War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その69

 
 
14世紀フランスの黄金時代からの崩壊.ターチンはこの基本メカニズムはマルサス過程だが,一般市民と貴族層が異なるマルサス過程に乗っているという複雑性があることを指摘する.そして一般市民から遅れてマルサス過程に入った貴族層は互いに争い始める.ターチンここで満を持して百年戦争を解説し,その百年が特別な期間ではなかったことをまず指摘し,第1フェーズでのフランスの惨敗の原因が武器だけではないとする.ここがターチンの最も強調したいところだろう.
 

第8章 運命の車輪の逆側:栄光の13世紀から絶望の14世紀へ その13

 

  • 1340年代の初めまでに,エリートの人口増加により繁栄と支配層の結束は失われていた.多くの貴族たちは富裕農民より貧しくなっていた.マルク・ブロックは彼らのことを「土地なき領主たち」と呼んでいる.彼らが従者や騎士となって従軍すると賃金が得られた.典型的な1~2ヶ月の従軍で得られる金は25~50リーブルで,それは彼らの年収に相当した.さらに戦場には略奪や身の代金を得る機会があった.国王が英国と戦うために軍を募ると何万人もの騎士が応えた.中世軍事史家のフィリップ・コンタミーヌによれば,国王は軍にあまりの多くの騎士が規律なく集まるのに大いなる不安を覚えたという.

 
ここでターチンは貴族層の人口過剰が遅れてやってきた議論に戻る.食い詰めた彼らは,国のために戦う団結心のある騎士ではなく,金を得る機会があれば殺到するならず者たちだったというわけだ.

 

  • 国王軍は予定の3倍に膨れ上がった.そして騎士たちはここ数十年で膨れ上がった互いの敵意と報復心を持ち込み,軍は分断された.フランス軍の内部はばらばらで,それがクレシーで顕現した.王による「布陣が完了まで攻撃するな」という命令にもかかわらず,ならず者たちは英国の堅陣に突進した.その後フランス軍の一部は味方を攻撃した.ばらばらなフランス軍からの五月雨式の攻撃はみな英国軍に阻止され,フランスは敗北した.翌日自軍の敗北を知らないフランス部隊がクレシーに向かって行軍し,英国軍に蹴散らされた.要するにフランス軍の自滅だったのだ.

 
クレシーの戦いはフランスの大敗北で,戦いの中盤ではフランス重騎兵が突進し,ロングボウを浴びせられて壊滅していくという(なんとなくちょっと長篠の戦い風の)物語がしばしば語られるところだ.あちらにはこの戦いだけを扱った戦史ものも数多くあるようだ.

 

  • フランス部隊は完全に役立たずで,交戦で次々に敗北したが,それでも賃金は支払わなければならない.しかしフランス王室財政はうなぎ登りの戦争コストを賄えなくなっていた.国王は貴族から特別徴収税を取ろうとした.クレシーの敗北とカレーの陥落は貴族に事態の深刻さを痛感させ,三部会は徴税を認めたが,黒死病の到来により徴税事務は混乱し,税収は得られなかった.
  • 1355年に両国は戦争を再開し,エドワード3世はカレーに上陸して内陸に軍を進めた.ジャン2世は焦土作戦に出た.これは英国軍を押し戻したが,地域住民は飢餓に陥った.3部会が認めた戦争遂行のための増税は地域住民の抵抗にあうようになリ,3部会の焦点は増税の可否から別の政治アジェンダに移った.

 
このあたりからフランスの内部で国王の統治体制そのものが問題視されていくようになるというのがターチンの説明になる.
 

  • 1356年9月フランス軍はポアティエで黒太子に率いられた英国軍と遭遇した.結果はまたもフランスの大惨事に終わった.ジャン2世,伯爵18人,子爵2人,男爵21人と2000人の騎士が捕虜となったのだ.この大敗北は国家の崩落,都市革命,貴族の反乱,農民の反乱を誘発した.

 
ポアティエの戦いもフランスの大敗北で,しかも軍を率いた国王その人が捕虜となるという壊滅的なもの.ポアティエは8世紀にシャルルマルテルがイスラム勢力を打ち破った地だけにこの敗北は屈辱だっただろう.英国側から見ると誇らしい勝利であるためか,やはり戦史ものが多い.