From Darwin to Derrida その24

「遺伝子ミーム」その6

 
ミームを操作的に定義したあと,いよいよミーム論の本論,つまり物事が誰のためになっているかを突き詰めた議論が始まる.
 

  • では,ミームが伝達されるときに「誰の」利益になっているのだろうか.この問題は個人の視点からもミームの視点からも捉えることができる.個人の視点から考える時にはそれぞれの伝達者の利益を考えることになる.彼が意図的にミームを伝達したのなら,ミーム伝達は彼の想定する利益にかなうのだろう.ここで「想定」と言っているのは,個人の思惑は間違っていることがあるからだ.
  • ミームの視点から考える,つまり文化をミームの自己複製利益というレンズでみるという方法は最初の視点にないメリットを持つのだろうか.それは伝達者の誰の利益にもなっていないミームがミームの利益のために広がっているという状況があれば正当化される.さらにミームが伝達されやすくなる特徴が伝達ステップを積み重ねるにつれて累積的に形成されていくことが見いだされても正当化される.

 
ここからよくあるミーム論をめぐる論点の1つ,「ミームにおいて遺伝型と表現型の区別はどうなるのか(遺伝的進化とのアナロジーは成り立つのか)」という論点に入る.
 

  • ヨハンセンは遺伝型と表現型を区別するために「gene」という単語を導入した.ミーム学にも同じような区別があるだろうか.ミーム伝達の様相にかかる証拠には2つの種類がある.1つは音,テキスト,行動,人工物などのコミュニケーション行為だ.もう1つはコミュニケーションについての内省から来る洞察だ.ただし内省は,無意識の動機に惑わされやすく,その意識的思考は不完全で不正確になりやすいので頼りないガイドだ.
  • コミュニケーション行為は遺伝型のコンセプト(伝達されるもの本体)に近い.これにより引き起こされる意識的無意識的な効果は表現型のコンセプト(伝達されるものによる効果)に近い.遺伝学の歴史において表現型が観察され,遺伝型は推測された.しかしミーム学ではこれは逆になる.ミームは観察されるが,効果は推測するしかない.

 

  • 遺伝型(genotype)と表現型(phenotype)の区別は遺伝子についてはいろいろ有用だった.しかしミームについてはいくつもの未解決問題がある.例えば中世のギルドに大衆の意見を変えるためのプロパガンディスト達のための方法があり,それが口伝で師匠から弟子に伝えられていたとしよう.ある弟子がこの方法を使って意図したプロパガンダを成功させたとする.するとこの成功は弟子がさらにその弟子に口伝を行うかどうかに影響する.ミームのテクニックの視点に立てばプロパガンダは伝達効率に影響を与える(口伝される方法としての)ミームが生みだす産物ということになるが,それ自体ミームと考えることもできる.この場合のプロパガンダムはミーモタイプ(memotype)でもフェモタイプ(phemotype)でもありうる.
  • 遺伝子にはDNA配列としての物質的な定義がある.ミームも音波やテキストや紙や電子信号などの物質的な形態を持つ.このようなミームの外部的形態が感知されると,それはミームの「隠れた」形態を構成する神経システムにおける変化を引き起こす.このミームの「隠れた」形態の物質的な基礎はそれぞれの神経システムにおいて独特だろう.そしてミーム複製はDNAの二重鎖のような単純でエレガントなものではない.
  • もしミームの物質的な形態が問題なら,情報として定義すればいいのではないか? しかしそれなら我々の進化する「遺伝子」のミームとは何になるだろうか.これらのアイデアは伝達の都度再形成され,別のアイデアと組み替えられる.どのようにして淘汰単位として十分な世代にわたり一貫して存在するアイデアの「核」を抽出できるだろうか.ドーキンスは「淘汰単位としてみることのできる実体は利己的であることが予想される」と言っている.彼は「自然淘汰において成功する単位は長命で繁殖力が高くコピーの信頼性を持つものである」と考えており,遺伝子についてそのような実体を想定しているのだ.しかし(このような遺伝子についてのかっちりした定義とは異なり)ドーキンスのミームの定義は曖昧であり,単に「文化的伝達の単位,模倣の単位」としているだけだ.このような自然淘汰の単位として成り立ち,「利己的」というラベルを貼れるようなミームの定義はあるのだろうか.
  • 「利己的な遺伝子」初版のことを考えよう.このドーキンスの本は多くの古いテキストに影響された多くのアイデアを含み,それは(本書を含む)多くの新しいテキストに影響を与えている.「利己的な遺伝子」自体をそれぞれ長命で繁殖力が高くコピー信頼性を持つ利己的なミームのセットして分析できるだろうか.私たちはゲノムについて同じようにしているだろうか.
  • ドーキンスはゲノムの中の遺伝子の境界をはっきりさせようとしていない.「遺伝子は染色体の一部分で,組み替えなく長命であるために十分に短く,淘汰の多因にとして機能するもの」といっている.この定義によれば染色体を遺伝子に切り分ける方法は一意に決まらないことになる.ミームも同じように扱っていいのだろうか.

 
この部分の考察はなかなか深い.ミーム論についての批判と擁護の議論が回りくどくなりやすい背景がよくわかるものだ.