From Darwin to Derrida その160

 

第X章 差延よ,万歳 その3

 
ついに登場したデリダ.ここではなぜデリダが登場するに至ったのかが語られている.
 

デリダを脱構築する

 

  • 前章の初期の草稿段階で,私は「解釈されるように意図された解釈」のことを「テキスト」と呼ぶことにしていた.私はテキストについての理論が最近の人文学者たちにとって中心的な問題であることにはおおまかには気づいていたが,その中身についてはほとんど知らなかった.

 
要するに本書(のもとになったエッセイ)を書き始めるまでは特にデリダやポストモダニズムやフランス現代思想に対して造詣はなかったということだ.進化生物学者としては極く普通の感覚だろう.しかし碩学の学者というのはここからがすごい.人文学者たちが「テキスト」について何を言っているかチェックするためにデリダを読んで理解しようと試みるのだ.
 

  • 原稿が固まった後,私はデリダがテキストについてどう語っているかを知るために,デリダの「グラマトロジーについて」を借りた.最初の印象は,デリダと私は同じ関係について異なる言語で語っているというものだった.遺伝子は「アーチライティング(arche-writing)」,初の記号の永続的制度なのか? デリダとドーキンスは記されたもの(inscription)の中心性について同じような関心を共有しているのか?
  • デリダは,私たちが存在するものとして意識に提示される外部のものについて直接アクセスできるというアイデアを否定している.デリダはテキストの執筆と再執筆について語っている.ダニエル・デネットは同じようにデカルト劇場,つまり経験が意識に提示される脳の中の謎めいた部位を否定している.デネットは正規のテキストというものはなく絶え間なく訂正される複数の草稿があるだけだと語る.デリダとデネットは意識の脱構築に貢献する秘密の仲間なのだろうか? 両者ともに自己に触れることによる覚醒(self-touching arousals of self)について語っている.

 

  • 全ての生物は自分愛(auto-affection)の力を持つ.そしてシンボルを扱う能力を持つものだけが,自分を愛することを,そして他者から愛される可能性を語る.自己愛は一般的な経験についての状況だ.可能性(生命の別の名前)は生命の歴史に明確にされた一般的構造であり,複雑で階層的な操作の余地を作る.(デリダ 「グラマトロジーについて」)
  • 自分自身に対して小声で話しかけることの偉大な徳目は,それが全くの無声の話しかけにつながることだろうと想像することができる.この無声プロセスは自己触発のループを保つが,プロセスにおける(結局たいして役に立たない)発声や音声部分を捨て去るものだ.(デネット 「解明される意識」)

 
デリダを読んだことのない私には講評不能だが,デリダとデネットが秘密の仲間かもしれないとは!*1

*1:私的にはデネットはポストモダニズムから最も遠いところにいる哲学者のように感じる