War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その67

 
 
14世紀フランスの黄金時代からの崩壊.ターチンはこの基本メカニズムはマルサス過程だが,一般市民と貴族層が異なるマルサス過程に乗っているという複雑性があることを指摘する.そして一般市民から遅れてマルサス過程に入った貴族層は互いに争い始める.そして不利になった方は英国を引き入れ,これが百年戦争につながっていく.ここまでにカペー朝からヴァロワ朝への移行の背後に内戦があることが描かれた.その中で逆上した国王ジャン2世は反乱分子を残虐に扱う.
 

第8章 運命の車輪の逆側:栄光の13世紀から絶望の14世紀へ その11

 

  • この王の常軌を逸した暴力的な振る舞いは,もう1つの社会トレンドである中世後期の犯罪の波の現れでもあった.この時代には残虐で無慈悲で突発的な暴行が横行した.(イタリアや英国での突発的な息子殺し,王への反乱の事例がいくつか紹介されている)
  • この暴力の波は大領主だけでなく社会のすべてのレベルで現れた.(英国,イタリア,ドイツの様々な地域のこの時期の殺人率の上昇,襲撃事件の増加の記録が紹介されている)
  • 農民たちの絶望的な経済状況と疫病と戦争による社会の絆の崩壊もこの暴力上昇の原因ではあるだろう.しかしこの法と秩序の崩壊の主要な原因は支配階層が苦境に立たされていたことだ.絶望してはいるものの武力を持ち危険な貴族が山のようにいたのだ.個人は決闘し,互いに待ち伏せして襲撃した.氏族間には何代にもわたる確執が生まれた.ほぼ自動的に攻撃レベルの上昇が生じた.まさにマフィアの犯罪物語のように1つの殺人が報復の連鎖を生むのだ.さらに頻繁に暴力事件が生じることで,暴力に対する社会的,心理的な抵抗が薄れてくる.中世後期には貴族こそが犯罪者階級だったのだ.14世紀の英国のグロスターシャーでは騎士の半数が少なくとも1回の殺人を犯していた.国家が財政危機に陥り軍隊のコントロールを失うと,貴族のごろつきたちの最後の自制がなくなり,社会の絆は完全に崩壊する.

 
ターチンの挙げる13世紀の暴力増加は,ピンカーの暴力減少の議論における小さな波動ということになるだろう.ピンカーの議論は狩猟採集社会から農業革命,国家の成立とともにまず「平和化プロセス」による暴力減少が生じ,次に中世から近代にかけての「文明化プロセス」による暴力減少が生じたという枠組みになっている.「文明化プロセス」の議論はノルベルト・エリアスの「文明化プロセス」によっていて,データ的には1300年以降が対象になっている.だからローマ帝国時代にどうなっていたか,ローマ帝国の崩壊でどうなったか,中世前期までどう推移したかは,あまり議論されていない.最初の国家の成立から中世中期まで多少の行きつ戻りつがあっただろうということになっている.
そしてそのような多少の行きつ戻りつの1つがここでターチンが指摘している中世の犯罪の波ということになる(これは日本でも平安から戦国にかけての行きつ戻りつがあったのとパラレルな現象だと思われる).そしてターチンはそれを貴族層マルサス過程による経済的な苦境とパイの奪いあいによる内戦から説明する.ここからフランスの国家財政から見た解説がある.
 

 

  • フランスの王は2種類の収入源を持っていた.第1のものは通常の収入源で,封建領主としての収入源,つまり直轄地からの土地代,司法権から得られる罰金や手数料,貨幣鋳造権から得られる収入だ.これは王国の通常のメンテナンスのために使われた.第2のものは特別徴収されるもので,十字軍や戦争のような緊急時に徴収された.例えば1250年にルイ9世が十字軍従軍中にエジプトで捕虜になった時には,身の代金が特別徴収された.
  • この通常収入はフィリップ2世即位の1180年から1250年の間に4倍になった.フィリップ2世の孫であるルイ9世(在位1226-70)が十字軍に赴いた時にはこの25万リーブルを自由にできた.インフレもマイルドで国家財政は健全だった.国王の収入増加は領土拡大と人口増加によるものだった.中世初期の人口増加により税収が伸び,初期カペー朝の国王たちはそれを領土拡大に振り向けるいことができたのだ.
  • しかしながら,人口増加は13世紀を通じて継続し,1250年以降は当時の農業技術のもとで食料が不足するようになった.農民たちの余剰生産力は縮小した.そしてそれに依存していた国家の収入は減少した.それを超える徴収は反乱や餓死のリスクをもたらし,国家にとっても望ましくない(それは後のロシアや中国のような専制主義国家で見られた通りだ).13世紀フランスは国家と大領主たちが限られた余剰生産物を奪い合うことになった.そして1300年から14世紀初めにかけて王室財政は困窮した(具体的な数字をあげての説明がある).ヴァロワ朝の始祖フィリップ6世(在位1328-50)の時の収入は(カペー朝の)フィリップ端麗王(在位1285-1314)のそれの80%だった.
  • フィリップ端麗王以前には王室財政は健全だったが,13世紀の終わりには通常収入は実質ベースで停滞し,軍事支出は跳ね上がった.フィリップ端麗王は特別徴収税を常態化し,ブルジョワから強制的に金を借り,通貨を改鋳した.最もよく知られた事件にはテンプル騎士団の破滅がある(端麗王によるテンプル騎士団への異端審問を利用したいわれ無き弾圧,拷問,活動停止と財産接収が詳しく説明されている).
  • 端麗王が用いたなりふり構わぬ増収策は大領主たちや都市のエリートの反発を買った.これは小さくなるパイを奪い合った結果だった.14世紀前半には国王の税徴収は抵抗に直面するようになった.これは英国との百年戦争の遂行に困難をもたらした.特別徴収は戦争が眼前にある時以外難しくなり,フィリップ6世やジャン2世は財政困難に陥った.
  • この結果フランスは休戦の後で戦いが勃発した時に即座に対応できなくなった.1346年1347年の軍事的惨事(クレシーの戦いの敗北とカレーの喪失)により三部会はしぶしぶ特別徴収税を認めたが,地方の現場での徴収にはやはり抵抗が大きかった.結局満足な額は徴収できず王国財政は崩壊した.

 
このあたりの歴史も面白い.財政困難に陥った国王による強引な増収策がかつて栄華を誇ったテンプル騎士団の悲劇を生むことになる.