.しかし定量的なリサーチによると1900年から2006年までのこのようなキャンペーンの3/4が成功している.

 

  • これらのことはデータなしに知ることはできない.多くの暴力的政治組織やテロリストは暴力なしに世界は変えられないのだと信じているのだろう.しかし皆がデータに基づいてそうでないことを知ればどうだろうか.大学の人文カリキュラムでもっと多くの時間を定量分析に費やせば世界は変わっていくかもしれない.

 
ピンカーのここでの科学擁護の議論は「データとエビデンス」をより活用するには科学的思考法が有効だというものだ.このデータとエビデンスを軽視して直感だけで物事を決めていく弊害は日本の政治過程でも頻繁に見られるところだ.しかしどうすれば官僚や為政者に科学的思考法を埋め込むことができるのだろうか.ピンカーはそこにも踏み込んでいく.