「How Pleasure Works」

How Pleasure Works: The New Science of Why We Like What We Like

How Pleasure Works: The New Science of Why We Like What We Like


本書はMITの発達心理学者ポール・ブルームによる,本質主義がヒトの楽しみと深く結びついていることを論じた本である.ブルームは「Descartes' Baby」(邦題「赤ちゃんはどこまで人間なのか」)の著者でもあり,そこでは芸術と道徳が発達心理学の立場から議論されていたが,本書は,その考えを進め,芸術を含むヒトの楽しみについて生得的な本質主義が重要な役割をしていることを書いているということになる.


本書は冒頭で,ヒトの楽しみが単純ではないことを説明し,少女のリストカット,マゾ的なセックス,理解できない抽象画に大金を払うこと,ホラー映画で怖がることなどを挙げ,その謎を発達的進化的に考えていこうと宣言している.そしてまず複雑な楽しみの例として絵画の真作と贋作に対するヒトの感情を取り上げ,それが本質主義フェルメールの真作と贋作は,見た目で区別できなくてもその本質は異なる*1)と深く結びついていることを示している.そしてそれは絵だけではなく楽しみの多くについて言えることだというのがブルームの主張だ.
単純に適応的な行動を促すための報酬としての喜びは(空腹時の食事など)進化的に説明しやすい.また「副産物」で説明できるものもある.しかしこれだけでは説明できない喜び(物語,芸術,感傷的なもの,宗教的な喜び)がヒトには多いのだ.これに対する一般的な回答は「それは文化的なものだ」ということになる.しかしこのような喜びのほとんどは発達の初期に現れユニバーサルであることが知られており,文化だけでは説明できない.そしてこのような喜びには「本質主義」が絡んでいるというのがブルームの主張だ.ここでいう本質主義は「物事には『本質』があり,それは直接観察できないが,真に重要だ」という信念を指している.


ここからブルームはヒトの本質主義の性質とそれが生得的であることを示していく,子どもは生得的に本質主義者であり*2,トラの皮をはいでライオンの皮をかぶせてもそれはトラだと主張する.言語の定義にもそれは表れ,名詞の定義は何か非常に本質主義的なものになる*3.ブルームの指摘する本質主義の中で面白いのは「個物」についての本質主義だ.ブルームによると個物を個物として認識するには本質主義が不可欠になる.そしてその本質として,私達は個別のものが何故どのようにつくられ,どのような歴史を持っているかを気にするのだ.だからセレブが触れたものは特別の価値を持つ. 
ブルームは「本質主義は通常合理的で適応的なのだが,時に誤謬と混乱*4を生むのだ」と注記している.


ここからは各論になる
まず「食べること」
食べる喜びはいかにも栄養価を得るための報酬で適応的に説明できそうだが,ブルームはそれだけではないとして,まずドイツの人肉食事件を取り上げる.これはネットで知り合った相手を,同意の上で殺して食べた事件だ.ブルームはこれは何かを食べるとその食べ物の「本質」を取り込むことができるという感覚に基づくものだと議論している*5.この「あなたは食べたものになる」という本質主義アメリカ人のミネラルウォーター好き(何か自然でピュアなものを取り込める),GM食品忌避傾向,サイの角などの媚薬効果迷信を説明するのだ.
ブルームは食べ物の嗜好の個人差や,文化差,それまでの経験などの要因も挙げつつ,食事の楽しみの一部は「何を食べていると信じているか」という信念に影響されると説明する.だからペリエと思って飲んだ水道水はよりおいしいし,ワインのラベルは味覚に影響を与える.またここでは嫌悪や忌避が特に肉に多いことも取り上げている.明確に説明されてはいないが,要するに,食中毒のリスクを避けるために,特にタンパク質系の食事については「過去気持ち悪くなったことがあるものを避ける」「大便や吐瀉物を避ける」という適応的な傾向があり,それは何を食べているかという信念と関連するのだ(つまり食べ物への本質主義は適応的だった可能性がある)ということのようだ.
これらは特別な食べ物を食べるときの深い喜びをもたらす,と同時に現代社会ではオーガニック食品,アグリビジネスへの批判,地産地消などに絡み,エチケットや道徳的な問題になっているということになる*6


「セックスと愛情」
世界中の物語には「ベッドをともにした相手が実は考えていたのと別人だった」というプロットが豊富にある.これらは(忘れ薬や惚れ薬と並んで)意図せず不貞を働くという状況を可能にする小道具だが,しかし性的快感が単に感覚だけでなく「相手が誰だったのか」に大きく依存することをよく示している.性的喜びも食事の喜びと似ていて,その基本的な適応的意義は明らかだが,やはり詳細は微妙に難しいのだ.
ここでブルームは性差と配偶システムの進化生物学,およびヒトにかかる配偶者選択と性淘汰圧についての進化心理学の概論を行う.これまでヒトの配偶者選択の領域では外見の重要性がよくリサーチされてきた.美しい顔とはどんな顔かなどのリサーチがそれだが,そのほかの要因との相対比較はあまりなされていないとブルームは指摘する.単純な外見以外に,見知っているかどうか(だからとなりの娘は可愛く見える),笑っているかどうかなども重要だ.そしてブルームさらに本質主義的な3つの問題があると主張する.それは「この人は男性か女性か」「血縁者か」「そしてこれまでの性的な歴史」だという.ブルームはこれらはそれぞれ進化的な適応度と結びついていて配偶者選択が本質主義的であると議論している.2番目は近交弱勢,3番目は父性の確実さの問題だと言うことだ.
またブルームはミラーの性淘汰仮説を支持して,コミットメントのコスト,相手を喜ばせるための娯楽マシンとしての脳の優秀性が性淘汰にかかっただろうとしつつ,さらに「特定の人」に引かれるようになっているのだと主張する.これはコスミデスとトゥービイの「雨の日の銀行家のパラドックス」と同じ問題にかかるものだ.コスミデスたちは,より良い相手が現れたという理由で自分が捨てられないためには「自分が代替できない」ことをディスプレーするような戦略が進化すると論じたわけだが,ブルームは同じ機能は配偶相手を「特定の誰か」と考えるようになることで実装できるとしている.そしてそこにある人には外見だけでないその人の「本質」があるという本質主義が絡むという議論だ*7
なかなか面白い議論だが,疑問もある.代替できないことを示す必要があるのは,捨てられる可能性のある方で,本質主義が実装される必要があるのは捨てるオプションを持つ方だ.だからこれはストレートには進化できない.(相互に同じ状況だとしても,相手のみ本質主義で自分はオプションを持つ方が有利になれる)残念ながらブルームはこの問題を取り上げてくれてはいない.確かに機能としては重要であるだけに興味深いところだ*8.そしてブルームの言う通り,私達が愛や友情を深く感じられるのは相手に対して本質主義的な固執をするからなのだ.なかなか深い.


「価格」
ブルームがまず取り上げるのは「現金」の不思議だ.現金で購入できるかどうかにはタブーとのトレードオフがある*9.またヒトの心は共有や物々交換には適応していても,市場価格や現金には適応していない.だから友人宅に食事に招かれても現金を払ってはいけないし,贈り物にギフトカードはよくても現金は不適とされる.
しかしブルームが特に取り上げるのは,私達がものの価値を計るときに絡む本質主義だ.私達はものの価値を考えるときにその有用性だけでなく,そのものがどのような意図でどのように作られ,その後どういう経緯をたどったかという歴史を,そのものの本質として考慮するのだ.単純な例では,私達のあるものの価値への感覚は,それが一回自分のものになったか,あるいは自分が選択したかどうかに影響を受ける.ブルームはなぜそうなのかについて,わからないとしながら,難しい決断をしやすくしたり,他人との同調に役立つからかもしれないと書いている.しかしこの議論はどちらもあまり説得力がないように思う,少なくとも「一回自分のものになったものに固執する傾向」は,何らかの非対称性による闘争回避のESS(なわばり制など)という解釈の方がもっともらしいのではないだろうか.
また私達の評価は,誰によりどのような意図で作られ,誰により触られたかということにも影響される.これは制作者の意図や有名人の接触により,何かがものに宿ったり移ったりするのだという本質主義があるからだというのがブルームの説明だ.例としてはセレブのサインや衣装,聖遺物が挙げられている*10
ブルームはこの本質主義が私達に個物の認識を可能にし*11,個物へのこだわりとそれが与えてくれる喜びのもとになっていると説明している.個物認識と本質主義というブルームの指摘はなかなか面白い.


「芸術」
私達は芸術作品について本物かどうか,真作かどうかを気にする*12
ブルームは,それはものが作られた歴史についての私達の本質主義のためであり,芸術作品を楽しむ感覚に大きな影響を与えているのだと議論する.だから絵画は真作のみに価値があり,それを見ることに大きな喜びが伴うのだ*13.音楽については,ピンカーのチーズケーキ説や,集団の結束説*14などを紹介した後で,両方ともありそうだが,音楽に好みがあることを説明できないと議論している.
ブルームは音楽だけでなく芸術一般について,基本的にこれは性淘汰ディスプレーであるというミラーやダットンの説に賛成し,さらに友人や同盟者の選択にも絡む個人の能力のディスプレーであり,これを見定めるには制作意図,制作に要する技量に敏感になる必要があったのだろうという議論を行っている.これが芸術作品について特に歴史を気にする本質主義を強化するのだ.ブルームはモダンアートやポストモダンアートにかかる論争は,その製作意図と,制作に要する技量に絡むものが多いこと*15を指摘している.またブルームはスポーツの一部にはこれと同じ要素があるとも指摘している*16.そしてこれらは自分の質のディスプレーとしてのパフォーマンス(ゲームの高得点争いから大食い競争まで)とその鑑賞全体にかかる喜びの本質と密接に結びついていると指摘している.要するに質を見極めるパフォーマンスの評価にとって本質主義が有用だったということになるのだろう.


「想像」
現代人が最も時間をかけて楽しむ娯楽は想像の世界に遊ぶことだ.小説,映画,ドラマのほかに自らの作った空想に浸ることもこれに含まれる.これは適応的に見ると不思議だ.ブルームはこれは心理システムへの超刺激(いわゆるチーズケーキ)だと認めている.しかしこれだけでは説明できない.
子どもは早くからごっこ遊びを行うが,それが現実とは異なることを理解している.このような遊びが可能になるには「メタ表象」が必要だとブルームは論じている.ブルームのいうメタ表象能力はいわゆる「心の理論」や高次の志向姿勢に絡む問題だろう.ブルームはこの能力の適応的な説明として,他人の行動を読むことと並んで,自分の将来の計画を立てることに役立つと指摘している.そしてこのメタ表象の能力が空想の世界やフィクションの物語を作り出した(つまり副産物)であるというのが基本的なシナリオになる.面白いことに物語のプロットにはパターンがあり,世界中で収斂し,私達はどの文化の物語でも楽しむことができる.それは1つには人々の興味自体がユニバーサルであることを反映している.
しかし何故そもそもフィクションを楽しむことができるのだろうか.フィクションが生みだす感情は(私達がそれは現実でないと知っていても)非常にリアルだ*17.ブルームはこれは人々は一見そうみえるものに感情を引き起こされるのだというフレームで説明している.(しかしここはモジュール的に解釈した方がわかりやすいと思う.モジュール的にいえば,フィクションと現実を区別しておくモジュールと,視覚やプロットによって感情を生みだすモジュールは異なるということになるだろう.)いずれにせよこのような脳の仕組みのために私達はフィクションを楽しむことができる.
これは純粋な副産物か.ダンバー的なゴシップを楽しむ心がフィクションとしての登場人物の歴史に興味を抱かせるということはあるだろう.そして巧みな物語はチーズケーキ的な超刺激になる*18.しかしそれだけではない.ブルームは,適応的な説明の1つとして,小説を楽しむ能力は社会的能力のトレーニングだというザンシャインの説を紹介している.そしてブルームはさらに適応的な機能があるかもしれないと,道徳を蒸留して示す機能を指摘している.ブルームがあげる例は小説が奴隷制の残酷さを最もよく示すことができたというものだ.もっともここはややナイーブグループ淘汰的で納得感がないところだ.それは個体淘汰的にいえば物語の制作者の操作にかかりやすくなるだけではないだろうか.


「現実とフィクションの違い」
ブルームはフィクションの楽しみと現実の楽しみの違いについてさらに考察を深めている.もしマトリックスのような完璧なバーチャルリアリティが可能になれば,それは最強の娯楽になりもはや現実の娯楽は不要になるのだろうか?
本物だと思っていたものが誰かの意図による制作物とわかったとたんに,私達の注意はその内容から,制作意図や製作技量にシフトするとブルームは指摘する.つまりフィクションには創造物としての本質があるのだ*19
もうひとつフィクションには「安全」という要素がある.大災害でもけんかでも自分がそれに巻き込まれることはない.ブルームが指摘していることで面白いのは,現実では「誰かの顔をクローズアップでまじまじと観察すること」は普通できないということだ.またブルームはフィクションではすべてのエピソードに意味があり,それはすべてのことに目的と意味があることが好きな私達に安心を与えると言っている.(なおブルームはこれは物語のスリルを少し減じる作用もあると指摘している.*20)そしてこの安全という要素は,悪や悲惨さからも楽しみを得ることができる可能性を作る.ブルームは残虐ゲームやホラー映画はある程度これによって説明できるとしている.ホラー映画は,恐ろしい場面での仮想トレーニングの側面があるというわけだ.お涙頂戴の悲劇やハラハラドキドキの犯罪ものも仮想トレーニングへの好みの表れだと考えると理解しやすい.ブルームはマゾヒズムもこれに関連しているという.マゾは単に痛く苦しければいいというわけではない.それをコントロールしていることが重要な要素だそうだ*21.そしてこれはトレーニング心理からうまく説明できるのだ.


ブルームは本書の最後にこのような議論のインプリケーションをまとめている.

  • まずこのような本質主義は,ヒトが不合理でお馬鹿だと言うことを意味するわけではない.多くの場合は合理的で適応的なのだ.トラは見かけだけで決まるわけではなくDNAや進化史を持つものだ.我が子とほかの赤ちゃんはまったく異なるのだ.それは時に現代環境とのミスマッチを起こすという点でほかの多くの適応と同じだ.
  • セレブが触ったものを好んだり,贋作より真作を求めるのは,単に嗜好の問題だ.それを取り立てて問題視するべき理由はない.
  • 私達の心に本質主義がなければ,芸術や愛情や友情の楽しみや喜びはまったく異なったものになるだろう.
  • 本質主義は時に道徳的でない結果をもたらすことがある.しかしそれは楽しみ一般にあるコストの表れの1つだ.
  • 隠れた本質に近づきたいという気持ちは科学を推進してきた心なのだ.
  • またそれは(特に精神性,世界には知覚できる以上のことがあるという信念,畏怖*22という感情に絡んで)宗教の推進力でもあっただろう.実際に無神論者でも超越的なことがらに関心を抱いている人は多い.
  • 本質主義は宗教とさらにいろいろと絡みついている.教義の推進には物語が有効だっただろう.そして超越的なことがらは想像の世界と深い関連がある.さらにそれが現実かそうでないかの中間的な状況は様々な宗教的な現象と関連するだろう*23


本書は私達の心が生得的に持つ「本質主義」が私達の心理的な経験に大きな影響を与えていることを非常に説得的に説明してくれている.人生が価値あるものだと感じていることがらの実に大きな部分が本質主義抜きには語れないのだ.そしてその理由についても踏み込んでいて,すべて進化的に説明し切れているわけではないが,啓発的な議論も多い.このあたりはこれからのリサーチ課題ということになるだろう.ヒトの本質主義の生得性を扱った書物としては,フードの「スーパーセンス」が超自然を信じる心を本質主義を絡めて説明して記憶に新しいが,ブルームの本書はスコープが深く,より究極的な説明に踏み込んでいて,はるかに充実した本だと評価できるだろう.



関連書籍


ブルームの前著.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060306

赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源

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同原書

Descartes' Baby

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ヒトの本質主義と超自然信念にかかる本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110411

スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている

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物語の進化的な説明についての面白い本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070808

Why We Read Fiction: Theory of Mind And the Novel (Theory and Interpretation of Narrative)

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*1:もちろんここで取り上げられるの有名なフェルメールの贋作作家メーヘレンと贋作を売りつけられたゲーリング,そして贋作を見抜けなかった多くの批評家たちの物語だ.

*2:ブルームは,ピアジェ本質主義は文化的に獲得されるものと主張し,今日でもこの生得性については広く受け入れられているわけではないと書いている.一部の論者はこの生得的本質主義は動物カテゴリーに限られると言うようだが,人間の性別についても同じように強い生得的本質主義的傾向があると指摘している.子どもはジェンダーについて教えられてはじめて環境主義的になるのだ.

*3:ここでブルームは殺人者,人種差別主義者という単語は,単にそういう行動をした人という意味ではなく,そのような内的な傾向を持つという意味を併せ持つという指摘をしている

*4:混乱の例としては人種差別が挙げられていて.黒人のオリジンの複雑さなどを指摘している

*5:人肉食についてはかなり詳しく議論されている.基本的に忌避されているが,相手の本質を取り込むことができると考えられているときには儀式的に口にされることがあると指摘している.ブルームはカトリックの聖餐(ワインはイエスの血であり,パンはイエスの肉であるとする)もその現れだと書いている

*6:ここでブルームは,アメリカの保守派は,性について厳格主義(中絶反対,ゲイの結婚は認めない)で,リベラル派は食べ物について厳格主義だという指摘を紹介している.なかなかどっちもどっちで面白い

*7:実際にそうなっていると根拠としては,一卵性双生児であっても愛の対象は取り替えられないこと,ポルノはより知っている女優である方が興奮することなどの観察を提示し,この本質主義が喪失した例としてカプグラス症候群を挙げている

*8:自分が本質主義であることで(相手から自分を捨てたりしない人として選択されることで)適応度が上がるためには,それがコミットメントとして働くことが重要だ.そしてそのためには本質主義者であることを示すハンディキャップコストのある信号がなければならないだろう.(そうでなければ本質主義者であるという信号のみ発するフェイクにより信号自体がつぶれてしまう)なかなか難しそうだ.

*9:買えないものリストが示されている.挙げられているのは.奴隷.政治的影響力,刑事免責,言論信仰の自由,結婚,徴兵逃れなどだ.ちょっと面白いのは絶望取引というカテゴリーで,最低賃金違反などが例示されている

*10:セレブの服の価値はクリーニングにより下がることも指摘されている.タッチにより移った本質は洗濯より失われるらしい.

*11:「スーパーセンス」の著者フードとの共同研究である,複製マシンと子どもの反応の実験が紹介されている.大事なぬいぐるみの複製を拒否する子どもの様子などなかなかほほえましい.なおブルームは個物としての毛布やぬいぐるみへの執着には日米差があり,日本で少ないのは添い寝の習慣がより一般的だからだろうとしている.日本でもいかにもというぬいぐるみを抱きかかえた女の子をしばしば見かけるが,アメリカではさらに一般的だということだろうか

*12:世界的バイオリニストをニューヨークの地下鉄の駅でパフォーマンスさせた実験が紹介されている.協力してくれたジョシュア・ベルはなかなか茶目っ気のある人なのだろう

*13:ブルームは,メーヘレンの贋作を見抜けなかった批評家たちがメーヘレンの告白の後掌を返したように贋作を酷評することを擁護している.告白は本質主義の心に与える喜びを本当に減じたのだ.

*14:結束説を採るなら,そもそも一緒に歌い踊ると何故結束が高まるのかということ自体説明できなければならない.ブルームは,自分と同じように動いている物体が自分の意図に従っているように見えることから来る副産物ではないかと論じている.

*15:デュシャンの泉(便器),マンゾーニの大便缶詰,エール大学の女子学生の卒業制作(妊娠中絶をビデオに収めたもの)ヘンゼルの彫刻(首の彫刻と台座をコンテストに送ったところ,台座のみが芸術作品として展示対象となった)などを巡る論争が詳しく紹介されていて面白い.

*16:ステロイド剤は健康に影響がなくても忌避されるだろう,それは質を見るためのパフォーマンスに対する騙しになるからであり,美容整形と同じだという議論がなされている

*17:時に私達は行きすぎるとして,ドラマの撮影地に観光客が殺到することや,俳優が演じた役と混同されることが例示されている.

*18:ブルームは,キャラクターが魅力的であること,中間の退屈なパートを省略できること,(正しいことが保証されている)内心の描写があること,を挙げている.そして現実であることの迫真性の欠如はフィクションの弱さだが,最近のサヴァイヴァーなどのテレビショーはそれも取り込んだ最強のチーズケーキだとコメントしている.

*19:ここを説明するブルームの「バナナの皮に滑って転ぶ」ギャグの解説は面白い.そのギャグはおかしくても現実に誰かが滑って転ぶのはそれほどおかしいわけではない.そしてそれをもう一捻りしたギャグは本当におかしい.(チャップリンは,バナナの皮に近づいてきた男がそれにつまづいてマンホールに落ちるというギャグを作ったそうだ)

*20:私達は当初アニメを見ながら死亡フラグが立つような安易な演出にがっかりしていたが,そのうちにそれがフラグだと言うことを逆手にとるような演出を楽しむようになる.なかなかフィクションの楽しみの奥は深い

*21:ブルームはマゾの人も歯医者は嫌いだと指摘している

*22:ブルームはこの畏怖という感情も詳しく考察している.それは適応ではなく,真実の探索において対象の広大さにシステムが追いついていないときに生じてしまう現象だという議論を行っている

*23:ブルームは科学においてもクオークやストリング理論は現実なのか説明の便宜なのかの中間的な状態ではないだろうかと指摘している