War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その79

 
ターチンは14世紀末から15世紀前半のフランスの第二の崩壊過程,そしてそこからの回復過程が長引いた原因を人口動態面,その中でも平民の動向と貴族層の動向の位相のズレから整理した.
そして,では英国ではどうなったかが議論される.
 

第9章 ルネサンスについての新しいアイデア:なぜヒトの抗争は森林火災や疫病に似るのか その9

 

  • フランスが苦境から1450年ごろ抜け出したのに対して,英国はさらに50年間困難の時期を引きずった.実際に中世英国の最悪の混乱期は15世紀の後半になる.この混乱期は1450年のケイドの反乱から始まる.続いて1455〜1485年にランカスター家とヨーク家の間の血なまぐさい戦いがあった.ヘンリー7世(在位1485〜1509)は数々の反乱,陰謀.詐称者に対処しなければならなかった.英国が平和になったのは最後の王位詐称者であるパーキン・ウォーベックが倒された1497年のことだ.

 
ランカスター家とヨーク家の争いとは,もちろん薔薇戦争のことだ.パーキン・ウォーベックについてはよく知らなかったが,英国史においてはこの王位詐称事件は結構な重要事件だったようだ

 
ではなぜ英国では混乱が続いたのか.ターチンは,百年戦争の中で優位に戦いを進めたことが,フランスから多額の身代金を取れ,過剰貴族人口を英国に送れたことにつながり,崩壊から一旦逃れたために逆に危機が長引いたのだという議論を行う.
 

  • フランスと英国の軌跡の分岐は14世紀半ばまで遡れる.大飢饉と黒死病は両国に同じ影響(つまり階層ごとの死亡率の差により生じた極めて危険な生産人口と貴族人口のアンバランス)を与えた.しかし1356年に英国はポワティエの戦いに勝ちフランス王を捕虜にした.この時点で英国の国家財政は破綻の淵にあった.エドワード3世は重税を賦課し,大衆の怒りを買い,膨大な借金を抱えていた.彼の不払いはいくつかのイタリアの銀行を破綻させていた.
  • ここでポアティエの戦いの勝利によりエドワード3世の正統性は増し,身代金により財政的に一息つくことができた.フランスを崩壊に追いやった出来事が,英国では崩壊の淵からの脱出に役立ったのだ.
  • 次の百年間,英国は貴族層の過剰人口をフランスに送り込むことができた.彼らは略奪にいそしみ,領土を切り取り,あるいは単に死んでいった.それはフランスの混乱を悪化させたが,英国内の混乱を減じたのだ.しかしながら,この混乱要因の輸出がその大元の原因を除けるわけではなかった.英国でも平民反乱が生じ,14世紀末に王朝交代が起こった.それでも貴族人口の過剰という問題自体が解消したわけではなかった.

 
この王朝交代とはプランタジネット朝からランカスター朝への交代を指す.ランカスター朝はヘンリー4世,5世,6世と続き,ヘンリー6世の頃にヨーク朝のエドワード4世との王位をかけた薔薇戦争が始まるということになる.王位はランカスター朝とヨーク朝の間で行き来し,薔薇戦争の終結とともにチューダー朝のヘンリー7世が即位する.いろいろ激動の時代という感じだ.
 

  • フランスが社会の団結を取り戻したことは,英国の混乱の輸出弁が閉じられたことを意味する.1453年に英国はフランスから追い出され,その2年後には大きな混乱に見舞われた.中でも薔薇戦争は凄惨なものになった.王たちは廃位され,獄死したり,戦死したりした.王子たちはロンドン塔に幽閉された.戦場で敗者は跪かされて首を切り落とされた.下層貴族とジェントリーたちも国中で互いに殺し合った.15世紀末になってようやく英国の貴族総人口は安定を取り戻せるまで減少した.

 
英国にしてみれば百年戦争に続く薔薇戦争に突入したことになるが,今回は英国内が戦地になっているので,英国に大きな荒廃をもたらしたことになる.