- 作者: 内井惣七
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/08/20
- メディア: 新書
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科学哲学者内井惣七によるダーウィン本である.著者本人はまえがきで,ダーウィンの思想の本質に迫りたいと意気込みを示しており,この題名なのだろう.
実際に取り上げられているのは,ライエルの影響とビーグル号航海,自然淘汰,分岐の原則,自然淘汰とデザイン・機能について,道徳の進化についてというところである. 私としてはこのようなトピックをもってダーウィンの「思想」とくくるのには抵抗がある.確かに最後の道徳の要素的な分析は数多の哲学者も取り組んでいるので,あるいは「思想」と言えるのかもしれないが,それも含めてこれらのダーウィンの議論は基本的には自然科学としての学説理論であり,「思想」と呼ぶには違和感がある.*1
ともあれ,哲学者がダーウィンを読むとどう感じるのかというところは興味深い.著者はダーウィンの多くの著書を原書で読み込んでいるだけでなく,ライエルの「地質学原理」「人間の古さ」,チェインバースの「痕跡」,ウォーレスのサラワク,テルテナ論文,「ダーウィニズム」,デズムンドとムーアに加えてジャネット・ブラウンのダーウィン伝記まで読み込んで本書を執筆しており,なかなか深い.
まずライエルについては,斉一説が基本だが,その生物についての視点は,種の進歩(神様がだんだん高等なものを作っていった)を否定し,種の転成(生物はだんだん変わっていった)も否定するということになるとまとめている.これは世界が常に同じ状態にあるのだという考え方からは自然な流れだ.そして,では片方で絶滅がある中,生物世界が定常的にあるためには,種はどう起源するのかが問題になるという.そしてダーウィンはこれに取り組んだという説明だが,斉一説的な観点から見るとそこが大問題だという指摘はなかなか面白い.
ビーグル号航海において重要な出来事としては,絶滅動物の化石を発見したこと,ライエルの方法論で珊瑚礁を説明できたこと,ガラパゴス,西洋文明になじめるポテンシャルがありながらフェゴ島民が見せる非文明性に驚愕したこと,オーストラリアの生物相が他の地域とまったく異なることに気がついたことなどをあげている.最後の点はあまり指摘されることのないところで面白い.
自然淘汰の説明に行き着いた経緯については特に目新しい指摘はない.著者は,ダーウィンがそこから素速く道徳性についても自然淘汰で説明できると考えるにいたったのは大きな跳躍だとコメントしている.確かにライエルやウォーレスがつまづいたところから,そう感じられるかもしれないが,ある程度合理的であれば当然ではないだろうか.
著者はダーウィンの自然淘汰の説明は,エージェントとしての自然が「選択する」という形式を取っていて,これはマクスウェルやラプラスの悪魔に似ていると指摘している.私にはアナロジーとして面白いとは思えない.結局マクスウェルの悪魔は,悪魔が処理しなければならない情報を含めて考えればエントロピーを下げることはできないということになって否定されている.ダーウィンの自然淘汰はより適応度の高いものが広がっていくという形で成立し,進化適応を引き起こしているのだからまったく異なる話ではないか.
一旦形をなした理論をダーウィンがしまい込んだのは何故か.著者はよくいわれている説明に付け加えて,チェインバースの「痕跡」をセジウィックが批判したことにより,もう少し具体的に生物の詳細を究めなければならないとダーウィンが感じたからではないかと指摘している.だからダーウィンはフジツボに精力的に取り組んだのだという話につながる.
動機はともあれ,ダーウィンのフジツボ研究は,通常の雌雄同体から矮雄の形態まで連続してみられること,甲殻類と分類できることなどの成果があったとまとめている.
ここでウォーレスが登場し,ダーウィンは自説を発表することになる.著者はウォーレスの両論文,さらにダーウィンの種の大著「ビッグブック」を読み込みながら,種分岐についてのダーウィンの考えは革新的だと評価している.著者の整理ではウォーレスは,種分岐は別の場所で別の環境に適応して生じると考えていたが,ダーウィンは同じ環境の中の異なるニッチに向かって分岐して適応すえるメカニズムを提唱しており,これが革新的だというのだ.
しかし,これは後の「異所的種分化」と「同所的種分化」の議論であり,単純にどちらがより革新的かということでもなく,同所的種分化を主張するには交雑回避のメカニズムを一緒に考えなければならないが,そのあたりはきちんと整理されてなく,ややミスリーディングな印象だ.
いずれにせよ,異なるニッチがあれば(かつ交雑回避メカニズムがあれば),異なる適応値ピークに向かって種が分岐していく可能性があるという指摘はくさびの比喩でも有名なところで,ダーウィンの慧眼と言えるだろう.著者は最後に,このダーウィンの議論を理解できていないと今西説を批判していてちょっと面白い.
自然淘汰とデザイン・機能の議論についても本書に特に目新しい指摘はない.ことさらランの研究に結びつけているが,特にランの研究に限られている話でもないように思う.ダーウィンのランの本からの引用としてはっきり外適応的な概念について述べている部分が紹介されているが,(先ほどの今西説批判のように)グールドを批判するわけではなくちょっと物足りない感じだ.
最後は道徳の起源について.
著者は「人間の進化と性淘汰」の初版,第二版ともに読み込みながら議論している.「人間の進化と性淘汰」の出版に踏み切った背景としては,グレイ,ライエル,ウォーレスが人間の道徳については自然淘汰では説明できないと主張し始めているので,ついに重い腰を上げたと整理されている.(デズモンドとムーアの「ダーウィンの信じた道」で主張されている奴隷制については言及がない.本書執筆開始時点ではまだ原書も出版されていなかったのだろうか)
著書によると,ダーウィンは当時の道徳哲学についてはきちんと勉強してから「人間の進化と性淘汰」を執筆しているそうだ.ダーウィンの議論を4点にまとめてほかの哲学者の意見と比較している.
- 社会性動物は仲間と群れ,仲間に共感し,仲間に奉仕する社会性本能を持つ.
- その社会性本能が別の欲望と衝突し,別の欲望に従った場合には,社会性本能の方が存続期間が長いので,後に不満や痛みを感じる.これが規範的意識の起源だ.
- 言語を有するようになり,他人からの賞賛非難が生じ,社会性本能によりこれを気にするようになる.
- さらに習慣により強化される.
この4点は第3章で整理されている内容で主に至近的な要因を扱っている,第5章にあるどのような淘汰圧からこうなるかについての究極因的議論が抜け落ちているがちょっと残念だ.哲学者としてはそこにあまり興味はないということなのかもしれない.
著者が比較している哲学者は,ヒューム,ベンサム,マッキントッシュ,ミルと多岐にわたる.カントとロールズがないのはちょっと寂しいところではないだろうか.この中ではミルは生得的な道徳能力を否定しているのでダーウィンと真逆のようだが,実は言っていることは非常に似ているという指摘が面白い.
4番目のダーウィンの指摘について著者は本能的な道徳感情を文化が強化しているという文脈で読んでいる.しかしこのダーウィンの議論は,用不用を通じた獲得形質の遺伝を認めていたことによるもので,強化された習慣がまた遺伝を通じて本能の強化に結びつくとといっているのではないかと思う.であればこれはダーウィンの誤りだと評価すべきだろう.
著者はダーウィンの第5章の究極因的な議論について特に言及せず,100年後の血縁淘汰や互恵的利他行動の理論を紹介して,これらの成果はダーウィンの敷いた「行動を裏付ける心理メカニズムの探求」というリサーチプログラム路線に乗るものだと指摘するに止めている.これ自体はその通りである.しかし実際にダーウィンは第5章でかなり深くこの問題を議論しており,直接的な互恵行動に加え,間接的な互恵行動についてさえほのめかしている.私の理解では,ダーウィンはそのような利他行動は「動機が下賤である」と感じたためにあまり強調していないだけであり,議論自体は大変深い.著者がここをきちんと扱っていないのは残念だ.
最後に著者はダーウィンの系統的な議論を紹介し,動物に道徳のそれぞれの要素の萌芽がみられると分析したと紹介している.ダーウィンは進化が生じたことを説得するためにかなりここを丁寧に扱っている.なお著者はこのダーウィンの路線を継ぐものとしてフランス・ド・ヴァールを特に紹介している.ここはちょっと違和感がある.ド・ヴァールは確かに霊長類主体に利他性の研究をしてなかなか独創的な業績もあるが,正統的なダーウィニアンとは言い難いのではないだろうか.
全体として生物学理論の評価としてはやや整理不足だったり甘かったりするところもないではないが,豊富な資料の読み込みによりなかなか面白い本に仕上がっていると思う.一般読者に対する新書としては十分な水準だろう.
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*1:思想というのは価値観も含めて「私はこう考える」という議論であり,科学であれば「事実はこうである」という議論だというのが私の素朴な用語観だ.ついでにいえば,副題の「人間と動物のあいだ」というのも本書の内容に強く関連するわけでもなく,副題としてはあまり良いものではないと思う