From Darwin to Derrida その45

 

第5章 しなやかなロボットとぎこちない遺伝子 その10

 
ヘイグはインプリントされた遺伝子間の個体内コンフリクトを取り上げ,いくつかの例をあげた.基本的に父由来遺伝子と母由来遺伝子は母親からの投資量をめぐってコンフリクト状態になる.実際にこの投資を母親から引き出すためのパーソナリティや行動傾向がコンフリクトによる綱引きの結果決まっているらしいことが(そのインプリント遺伝子クラスターが除去された状態である)プラダーウィリ症候群とアンジェルマン症候群からわかるのだ.
この個体内コンフリクトは第5章のテーマである「遺伝子はどのように個体をコントロールしているか」を良く理解するための実例ということになる.そしてヘイグは第5章の最後でこのテーマに戻り,これを発達システム論との関係で論じている.
 

多数からなる1つ(E Pluribus unum*1

 

  • ここで一旦発達システム理論の視点に立って,遺伝子が有機体の自動機械をコントロールしているのかどうかを考えてみよう.
  • 個体発生には必然的に発達中の物質的生命体とその環境の相互作用が含まれている.遺伝子はこの過程の重要な部分だが,それだけでは作用できない.核酸は遺伝子の物質だが,生命体の分子コンポーネントという意味ではタンパク質や脂肪や炭水化物やミネラルと異ならない.これらの分子はより高いレベルのコンポーネント,つまり筋肉や神経や骨に組織化され,環境の中で目的論的に機能する.
  • 瞬間瞬間の生命体の行動のコントロールには遺伝子発現の変化はほとんど関与しない.しかしより長期的な発達のタイムスケールにおいては遺伝子は生命体が環境においてどう反応するかを改変するツールとなる.この生命体の機能にかかる遺伝子の概念はトークンとしての遺伝子,あるいは物質的遺伝子に近い.物質的遺伝子は生命体の行動をコントロールしない.生命体はそれの持つ複雑性の世界の中でそれ自身をコントロールしている.これは自律的なロボットのメタファーになる.

 
最後の部分は難解だ.発達過程において生命体の構成に指令を与える遺伝子が情報遺伝子より物質遺伝子に近いというのはわかりにくい.ヘイグがここで指摘しているのはそのような生命体を構成するような指令は直接の行動の指令とはかなり異なるということに過ぎないのだろうか.ここからヘイグは個体内コンフリクトの視点も入れ込むとどうなるかに進む.
 

  • ここでその生命体が分割されているとするなら,我々はコントロールについてどう考えればいいのだろうか.社会というメタファーは(自律的ロボットというメタファーより)より柔軟なエージェンシーについての考察の方法を示唆してくれる.国家とその市民のエージェンシーを考えてみよう.国家は世界の中で活動する.国家は宣戦布告し,条約を結び,インフラに投資し,市民間の紛争を解決する.これらの活動は市民の行動によって部分的に定められるが,その市民の選択や選好は国家の行動により形成される.
  • 国家の集合的エージェンシー性を否定しつつ市民の自律エージェンシー性を信じることができるかもしれない.しかし社会とそのメンバーについての因果性を理解するという問題は(部分から全体を参照し,かつ全体から部分を参照するという)単純な聖書解釈学ではない.
  • 個人としてのヒトは単に社会的グループの下部構造であるわけではない.グループはオーバーラップするメンバーを持つ.例えば一部の市民は(二重国籍者として)複数の国家に属している.このような場合の二重忠誠は国家内のコンフリクトの要因にもなれば,国家間の協調の要因にもなるだろう.

 

  • 私は生命体の行動のタイムスケールにおいて2種類のアクターを認識している.我々が生命体と認識する歴史的な個体と私が戦略的遺伝子と呼ぶ歴史的個体だ.これらの関係はある意味で国家と市民のそれに似ている.生命体は世界の中でその戦略的遺伝子達の集合的行動として決定されたように行動する.しかし個別の遺伝子的な行動は生命体レベルで得られた情報により決定される.戦略的遺伝子は単に生命体機械のパーツであるだけではない.なぜなら生命体の中の一部の戦略的遺伝子の結託は生命体全体の利益を自分たちの利益と引き替えに損ないうるからだ.戦略的遺伝子と生命体は異なる種類のエージェンシーを持つのだ.それは異なる方法で働く.

 
ここまで読むとヘイグの言いたいことはかなりはっきりしてくる.生命体が受ける指令は1つのレベルだけからではないのだ.それは個体の意思決定として捉えた方が適切な場合もあれば,戦略遺伝子社会での決定と見た方がいい場合もあるのだ.私たちは時に協調的で時にコンフリクトを持つ多層的なエージェンシーによる複雑な相互作用の結果を受けて行動しているということになる.
 

  • ここで注意を一時的な発達の軸から通時的な進化の軸に移そう.進化的なタイムスケールでは情報遺伝子はテキストになる.それらは情報の貯蔵庫でアリ.過去の環境で何がうまくいき,将来何が期待されるかが記されている.これらのテキストは過去の環境によって核酸配列として書かれている.それは現在の環境の解釈者でかつ遺伝テキストの解読者となる生命体の構築方法を含んでいる.現在の環境は発達過程におけるその物質的テキスト解釈の文脈を供給するのだ.

 
この最後の結論は深い.遺伝子は過去情報が詰め込まれたテキストであり,そのテキストの解読者を作る指令を出す.そしてこの解読には現在の環境が影響を与えるということになる.

*1:「多数から1つへ」という意味をもつラテン語の成句で,多くの州からなる1つの統合国家という意味でアメリカ合衆国を指す言葉として国璽などに用いられているそうだ