War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その66

 
 
14世紀が始まるころ,フランスはある種の黄金時代だったが,そこから崩壊する.
ターチンはこの基本メカニズムはマルサス過程だとするが,それだけでは崩壊から回復への遅れが説明できないとして,支配層のダイナミクスをより詳しくみることが必要だと説く.人口増加による食料不足はまず一般市民を直撃するが,土地を所有する貴族層は短期的には逆に利益を得る.しかしそれは貴族層の人口を相対的に過剰にし,ついに貴族層も苦難に陥る.苦難に陥った貴族たちは内戦を始め,不利になった方は英国を引き入れる.そしてそのような騒ぎの最大のものが詳しく語られる.
 

第8章 運命の車輪の逆側:栄光の13世紀から絶望の14世紀へ その10

 

  • 1354年,エリート間の暴力的な抗争が国の中心部,つまりイル・ド・フランスとノルマンディで起こった.抗争の雰囲気はまるでクリント・イーストウッドのマカロニ・ウエスタンのような,善玉,悪玉,卑劣漢(The Good, the Bad, and the Ugly)の登場劇として始まった.これらの事件のキープレーヤーは(後の歴史家に悪玉とされる)ナヴァラのシャルルだ.悪玉シャルルは王家と深い関係があったために貴族層の不満が集まってくる焦点となった.

 
「The Good, the Bad, and the Ugly」はクリント・イーストウッドのマカロニウエスタン「続・夕陽のガンマン」の英題となる(伊題は「Il buono, il brutto, il cattivo」だそうだ.もちろんイーストウッドは善玉を演じている).またナヴァラ王国は当時ピレネーを越えた先のバスク地方にあった小王国になる.
 

続 夕陽のガンマン (字幕版)

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  • フィリップ4世端麗王(1285-1314)の息子が跡継ぎを残さずにすべて死んだ時,王位はフィリップの甥であるフィリップ6世に渡った.

 
ターチンのいう「フィリップ4世の息子がすべて死んだ時」というのは1328年にフィリップ4世の息子でフランス王とナヴァラ王をかねていたシャルル4世が死んだ時にあたり,これによりカペー朝は断絶したとされる.そして次の王であるフィリップ6世はフィリップ4世の甥であるが,その父(シャルル,4世の弟)がヴァロワ伯であったためヴァロワ朝の始祖とされる.このあと登場するジャン2世はこのフィリップ6世の子になる.
 

  • この時王位継承候補にはあと2人いた.1人はフィリップ端麗王の(「フランスの雌狼」と呼ばれた)娘イザベルの息子である英国王エドワード3世,もう1人はフィリップ端麗王の腹違いの弟の子であるフィリップ・デヴルー(エブルーのフィリップ)だった.
  • フィリップ・デヴルーはフィリップ端麗王の孫娘のジャンヌ・ド・フランスと結婚し,フランス王位を要求しない代償として(シャルル4世の死後やはり空位になっていた)ナヴァラ王国の王位を得た.その子がナヴァラのシャルルだ.つまり悪玉シャルルは父系と母系の両方がカペー王家につながっていたのだ.
  • そしてシャルルは父系を通じてノルマンディとイル・ド・フランスに広大な領土を相続していた.苦境にあった両地方の反体制派貴族はシャルルを彼らのリーダーとみなすようになった.

 

  • 2人目の登場人物は善玉ジャン2世だ.ジャンはフランス王位を1350年に継いだ.善玉ジャンは彼のお気に入りのシャルル・デスパーニュを軍の総司令官に任命し,これが紛争の勃発を招いた.ジャンはシャルル・デスパーニュを(軍司令官の任命に続いて)ナヴァラ王国内に領土を持つアングレーム伯の地位につけ(これによりシャルル・デスパーニュは卑劣漢役となる),事態を悪化させた.
  • 自らの領土を蚕食された悪玉シャルルは激怒し,善玉ジャンの軍司令官を襲撃した.1354年1月,軍司令官がノルマンディにいる時に悪玉シャルルの弟ナヴァラのフィリップに率いられたノルマン貴族たちが軍司令官の寝室に押し入り彼をベッドから引きずり下ろした.裸の状態の軍司令官はひざまずいて許しを請うたが,そのまま刺し殺された.
  • 軍司令官の地位はとても儲かるものだった.平時でも毎月2000リーブル支払われ,戦時には別に傭兵代がすべて支払われた.さらに雇用や兵站に関する様々なうま味があった.多くの困窮していた貴族たちが軍司令官の周りに群がり,蜜を吸った.
  • 逆にそこから何も引き出せなかった貴族たちは軍司令官を深く憎んでいた.それを取り除いた悪玉シャルルは瞬く間にヴァロワ朝に対する反体制派のリーダーとなった.悪玉シャルルの地盤でもあったノルマンディは反乱の地となり,納税と兵役を拒否した.この豊かな地域からの収入がたたれたことで王家の財政は崩壊に向かった.

 

  • 軍司令官の暗殺は復讐の悲劇の第一幕に過ぎなかった.それは復讐の連鎖を生んだ.1356年4月,王太子が悪玉シャルルとノルマン貴族たちをノルマンディの首都ルーアンで歓待していたところをジャン2世とその武装兵が押し入った.王太子は父親であるジャン2世に歓待している客ヘの乱暴を許しては名誉を失ってしまうと情けを請うたが,ジャン2世は王命をもって悪玉シャルルとシャルル・デスパーニュ殺害容疑のあるノルマン貴族たちを逮捕させた.王は暗殺の直接の下手人ジャン・ダルクールを自らの手で乱暴に衣服をはぎ取りながら捕らえた.翌朝ジャン・ダルクールは同じく下手人とされた3人のノルマン貴族たちとともに処刑場に連行されたが,復讐の渇望をこれ以上抑えきれなくなった王は突然行列を野原で止め,その場で囚人たちを斬首した.
  • ジャン・ダルクールの処刑は(王にとって)賢明とは言えないものだった.なぜならジャン・ダルクールには3人の兄弟と9人の子供がいて,それぞれ北部フランスの有力貴族と結婚していたからだ.王はその貴族たち全体をその中心であるナヴァラのシャルルを完全に排除しないまま敵に回した.ナヴァラのシャルルは当時パリで幽閉されており,後に破壊的な悪玉役を演じることになる.

 
この辺の歴史物語はいろいろと楽しい.