「生物系統地理学」

生物系統地理学―種の進化を探る

生物系統地理学―種の進化を探る



昨年末に刊行された系統地理学の教科書である.原書の書名は「Phylogeography」,2000年刊行のその筋では有名な教科書ということらしい.本書はB5判で,かなり巨大(定価も税前で7600円となっている).取り回しはやっかいだが,サイズに恥じず,なかなか読み応えがある.


系統地理学というのは,本書によると分子遺伝学の近縁分野で,大進化を扱う歴史地理学,古生物学,生物系統学と,小進化を扱う行動生態学,個体群統計学,集団遺伝学の橋渡しをする分野ということだ.


この分野は比較的新しく,また上記のように各分野の学際的なものである.そのためか読んでいてもっとも面白い体験は,いろいろなところで聞きかじっていたような知識が体系的に説明される快感である.基本的にはある種内の様々な地域の複数の個体のミトコンドリアDNAの分子データから系統樹を作成することにより,様々な情報を得ようとするもので,もっとも知られているのは人類のミトコンドリア遺伝子の解析によるアフリカからの分散を説明するようなリサーチだろう.このようなデータを分析することにより種内の個体群同士の生殖隔離分岐の深さや程度,地理的な構造や,分散の歴史について知見が得られるのだ.


これが種間の系統樹と異なる点は,その種内で交配が生じている点だ.だからこの系統樹の根元の分岐年代は単純な分岐の年代ではなく,(まさにミトコンドリアイヴの年代としてよく議論されるように)集団内の交配の中で母系系列が1点に収束する年代だ.この数学は姓名の継承にかかる数学と同じであり,一定規模の自由交配集団内で平均何世代で1点に収束するかが統計的に求められる.本書ではこれを「合着理論」と呼び,この学問の基本だとおいている.この理論により遺伝子系列相互間の統計的数学的な分析が可能になっているものであり,集団遺伝学を動学的に拡張したような学問分野にすることを可能にしたのだ.なお分子データはミトコンドリアからスタートしているが,もちろんY染色体遺伝子でも良いし,いくつかの修正と制限の上で核遺伝子にも拡張されている.そしてそれぞれのデータからはそれぞれ別の系統樹が生まれ,そのすべてをあわせて得られた系統樹が最もよく過去を推定するものになる.

実際に合着時期の予測と実証データからは,現在個体数が多い大部分の種の長期的な有効サイズは現在の個体数よりも何桁も低いことが示されていて,大変興味深い.ほとんどの種ではその歴史中にボトルネックを経験しているということなのだろうと推測されている.


理論編のあと本書は個別の研究例を幅広く紹介している.人類のアフリカ単一起源とその後の分散のリサーチから始まり様々な動物についての種内系統樹と地理的構造が現れる.ヨーロッパウナギは大西洋でランダムに交配するので,非常に広い地域で単一の分岐の浅い集団になっているとか,ハゴロモガラスは氷河期が終結してからミシシッピ沿いに広がったことを示しているとかの詳細は大変楽しい.全体の傾向も面白い.小型の哺乳類は,簡単に地理的障壁の影響を受けやすく,狭い地域での分岐が進みやすく複雑な地理的構造を見せるのに対し,鳥類は様々なパターンがあるようだ.


次に応用編がある.このような種内遺伝子系統樹の分析は,a) それを同じ種の別の遺伝子系統樹と比較する,b) 別の種の遺伝子系統樹と比較する,c) 別の地史的な知識と比較する,などの方法により知見を深めていくことができる.ここで同じ種内の別の遺伝子系統樹とは正確には何を意味するのか,核遺伝子の合着年代はミトコンドリアのそれより4倍深いという原則がある等が詳しく解説されている.
このようなリサーチも数多く紹介されている.アメリカの南東部については複数の面白いリサーチがあって,太平洋岸とメキシコ湾岸に大きく地理区分があり,フロリダ半島が熱帯区を突き抜けて障壁になっていること,その中で個別の生物には個別の歴史があることがわかって興味深い.齧歯類やネコ類にアマゾン河がどのような障壁となっているのか,ベーリング海峡の閉じたり開いたりした歴史は魚類にどう影響を与えてきたか,オーストラリア北東部の植生のギャップ,パナマ地峡の両側の海産生物,ハワイ諸島の島の生物地理学などが次々を示されていて,読んでいて大変面白い.また応用編では保全における応用もいろいろ紹介されている.どのような生物群を保全対象とすべきかという問題は,事実の問題というより価値観の問題だが,ある価値観の中ではそのグループの系譜の深さが重要になる.本書では管理単位MU,進化的に重要な単位ESUとその系統的な実体などが議論されている.


最後に【種】の問題が取り扱われている.系統学的種概念と生物学的種概念の論争を取り上げ,簡単に論評している.著者は基本的にはより真実を細かく見ることによって様々なことがわかるのであり,お互いの批判はあまり意味がないと考えているようである.基本的に遺伝子伝達経路は網目状であり,それが分岐していく境界領域の生殖隔離状況,個体群統計的動態,系譜学的側面をよく見ていくべきだということだ.
確かに本書のような分析を細かく行っていくと,生物種の分岐と様々な遺伝子の系統樹の関係がよくわかる.種の分岐は集団と集団が分かれるために,ミクロベースでは様々な遺伝子は様々な合着年代を持って様々な系統樹を描くのだ.本書のこの部分の説明はわかりやすい.
種の実在性については,深い問題には踏み込まずに,連続性の中に一定の構造と離散的なパターンがあること,認知的な分類と系統的な分類がかなり良く一致することのみを説明している.多数の遺伝子の系統樹の中心的傾向としての種はあるのだという立場だろう.


本書は分子データを扱い大進化と小進化の橋渡しをしようという新しい学問の息吹を良く伝えてくれる.教科書という形式ではあるが,著者の情熱と意気込みは十分伝わってくる.またこのような分野の教科書として特に優れているのは豊富な図版だ.様々に工夫された図が複雑で直感的にはわかりにくい概念をよく説明してくれる.リサーチ紹介も多く読んでいて楽しい教科書だということができよう.