From Darwin to Derrida その76

 

第8章 自身とは何か その16

 
3人称「sympathy」を説明したところで,2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間にある緊張関係が議論される.
 
 

2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間の緊張

 

  • 2人称「sympathy」はある特定の他者の視点からのものだ.これに対して3人称「sympathy」は一般的他者の視点からのものになる.そしてこの2種類の他者は,ある特定状況で私がいかに振る舞うべきかについて異なる見解を持つかもしれない.そして同じ行動に対して私の異なる反射イメージを持つだろう.

 
なかなか難解な言い回しだが,要するにある特定の他者が「私」に期待する行動は,客観的第3者(あるいは社会全体)のそれとは異なっていることがあるということで,その特定の他者と一般的社会の利害が一致していない場合には当然そうなるだろう.
 

  • ヴァージニア・ヘルドは,(著書「The Ethics of Care」において)道徳哲学は3人称的超然(third-person detachment)を過剰強調し,特定他者との2人称関係におけるケアの倫理を擁護していると指摘している.ヴァシュデヴィ・レディは,(著書「How Infants Know Minds」において)幼児の他者の心の推論における3人称的推論と2人称的関係の間の似たような不均衡をうまく整合的に扱える道を探している.

 
ここも難解だ.哲学的な素養がないので「third-person detachment」が何を意味するのか私の手に余るところだが,文脈からいってケアの倫理は2人称的なものと捉えられるものであって,3人称的な(つまり功利的な)倫理と相克関係にあることが前提になっているのだろう.

How Infants Know Minds

How Infants Know Minds

Amazon
 

  • 友人というのは,親密な2人称的「sympathy」を育みあった人のことであり,私たちは友人との関係においては3人称的視点を部分的に排除しようとする.
  • 友人の1人が私に尋ねもせずに公共の害になる陰謀に私を取り込んだ場合,私はどのように友人に対しての道徳的義務と社会に対しての道徳的義務を折り合わせればいいのだろうか.どこまで行ったら,私の友人といい関係でいようとする欲望が,社会的な立場を失う恐れにとって変わるのだろう.そして私のジレンマは私の友人について何を語るのだろうか.彼が私を(陰謀に)巻き込んだのは間違った私の2人称イメージ(私の良心についての「sympathy」の欠如)を持っていたからなのか.あるいは彼のイメージは正しく,私が折れることをことを知っていたのか.私の友人は相利的な状況の可能性を見て,その機会を私に呈示し,友情の価値を示し,それを深める手段を提供したのか.彼の視点から見ると私の良心の呵責は,私が彼よりも一般的他者や抽象的な原理を優先するサインなのかもしれない.
  • いつも肩越しの視点をとり,自分の行動が世界にとってどう見えるかを考慮しているような人物は冷たく超然としているようにみえるだろう.私たちは,自分と最も親密な対人関係においては,自分以外の人類全体ではなく自分に気を配ってくれるようなパートナーを望む.苦境において,私は,私を愛してくれて他者よりも私を優先してくれる人物を望むだろう.

 
このあたりはなかなか深い.「公共の害になる陰謀(a conspiracy against the common good)」という言い回しを使っているが,これはたとえば「互いの利益になるちょっとした抜け駆け」のようなことに「当然参加するよね」という感じで取り込まれることを指しているのだろう.友人は私の利益にもなるからと誘ってくれているが,私はその反道徳的な行為を行いたくない,しかし誘ってくれた彼とのいい関係を続けたいというジレンマ,そしてなぜ彼は私の苦境を理解しないのか,私とは道徳的な基準が異なっているとしてそれは友情にどんな意味を持つのか.そしてそれは私がどのような自分のイメージを友人,そして客観的第3者に投影したいかという問題に関連するのだ.そしてヘイグは常に客観的第3者イメージを追求するような人間は友人を作りにくいかもしれない(普通の人は,自分が本当に困っているときには社会全体の利益なんかおいといて自分を助けてくれるような友人を好ましく思うだろう)と示唆している.