From Darwin to Derrida その135

 

幕間 その6

 
機能をオリジナルなものに限るかどうかという話から,ヘイグは機能的形態学者の議論を紹介する.彼等の頑ななまでの目的論排除の姿勢はいかにもイデオロギー的で印象的だ.機能的形態学者の真打ちはクミンズになる.
  

  • 同様にロバート・クミンズは機能を自然淘汰とその効用に基礎づけることを拒否した.
  • 確かにスズメの祖先系列のどこかで飛翔可能な翼が生じたということはありそうだが,その祖先はスズメではない.・・・それと同じように,私たちの祖先系列のどこかで血液循環中枢が生じただろう.しかしその祖先は脊椎動物でさえなかった.・・・このような考察から,スズメの翼やヒトの心臓はその機能によって淘汰されたのではないということができる.淘汰には変異が必要だ.そして今問題になっている機能について変異はない.機能がどこまでうまく働くかについての変異があるだけだ,

 

  • しかし機能についての変異がないということはない.クミンズは常に背景で働いている突然変異の出現とネガティブ淘汰を無視している.突然変異はユニバーサルな機能を阻害する傾向の発現だ.そしてネガティブ淘汰が有用性を保つ.一部のスズメの子は機能しない翼を持って生まれただろう.一部のヒトの胎児は心臓を欠いただろう.どちらも子孫を残せなかった.飛翔のためには機能する翼が必要で,血液の循環のためには心臓が必要だからだ.

 
ヘイグはクミンズの議論はネガティブ淘汰の存在から一刀両断にしている.しかしクミンズの土俵に乗ったとしても,スズメの翼は祖先の翼の形からより現生のスズメの生息環境や行動戦略に適応した翼の形にポジティブ淘汰されているはずであり,この点からも批判できるように思われる.ともあれヘイグはこの幕間を以下のように締めくくる.
 

  • 生じたこと全ての完璧な歴史(ラプラス的どのようにしてここに至ったか)は入手不可能であり,利用不可能だ.歴史が利用可能であるためには重要な事象(なぜあることが生じたのか)についての識別できるパターンが必要だ.進化する遺伝子系列は過去の違いを作る違いのテキスト記録だ.
  • 前章はこのテキスト記録をアリストテレスは形相因として扱った.最初に書かれた断片が普及するのはポジティブ淘汰による.しかしその後のコピーは意味に基づいた訂正(ネガティブ淘汰)がなければエラーを蓄積していくことになる.
  • また前章では自然淘汰産物を目的によって説明することの正当化を提供した.目的因(機能)はなぜ一部のテキストがその他のテキストより好まれるかの理由を明らかにする.これらの理由は時とともに変化することもある.なぜこの変異がここ百世代で好まれたかという理由とここ千世代で好まれたかの理由は異なることがある.そしてなぜそれが千年前に好まれていたかの理由と百万年前に好まれていたかの理由も異なることがある.歴史的説明とはそうしたものだ.機能を起源的なものに限定しようとする見方はネガティブ淘汰の重要性を見逃している.古いポジティブ淘汰の結果が保存されていることについて,ネガティブ淘汰の長い歴史は必要不可欠なのだ.

 
ある自然淘汰産物を説明するということは,その歴史を語ることでもある.そして歴史を語る場合に,有用であり続けた(つまりネガティブ淘汰を受け続けた)形質は「機能」「適応」として扱うことが適切だというのがヘイグのいいたいことということになる.
 

  • 次章では世界と相互作用する進化した,あるいはデザインされた自動機械の意図性を扱う.そこでは自動機械にとっての情報の意味は,与えられた情報入力に対する出力であることが示唆されるだろう.
  • 一部の自動機械は単純だ.自販機にとっての投入されたコインの意味はボトルを出すかどうかだ.一部の自動機械は非常に洗練されていて,「意味」の意味を議論できるほどだ.
  • デネットは生命体を高度に自律的で自然淘汰により独自の意図性を獲得した自動機械とみなしている.:「私たち,すなわち理由の提示者であり自己表現者は最新の特別な生成物だ.この理由の表現により私たちは洞察,つまり自然にはないリアルタイムの予測能力を得た.・・・私たちは自分たちの意図性をリアルだと考える.しかしそれは自然淘汰の意図性に由来していることを認めなければならない.自然淘汰もリアルであるが,スケールとサイズが大きく異なっているためにそれはつかみにくくなっている.」

引用されているのは少し前に自動販売機のところで参照された「The Intentional Stance(邦題:志向姿勢の哲学)」になる.第12章ではデザインや目的と不可避的に絡みつく「意図」を扱い,デネットの議論が採り上げられることになりそうだ.