一旦不平等の拡大と収縮と人口要因という理論編を挟んで,ターチンはケーススタディに戻る.最後に取っておいたのは西洋歴史学最大のトピックともいうべきローマ帝国衰亡論だ.
第11章 車輪の中の車輪 ローマ帝国のいくつもの凋落 その1
- ローマ帝国の凋落ほど加熱した論争が為され,そして答えが出ていないトピックはない.この混乱の責任の多くは英国の歴史家エドワード・ギボン(1737〜94)にある.1776年から1788年にかけてギボンは全6巻,百万語以上の「ローマ帝国衰亡史」を出版した.
- ストーリーは2世紀のアントニヌス朝時代から始まる.ギボンはこの時代がローマ帝国の最盛期であり,帝国は15世紀のコンスタンチノープルの陥落とともに滅んだと考えていた.12世紀にも及ぶ「衰亡期」という概念は歴史のダイナミズムの分析にとって有用ではないと私は考える.そしてギボンはローマ帝国の凋落がいつ起こったかについて明示的に指摘していない.
ローマ帝国衰亡史(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire)は英国の歴史家エドワード・ギボンの手になる古典大作で,1776年から1788年にかけて全6巻で刊行されている.日本では1980年ごろに筑摩書房から全集が刊行され,後にちくま学芸文庫で全10巻として再録された.
私が全巻読破したのは文庫化された直後でもう30年ちかく前になる.ギボンがローマ帝国の絶頂と考えた五賢帝時代のアントニウス・ピウス帝,マルクス・アウレリウス帝統治下の繁栄している状況から始め,コンモドゥスの暗愚,セヴェルス朝の混乱からの軍人皇帝時代と3世紀の危機,アウレリアヌス,プロブス,ディオクレティアヌスによる復興,その後の内戦,コンスタンティヌスとキリスト教,さらに続く内戦とゲルマンの大侵入,東西分裂,西帝国の滅亡と続き,その後は東ローマ帝国の栄枯盛衰とイスラムの攻勢が延々1000年間も描かれる.なかなかの大著だが,かなり物語風で面白く読めた記憶がある.
ギボンによる衰亡要因は多要因説で自然災害,蛮族の侵入,キリスト教,資源乱用,内部抗争が相まって滅んだと言う議論になっている.延々と歴史事実をたどっていくととても単一要因には帰せないという認識なのだろう.
ここからターチンはギボンの議論を批判する.
- まずローマ帝国の最期を1453年まで引き伸ばすのは意味がない.それはビザンチン帝国と呼ばれる完全に別の帝国の最期に過ぎない.今日正式なローマの崩壊は,最期の西の傀儡皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン王オドアケルに退位させられた476年とされる.しかし現代の歴史家はこれに言及したあとすぐに476年は恣意的に決められた年代に過ぎないと付け足すだろう.この時点で蛮族がイタリアで実権を握ってから少なくとも20年が経っているからだ.多くの歴史家はより遡り3世紀を崩壊の時代とする.3世紀は内部統合が壊れ,内戦と蛮族の侵入が相次いだ.さらに一部の歴史家はローマの凋落は共和政から帝政に移行した紀元前1世紀に始まったと主張する.
私もいろいろローマ帝国衰亡論は齧ったが,紀元前1世紀に凋落が始まったとするのはあまり聞かない.おそらく「共和制から帝政に移行したことが包括的政治制度から収奪的政治制度への移行となり,経済的衰退の原因になった」と主張するアセモグルとロビンソンのことだろう.しかしローマは共和政から帝政に移行したことによりさらに繁栄したと捉えるのが普通で,やや「共和政の方がより良い制度に違いない」というイデオロギー臭い主張だという感想だ.
なおギボンがローマ帝国の滅亡時をコンスタンチノープルの陥落(1453)においたのは,内実はともかく少なくとも法制度的には,ローマ帝国,東ローマ帝国,ビザンチン帝国は完全に連続した国家主体であったからだ.名目的にはここを滅亡年とするのはある意味筋が通っているともいえる.結局衰亡論で何を説明したいか(共和政ローマの気風を持つ社会的集団の凋落なのか,法制度的な国家の滅亡なのか)ということにも関連するだろう.
ともあれここからターチンの議論となる.