ランドルフ・ネシーの講演が行われるというので,進化精神医学セミナーに参加してきた.場所は京王線上北沢の閑静な住宅街の一角にある東京都医学総合研究所.ネシー教授の進化精神医学の講演を中心に,東京ティーンコホート研究で明らかになった思春期メンタルヘルスのトピックもあわせて議論するという趣旨だった.
冒頭でセミナーの趣旨の説明があったのちに最初に登壇したのは長谷川眞理子
特別講演1 Evolution Is Not Progress: The Ghost of Social Evolutionism 長谷川眞理子
- 今日はそもそもトークをする予定ではなかったのだが,しかし(本日のようなテーマの講演を聴く)日本の(進化生物学に必ずしもなじみのない)聴衆には,ダーウィンとスペンサーの違いを説明しておかなければならないと思って登壇することにした.多くの日本人はここを誤解している.今日ここに集まったに皆さんには不要かもしれないが,この誤解をよく知っておいてほしいし,皆さんの回りの人々にも伝えてほしいと思う.
- 日本における一般的な進化の理解には重大な誤解がある.
- それは多くの場合無意識下にあるが,意識的な場合もある.
- この誤解を解かねば,様々な議論に進化視点を取り入れようとする努力は無駄になる.私はこれに30年も取り組んできたが,(日本は)全く,本当に全く何も変わらなかった.
- 誤解のコアは以下の3点にある.
- 「進化は進歩だ」:これは商業的なメッセージにあふれている.炊飯器の進化,EVの進化,AIの進化など
- 「自然淘汰はグループのために,あるいは種のために働く」:このナイーブグループ淘汰は誤りだ.
- 「進化とは社会進化のことだ」「進化はナチズムに繋がる,進化は問題含みで危険だ」:社会進化とはスペンサーの唱えたことだが,そもそもスペンサーがこれを言い出したのは「種の起源」の出版前だ.
- なぜこんな誤解が蔓延しているのか
- まず生物進化についての適切な教育が行われていないことがある
- そして古い世代の誤解が若い世代に伝えられて再生産されている.特に生物学以外のアカデミアのオーソリティーにこの誤解がこびりついており,分野でみな誤解を共有し,進化的な説明を恐れ警戒するということが起こっている.
- 最後にここにはヒトの認知のバイアスの問題もある.
- では実際にはどうなのか.
- まず進化は進歩ではない.進歩には価値が含意されている.しかし進化は価値とは無関係(value free)だ.しかしヒトにはvalue freeなことを考えることが難しい.
- そしてダーウィン(の主張)とスペンサー(の主張)は全く異なる.先ほど挙げた誤解は文化人類学者によく見られる.ある文化人類学者は私に「進化なんか大嫌いだ」「進化は人種差別に繋がる」と真顔で言い放った.「ええっ,なんですって(What?)」としか言い様がない.
- スペンサーは19世紀の博識家で,ハードコアの進歩主義者だ.彼は遺伝のことは何も知らなかったし,進化についてはラマルク的な理解しかなかった.社会進化を主張したあとで出版されたダーウィンの「種の起源」を読み,よく理解しないまま「適者生存」がダーウィンの主張だと考え,それを自分の社会進化のメカニズムとして利用しようと考えた.当時の人々はダーウィンの本を必ずしも生物進化の理論として受け入れたわけではなく,進歩主義の1つとして受け入れた節がある.
- 進化とは何かについてここでは詳しく説明しない.ただそれは事実であり,メカニズムも自然淘汰と中立説で説明されており,生態や行動の形質や特徴を説明できる.これについては良い本がたくさんあるので読んでほしい.(ロビン・ダンバーの「Evolution」が紹介されていた)
- また日本における進化概念の受容の歴史は複雑だ.
- 明治維新とともに大変革があった.当時キリスト教と神道,仏教の間で宗教的なバトルがあった.そこにダーウィニズムが流入し,各宗派ともそれを自派有利に利用しようとした.
- 日本で最初にダーウィンを講義したのはモースだといわれる.モースは反キリスト教的思想の持ち主であり,そこでダーウィンとスペンサーをまぜこぜで紹介したらしい.
- 認知のバイアスにも触れておこう.
- 現代の人々は技術がどんどん進歩するのを目の当たりにしている.個人として質を向上させるように強く推奨される.適応的特徴に進歩を見いだしてしまう.また意図や目的に敏感で,様々な事柄を意図的,目的的に推測してしまう.そして人々はそもそも生物進化にはさほど興味はなく,社会の進歩に関心があるのだ.
- 今日のネシー教授の講義はこれらの誤解に基づく偏見なしに聴いてほしい.
続いてネシー登場.冒頭では長谷川寿一から紹介があり,ウィリアムズと共著した「Why We Get Sick」(邦題「病気はなぜ,あるのか」)で進化医学分野の創設者の1人となったこと(進化医学的議論の例として発熱が適応的防御反応である可能性を指摘したことが挙げられていた),その後進化精神医学についても理論的な基礎を作り(例として不安が防衛反応である可能性を指摘したことが挙げられていた)「Good Reasons for Bad Feelings」(邦題「なぜ心はこんなに脆いのか」)を出版したことなどが紹介されていた.
特別講演2 How evolutionary psychiatry advances research and treatment of mental disorders ランドルフ・ネシー
- 進化医学とは何か.それは通常の医学とは異なるフレームワークを持つものだ.
- 1968年ごろ,「(進化的に見て)なぜ老化が起こるのか」という問いについて,私の周りで言われていたのは「種の進化スピードを上げるために世代交代を促すためだ」というものだった.
- 1970年ごろ私は精神医学の医学徒として非常に不満だった.当時,特定の症状に対して特定の治療法を提唱する数多くのセクトがあり,ぞれぞればらばらに活動していた.たとえば精神分析セクト,行動療法セクトなどだ.こういうのがまともな状況であるはずがない
- 1982年時点で進化的視点に基づく精神医学は存在しなかった.私は「なぜ誰も1957年のウィリアムズの老化の多面発現遺伝子説の論文を読んでいないのだ」「なぜ誰も生物学に無関心なのか」と非常に不満に思っていた.私は1984年にウィリアムズの議論を取り入れた老化に関する論文を書いた.またその頃,至近因と究極因の区別の重要性も知った.
- 私はウィリアムズと仕事をすることになった.そして最初に2ヶ月議論したのは「病気にはどんなアドバンテージがあるのか」という問題だった.議論した結果それは間違った問いであることが理解できた.病気自体に淘汰的な有利性があるわけではない.真に問うべきなのは「なぜ私たちの身体は病気に対して脆弱なのか」だったのだ.そして親知らずが引き起こす問題,出産時のリスク,腰痛のなりやすさについて理解が深まった.
- これは1つの視点の転換だった.自動車に引き直せば,修理工(メカニック)の視点から,エンジニアの視点に変えるべきなのだ.
- ではなぜ身体は脆弱なのか.これには複数の説明が成り立つ.ここでは8つにまとめておく.
- 自然淘汰のコントロールの限界:これは必要な変異の存在,発達の仕組み,環境の制限などにより最適になりえないというものだ.従来の医学のリサーチはほぼすべての病気についてこの説明を(暗黙的に)用いていたことになる.
- 形質がサブオプティマルにとどまってしまう場合がある:これはドリフトや経路依存性によるものになる.良い例は哺乳類の眼の構造(盲点の存在)だ.
- 淘汰環境と現代環境のミスマッチ:近視へのなりやすさはこれで説明できる.
- 病原体とのアームレース
- 形質のトレードオフ
- 自然淘汰は(健康状態の最適化ではなく)繁殖成功最大化に進むこと
- 防衛メカニズムとして何らかの不快な状況が有用であること
- 身体の構造上不可欠な特定の部分に存在する本質的な脆弱性:たとえば身体の内部から外部への開口部など
- ウィリアムズと仕事して34年が経過し,この分野は発展してきた.成果の例を挙げると,抗生物質の飲みきりの重要性の認識,(癌の)適応的化学療法,母乳に新生児が消化できない糖が含まれているのはなぜかという謎の解明(腸内細菌叢の形成に有用),アルツハイマーの理解などがある.
- アルツハイマーの理解というのは,この脆弱性には複数の説明が同時に当てはまりそうだということだ.たとえばニューロンには本質的な脆弱性があるし,ApoE4にはアルツハイマーリスクの上昇と引き換えに感染からの防衛という効果がある(その他の説明も同時に当てはまる)ということだ.
- では精神医学についてはどうか.
- それまで精神医学においては,個別の病気があり,それは個別のバイオマーカーで識別でき,個別の特定の原因があり,個別の特定の治療法が有効だという(そうであれば取り扱いやすいという願望に基づく)フレームワークが当然のこととして受け入れられていた.
- しかし実際にはそうではない.症状は様々にオーバーラップしているし,それぞれの症状に個別の特定原因があるわけでもない.遺伝的な場合も数多くの遺伝子が小さな効果を持って関係しているし,特定の症状に有効な特定の治療法が見つかっているわけでもない.
- 進化的な視点から精神医学を眺めるなら,その症状は行動レベルであり,それをもたらすのは脳であり,脳の構造に自然淘汰がかかっていることになる.
- 進化精神医学は始まったばかりだがすでに有用性をみせているし,2013年ごろから論文が量産されるようになっている.
- 進化精神医学はコントロールレベルの至近因を考える.そしてユニバーサルな傾向に注目し,心の脆弱性の説明をしようとするものだ.
- 感情を進化的に考えると,それは適応度を上昇させるものだ.典型的な個別の感情が離散的に存在するのではなく,様々な感情が複数の機能を持ってオーバーラップしている.(感情の系統図が紹介される)
- ネガティブな感情はなぜあるのか.様々なメンタルヘルスの問題で,圧倒的に頻度が高いのは不安症と鬱だ.(続いてその2つの半分以下の頻度でアルコール中毒,ドラッグ中毒,双極性,統合失調などが続く)
- 不安症への脆弱性を先ほどの8つの説明要因に当てはめてみると,重要なのはトレードオフと防衛メカニズムになる.(ここで火災報知器の原理がコスト,ベネフィット,確率を使って説明され,重大な脅威に対してはよりフォルスアラームを許容する報知閾値(不安ヘの敏感性)が適応的になる理由が説明される)なお,適応的メカニズムだから治療する必要がないというわけではないことには注意が必要だ.
- パニック障害はこの防衛メカニズムがポジティブフィードバックを起こすとして説明できる.恐れを感じ,それにより脅威をさらに敏感に感じるようになり,さらに恐れを感じる.これがループを起こしてパニック障害の症状となる.
- これらの防衛メカニズムに起因するメンタルな問題に対しては,患者にこれらの適応的メカニズムの要因を説明することにより良い効果が得られる場合がある.
- アルコールやドラッグへの中毒ヘの脆弱性はどう説明されるか.
- これは8つの説明要因のうち,進化環境と現代環境(強い薬物が容易に入手可能)とのミスマッチの影響が大きい.この問題に関してはなお多くのリサーチテーマが残されている.
- 摂食障害はどうか.
- これは飢餓に対する防衛メカニズム(入手可能な時に多く食べようとする)と,現代環境における社会競争の激化から説明可能だ.悪化するメカニズムとしては,まず摂食を抑えようとし,しかし防衛メカニズムが発動して食欲を抑えることができずに食べてしまい,コントロールを失って過食してしまい,深く後悔して食べないように決意するというループに陥るということがある.この問題にも多くのリサーチテーマが残されている.
- 統合失調症はどうか
- これには遺伝性(遺伝率は80%)があり,この症状を持つ人の適応度は大きく下がるので,これは進化的ミステリーだ.
- 突然変異と淘汰のバランスという説もあったが,リサーチの結果現在では否定されている.
- 関連遺伝子を調べると,強い効果を持つ単独の遺伝子はなく.弱い効果を持つ何千という遺伝子がある.その中でもある程度の効果を持つ遺伝子は数十程度でその頻度は非常に低く,ごく弱い効果を持ちある程度の頻度を持つ多数の遺伝子がある.この多数の遺伝子は全染色体に広く分布しており,何らかの自然淘汰を受けている形跡はない.
- また統合失調症は,多くの他の遺伝的な精神症状(ADHD, ASDなど)と相関がある.
- 私はこれに対して,2004年にクリフエッジモデル仮説を提唱した.
- 競走馬には速く走れるように強い人為淘汰圧がかかっている.中足骨は長い方が速く走れるのでそういう方向に育種されるが,長くなりすぎると骨折リスクが高くなり,骨折したウマは繁殖できなくなる.適応度は中足骨が長くなるにつれて上昇していくが,あるところで崖のように垂直に下がる.
- 統合失調症はこれに似た状況だと考えた.多数の遺伝子が関連する何らかの認知的に有利になる形質があり,それが高い方が適応度が上がっていくが,ある閾値を超えると統合失調症の発生リスクが高くなり,適応度は急速に下がっているのではないか.個人としては崖の直前が適応度最大になり,淘汰を受けた集団が一定の分散を保つとすれば,その集団の平衡状態は崖よりある程度手前が平均値で両側に広がった分布を持つ,すると分布の端では常に一定割合の人が統合失調を発症することになる.これにより適応度が非常に低いにもかかわらず人口の1%程度が統合失調症であることを説明できる.
- 最後に進化精神医学とは何かをまとめておこう.それは生物学的モデルであり,個人理解の方法の1つであり,すべての要因を考察するものだ.
ここから質疑応答となり,様々なトピックに関してネシー教授がコメントを行ってくれた.
興味深い質疑を1つだけ紹介しておこう
Q:統合失調症のモデルにある「何らかの認知的に有利になる形質」とは何か
A:それははっきりわかっていない.ここからは推測ベースだが,統合失調症のハルシネーションは視覚的なことはほとんどなく,多くが聴覚的なものだ.そしてその内容は「おまえはばかだ」みたいなものが多い.これは自分への批判についての敏感さが関連しているのではないかと思う.
ここまでで午前の部が終了.一旦昼食休憩となった.