War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その77

 
ターチンはここで14世紀末から15世紀前半のフランスの第二の崩壊過程を人口動態面から整理する.人口は1300年から1450年までに半減した.人口回復過程がマルサス理論から予測されるより遅れたのは,貴族層の人口過剰が解消されずに内乱とそれが呼び込んだ英国の介入により国内が混乱し続けたからだ.
では貴族層の人口過剰はいつ解消されたのか.ターチンはそれは15世紀前半だとし,その説明を行う.
 
 

第9章 ルネサンスについての新しいアイデア:なぜヒトの抗争は森林火災や疫病に似るのか その7

 

  • セキュラーサイクルの解体フェーズは過剰になった貴族層の人口が取り除かれるまで終了できない.この問題は15世紀の前半で解決された.それは意図的なデザインによるものではなく,社会的な力が働いた結果だ.貴族層の過剰人口は死亡率の上昇,社会的流動性の減少,階層上昇の減少で解消された.

 
要するに没落期に一時的に平民から収奪することにより貴族層の人口は保たれたが,それは一時しのぎに過ぎず,結局はイントラエリートコンフリクト増加と国全体の生産性低下の影響を受けたということになる.
 

  • 百年戦争後半におけるフランス貴族層の犠牲は,前半のそれより大きかった.最悪の厄災は疑いなく貴族層1万人が死亡したアジャンクールの敗戦だ.そこには公爵と伯爵が10人以上,男爵が120人以上,そして騎士が1500人以上含まれていた.その少し前には十字軍に従軍した貴族層がニコポリスで犠牲になった.ヴェルヌイユの戦いでも7000人以上の貴族層(ただしすべてがフランス貴族ではない)が死亡した.さらに多くが内乱や英国軍との小規模の戦闘で亡くなった.パリのアルマニャック派惨殺のような虐殺も多く生じた.英国のヘンリー5世は戦場での残忍行為で有名だった(いくつもの大量虐殺事例が示されている).
  • フランスの中世史家マリーテレーズ・ロルサンのリヨンの遺言状の研究は当時の貴族層と一般市民の死亡率の差についてユニークなデータを提示してくれる.遺言状からはその時点の息子の数と娘の数が分かる.一般市民では息子の方が13%多かった(お産で女性が死ぬことが多かった中世ではよくある数字)が,貴族層では息子は娘よりも15%少なかった.この差は貴族層の娘が修道院に行くことが多かったこと(つまり出産しなかったこと)から説明できる.そしてこれも貴族層の人口過剰解消の一助となっただろう.彼女の計算によると14世紀後半と15世紀前半の貴族の娘が修道院に行く割合はそれぞれ40%,30%だった(そしてこの数字は15世紀後半には14%まで下がる).領主層の人口再生産率は1350〜1450年代には1を割っていたのだ(1450年には1を越えるようになった).

 
マリーテレーズ・ロルサンの当該論文へのリンク
opac.regesta-imperii.de

 

  • まとめると,人口動態力学が貴族層の人口をゆっくり減らしていったのだ.社会流動性も同じ方向に働いた.15世紀を通じて貴族叙任は年間20から6まで下がった.片方で貴族からの下方移動は増えた.15世紀前半に貴族の収入は減り続けた.そうでなくとも高賃金や低地代に苦しめられていたところに内乱はさらに貴族の経済状況を悪化させた.

  

  • この厳しい状況はすべての貴族が同じように直面したわけではない.それは淘汰の力として作用し,弱く不運な一族は没落し,強く幸運な一族は持ちこたえた.没落した貴族は体面を維持するための消費のために借金をし,結局すべての資産を売り払うことになった.このようにして大半の下級資産層は消えていった.これに対して大資産を持つ上層貴族の多くは売りに出た土地を買い集めてさらに大きくなった.資産を持つ上級貴族にとっては体面を保ちつつ消費を抑えることがより容易であり,(少なくなったとはいえ)王室の支援も受けやすく,そして土地は安かったのだ.

 
この淘汰的な記述は面白いが,とはいえ特に淘汰による貴族層の変質を議論するわけではないようだ
 

  • この経済状況が有利に働いたもう1つの階層が一部の(特に国家権力や財政とかかわりを持った)ブルジョワたちだ.とはいえこの階層の人数は少なく,彼らの上層移動が全体の人口流動のトレンドに与える影響は少なかった.この結果,古い貴族層は人口を減らしたが,かなりの程度権力を持ち続けた.(このプロセスをよく示すソローニュとビゴーレのデータが詳しく紹介されている)貴族の数は減ったが,平均の土地保有は増えたのだ.

 

  • 経済的苦境,内乱による死亡率の上昇,流動性の低下は貴族層の家系断絶率を上昇させた(フォレ郡のデータが紹介されている).私たちは中世フランスの貴族人口の正確な統計を持っていないが,得られたデータからは,14世紀初頭の貴族層は人口の1.4〜3.4%(平均2.4%)を占めていたが,150年後にこの数字が1.0〜1.6%に低下していることを示唆している.この間に人口全体が半減しているので,貴族層の人口は1/4になっているのだ.この減少は下級貴族,騎士のところで顕著になっている.彼らは5000〜10000人から1000人に減っている.
  • 貴族による平民の収奪は減少した.それは単位面積辺りの貴族数が減ったためだけではなく,貴族層が消費水準を下げざるを得なかったためでもある.中世盛期の贅沢な誇示的消費の時代は終わったのだ.15世紀後半の王宮は小さく地味だった.フランスのルイ10世(在位1461〜83)は質素倹約の人だったし,英国のチューダー朝の始祖ヘンリー7世も財政的節約で有名だった.次の時代のフランシス1世やヘンリー8世と比べると対照的だ.この文化的変容は芸術面で顕著だ.肖像画は地味なガウンをまとった姿で描かれ,建築は華麗なフランボワイヤン・ゴシック様式からシンプルなルネサンス様式に移り変わった.

 
ターチンが語るデータによる貴族層の人口動態は印象的だ.とはいえ最後の消費水準の議論はやや微妙だ.フランスにルネサンス様式の建築が導入されたのは,15世紀末のシャルル8世によるイタリア遠征以降,代表的なフランスルネサンス様式建造物のシャンボール城やルーブル宮は16世紀建造物とされる(そしてフランスルネサンス様式が単にシンプルかといわれるとそれも疑問だ).ちょっと時代的にあわないような気もするところだ.