From Darwin to Derrida その44

 

第5章 しなやかなロボットとぎこちない遺伝子 その9

 
ゲノミックインプリントが絡む個体内コンフリクト.ヘイグは理論的な概説に続いてインシュリンと熱生産の例をあげたが,さらに興味深い例が詳しく解説されている.取り上げられるのはプラダーウィリ症候群とアンジェルマン症候群だ.
 

プラダーウィリ症候群とアンジェルマン症候群

 
このプラダーウィリ症候群,アンジェルマン症候群というのは1956年.1965年にそれぞれ報告された症例で,一部の遺伝子の機能喪失によって発症することが知られているものだ.冒頭ではこれが親とのインタラクションが少ないことに原因があるのではないかという1988年に書かれた(いかにもドグマティックな「育ちがすべて」主義者が唱えそうな)文章の引用がある.この症候群を調べてみるとどちらも15000人に1人ぐらいの頻度で現れ,それぞれ特徴的な症例や知的障害が引き起こされるようだ.
 

  • プラダーウィリー症候群は第15染色体の父方インプリントされた遺伝子クラスターが除去されて発症する.そして同じ部位の母方インプリント遺伝子クラスターが除去されるとアンジェルマン症候群が発症する.つまりプラダーウィリ症候群は父方インプリント遺伝子の発現が抑えられることにより,アンジェルマン症候群は母方インプリント遺伝子の発現が抑えられることにより発症するということになる.

 
この除去自体がなぜどのように起こるのかについてはコメントされていない.除去自体がインプリント遺伝子の発現によるというわけではなさそうだが,気になるところだ.
 

  • つまりプラダーウィリ症候群は子どもより母親の利益が優先されるような現象が誇張され,アンジェルマン症候群はその逆になることが予測される.これらの症候群の複雑な症例はインプリント遺伝子のコンフリクトによって発達的,行動的に引き起こされる.これらのことから通常の子どもの発達過程では双方のインプリント遺伝子の相克の果てのバランスにより制御されていることがわかる.
  • プラダーウィリー症候群の子どもは食事に興味を抱かず,吸乳も弱い.そしてしばしば胃腸へのチューブによる栄養補給が必要になる.鳴き声もか細い.これに対してアンジェルマン症候群の子どもに栄養失調になる傾向はない.もう1つの対称的な症状は睡眠パターンだ.プラダーウィリー症候群の子どもは過剰睡眠の傾向があり,アンジェルマン症候群の子どもは不眠がちだ.
  • これらは進化的には,父方インプリント遺伝子はより食欲を持ち眠らないという形質でより母親の投資を引き出そう(さらに次の子どもまでの期間を空けようと)としており,母方インプリント遺伝子はその逆をしていると解釈できる.
  • 幼児を持つ母親が疲れ果てると訴えがちだが,その疲労は父方インプリント遺伝子による延長された表現型と考えることができる.
  • アンジェルマン症候群の症例は深い愛着や微笑みや笑いの頻度が高いと特徴付けられる.これはプラダーウィリー症候群の症例にみられる愛着の低さと対称的だ.アンジェルマン症候群の症例としての笑いはしばしば「不適切」とか「不自然で刺激なく生じる」とか形容されるが,注意深くなされたリサーチによるとこの笑いは非社会的な文脈ではほとんど生じず,アイコンタクトのあと特に生じやすいことがわかっている.そうでない子どもよりよく微笑み,大人の微笑みを生じさせやすいことも報告されている.これは通常母親のケア,注意,アタッチメントを誘発するような行動が強化されているのだと解釈可能だ.

 
父由来遺伝子は,子どもをわがままでディマンディングに,あるいは母親がかまわずにはいられなくなるように方向付けようとし,母由来遺伝子は欲求の少ない聞き分けの良い子に誘導しようとするというわけだ.そしてその綱引きで子どもの行動傾向が決まるが,片方の遺伝子クラスターが除去されると極端なケースが発現するということになる.
 

  • アンジェルマン症候群の子どもはこのような豊かなパーソナリティをもつが,それは言葉やそれ以外のコミュニケーションの深刻な不足ももたらす.幼児期には異常な高音で泣き,喃語は遅れる.大人の手を引いたり,払ったりというような行動も少ない.共有注意,共有行動も貧弱で,言語を習得しない.基本的に認知能力に問題があると考えられ,行動や言葉の模倣能力が特に低い.これは言語進化にかかる「モーターコントロール」説にとって示唆的だ.興味深い仮説は運動障害と言語の獲得障害はモーターコントロールにかかる同じ神経的な異常によるというものだ.
  • 母方インプリント遺伝子の削除と言語獲得障害の関係は興味深い.バドコックとクレスピは母方遺伝子が,子どもの脳の言語センターにおいて母のインストラクションへの注意や母と子どもの協調を推進するように働くのではないかと示唆している.言語コミュニケーションは発達のごく初期から現れる.おそらくより早く言語が発達するのは母親のケアのコストを下げるのであり,アンジェルマン症候群により削除される母方遺伝子は言語発達を開始する機能を担っているのだろう.

 
ヘイグもコメントしているが,このアンジェルマン症候群のその他のコミュニケーションに生じる影響は興味深い.基本的には父由来遺伝子が母親の投資を引き出そうとする性質の(母由来遺伝子の対抗がない場合の)副産物ということになるのだろう.母親とのコミュニケーション能力は,子どもの欲求強化に働くのか欲求抑制に働くのか.どちらにも働きそうだが,この証拠は,母親と言語でやりとりできた方が平均的に母親は投資を節約しやすいということを示唆しているというのがヘイグの解釈になる.