Enlightenment Now その68

 

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

第22章 科学 その3

 
ピンカーは科学の特別な点を整理した.ではこの科学に対してのインテリの憤慨振りはどこから来るのだろうか.ピンカーはまずグールドの議論を取り上げる.

  • 多くの人は科学は物理的世界において便利なものを与えてくれる点で評価はするが,それと人間として真に重大なこととの間に線を引く.我々は何者か,人生の意味と目的とは何かなどの深い問題だ.かつてはこれは宗教の領域だと考えられてきたし,最も激しい科学批判者も同じように主張する.そして彼等はしばしばグールドが「Rocks of Ages(邦題:神と科学は共存できるか?)」で持ち出した「重ならない領域」議論(科学は事実を宗教は価値を)を引き合いに出す.


Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life (English Edition)

Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life (English Edition)

神と科学は共存できるか?

神と科学は共存できるか?

邦訳についての私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20071129/1196332191
 

  • しかしこの協約が破綻していることは調べればすぐわかる.科学的教養ある人は宗教的ではない意味や価値を求めるからだ.
  • まず,科学は,多くの伝統的宗教と伝統的文化の信念システム(創世記や世界についての説明)が事実として間違っていることを明らかにしてきた.(数多くの例がこれでもかと挙げられている)
  • 今日の知識と教養ある人の道徳と精神的価値を導く世界観は科学に基づくものになっている.事実は価値を導かないが,その可能性の周りを取り巻いているのだ.事実についての教会の権威がはぎ取られれば,その価値についての主張も怪しくなる.例えば,犠牲を要求する神の存在を疑うようになれば,人身御供についての見方は変わる.世界を統べる高位存在の目的がないとわかれば,人類の幸福には自分たちで責任を持たねばならないと覚悟できる.そしていくつかの当然の前提(すべての人は自分の幸福を気にしている,我々は互いを尊重する社会的生物だ)と組み合わせることで,科学的事実は擁護可能なモラルにつながる.これがヒューマニズムであり,現代の民主主義国,国際機関,リベラルな宗教のデファクトなモラルになっているのだ.

 
グールドの議論に対しては,そうはいっても宗教は事実の問題に口出ししているじゃないかというのがよくある反論だが,ピンカーはさらに一歩進めて価値の主張の周りには事実の主張が取り巻いていることがあるのだと指摘している.自然主義的誤謬については「当然の前提」を組み入れることでパスしているということになるのだろう.確かに一旦価値の基礎を持ち込めば,価値の議論を行うことができる.そしてそこから先の価値にかかる議論にとっては事実がどうなっているかは非常に重要になるだろう.なかなか鋭い指摘だ.
 
ここからピンカーはグールドを離れて一般的なインテリによる科学否定論に進む.
 

  • 科学はこのように我々の物質的,モラル的,知的な人生に埋め込まれ続けているのに,多く文化組織は科学への無視を決め込むか,あるいは見下している.ハイクオリティの知的雑誌は自分たちの領域を政治と芸術に限定し,科学からの新しい知見は(温暖化のように)それが政治化しない限り取り上げようとはしない.もっとひどいのは多くの大学の人文科学のカリキュラムだ.そこには科学はほとんどなく,わずかにある科学関連の中身は学生を反科学に誘うようなものだけだ.そこで最もよく取り上げられているのはクーンの「科学革命の構造」の議論だが,それは「科学は真実に収斂することなく,パラダイム間をフリップする」と解釈されて教えられる.この解釈はクーン自身が否定しているが,第2文化の常識になっている.

 

The Structure of Scientific Revolutions: 50th Anniversary Edition (English Edition)

The Structure of Scientific Revolutions: 50th Anniversary Edition (English Edition)

科学革命の構造

科学革命の構造


  

  • 科学史家のデイヴィッド・ウートンは科学史という分野について「スノーの指摘した問題は深くなり続けている.今日の科学史は芸術と科学の架け橋になるどころか,科学者にとって理解不可能な科学観を振り回すものになりはてている」とコメントしている.多くの科学史家にとって,科学を「真実を追究するものだ」と扱うことはあまりにナイーブであるように感じられるからだ.この結果この分野はダンス批評家がバスケのゲームを解説するようなものになっている.(ピンカー自身の体験談もいくつか紹介されている)

 
ここから様々なインテリによる醜悪な科学批判が次々にやり玉に挙げられている.ピンカーの怒りが吹き出ているような部分だ.
 

  • 多くの「サイエンススタディ」の学者は,科学全体が抑圧の道具であることを示す分析に自身のキャリアをかけている.(フェミニスト植民地科学研究とフェミニスト政治生態学を融合することで,より公正で公平な科学と人間と氷の相互作用の解明を目指す「フェミニスト氷河学」のフレームを考察する例が示されている)
  • 特にひどいのは人種差別や奴隷制やジェノサイドなどの文明と同じくらい古い犯罪を(理性やその他の啓蒙運動の価値とともに)科学に負わせようとする悪魔化キャンペーンだ.これはデオドール・アドルノたちの擬マルクス主義のフランクフルト学派や(ホロコーストを啓蒙運動と共に始まった生物学政治の必然だとする)マイケル・フォーコールトたちのポストモダニズム*1の基本理論になる.
  • もちろん科学はひどい政治に悪用されることがある.個々の科学者の役割は検証されなければならないが,人文学者たちが批判したい相手を攻撃する時には,しばしばその資質(文脈,ニュアンス,歴史の深さ)を捨て去ってしまうことも考慮に入れておくべきだ.
  • 「科学的人種差別主義(人種は北欧人を頂点に進化的な知的階層を形成すると考える)」への非難は良い例だ.それは20世紀の初めに頭蓋骨測定やメンタルテストをもとに主張され,20世紀の半ばにはより良い科学とナチズムへの恐怖により否定された.しかしインテリたちは人種差別イデオロギーの責任を科学,特に進化学に負わせようとし続けた.そもそも人種差別的信念は古代ギリシア以降の世界中の歴史にあふれているし,奴隷制はすべての文明で実施されていた.そして19世紀西洋の人種差別思想のルーツは科学ではなく人文学(歴史,文献学,古典学,神話学)にあるのだ.(ナチの「アーリア人の優越」概念がどこから来たのかについての詳細な説明がある.科学,特に進化学はこれに絡んでいない.ヒトラーは自身の人種に関するロマンチック理論と矛盾するダーウィン説を否定していたのだ)
  • 「社会ダーウィニズム」への非難も同じようなものだ.それはしばしば非常に偏った形で科学の責任とされる.それはもともとはハーバート・スペンサーのリバタリアン的な政治アジェンダについてダーウィンの名前が後付けで付与されたものだ.スペンサーのアジェンダは「種の起源」の出版より8年も前に発表されていた.そしてスペンサー自身の考えはラマルク的で,ランダムミューテーションも自然淘汰も信じていなかった.左派の批判者は,さらにスペンサーとは関係のない帝国主義や優生学についてまで「社会ダーウィニズム」のラベルを拡大させ,今日ではそれは「進化的視点による人間理解」のすべての試みにまで拡大されようとしている.だから「社会ダーウィニズム」には(その語源的な問題を除けば)ダーウィンも進化生物学も全く関係なく,さらにいまやほとんど意味のない名称になってしまっている.
  • 「優生学」もイデオロジカルなぐだぐだになりはてている.ゴールトンは優秀な人々が結婚して子をなすことを奨励してヒトの遺伝ストックを改善しようと提案した.それは劣った遺伝要素を排除しようという思想につながり,ナチスドイツだけでなくアメリカをはじめとする多くの国で政策化された.第二次世界大戦後優生学運動はナチとの連想もあって永遠に破棄された.しかしその用語は数々の科学的試み(医療遺伝学,行動遺伝学など)を非難するために拡張され,さらに右派の政治思想と描写されるようになった.しかし実際には(1930年代の)優生学は,(大きな政府を良きものと考える)進歩派,リベラル,社会主義者の主張だったのだ.

 
もちろんピンカーは帝国主義や優生学を擁護しようとしているわけではない.最後にこうコメントしている.
 

  • 私はこれらの運動に科学はあまり関与していないと主張した.それは科学者を免責するためではない.これらの運動については,単なる反科学キャンペーンに使用するのではなく,より文脈を考慮したより深い理解を行うべきだからだ.これらの運動はその時代の宗教,芸術,知識人,政治的信念から,つまりロマン主義,文化的悲観主義,弁証法,神秘的進歩主義,権威主義的モダニズムから出てきているのだ.現在の我々にとってこれらの思想が時代遅れで誤りだと感じられるのは,まさにより良い歴史的理解と科学的な理解があるからなのだ.

日本での状況はどうなのだろうか.私には全体を俯瞰する能力はないが,アメリカほど先鋭化はしていないが,逆にあまり問題意識もなく何となく科学に対する反感が醸成されているという状況なのかもしれない.
 

*1:彼等によるとホロコーストはナチの責任ではなく啓蒙運動の責任だということになるそうだ