「自然淘汰論から中立進化論へ」

自然淘汰論から中立進化論へ―進化学のパラダイム転換 (叢書コムニス10)

自然淘汰論から中立進化論へ―進化学のパラダイム転換 (叢書コムニス10)



本書は斎藤成也による中立進化説から見た科学史および世界観についての本である.独特な語り口,興味深い世界観,過去いわれのない批判に晒された中立説研究者としての怨念とともに,きちんとした中立説の解説があるというなかなか変わった本に仕上がっている.


まず生物進化は一度限りの歴史であり,有限で偶然の支配するものであり,そのような現象のとらえ方は物理学とは異なるものであるという考えが提示される.このような考え方(本書では「歴誌」と呼んでいる)自体はそれほど目新しいものではないが,本書のスタンスの特徴はこれを相当徹底したところにある.


ここから生物進化についての学説史に入る.アリストテレスの自然の階梯,相同を深く理解していたレオナルド・ダ・ヴィンチ,リンネの二名法などが前座として語られた後に,ビュフォン,エラズマス・ダーウィン,ラマルクと進む.ラマルクの「動物哲学」の大体の構成が要約されていて参考になる.
次は当然ながらダーウィンの登場となる.ダーウィンに影響をあたえた考察のフレーム*1系統樹について触れた後「種の起源」を解説する.「種の起源」にはほとんど中立説の考え方に近い部分があることは知られているが,斎藤はそこを丁寧に説明している.(ダーウィンは正しかったが,後の頑迷な淘汰主義者が間違っていたのだというのが斎藤のスタンスだ)


DNAの発見,メンデル遺伝学,ド・フリースとモルガンの突然変異の研究,集団遺伝学の勃興と進化の現代的総合説に関する解説がつづく.このあたりから斎藤のバイアスのかかった記述が多くなってくる.
当時「突然変異説ダーウィン自然淘汰説に打撃を与えた」と考えられたのは,通常当時の誤解と説明されるところだが,斎藤は「自然淘汰の力はこの程度にとどまる」とか「突然変異説自然淘汰論にとって致命傷に近い打撃であった」と評価している.*2
また進化の現代的総合説についても,「自然淘汰がほとんど万能であると主張する」とか「進化における突然変異の重要性を過度に軽視した」と評価している.適応について深く考えたフィッシャーに対してライトが偶然の要素を重視したことは知られているが,斎藤はライトに対してもかなり手厳しい.
私の理解では,このような「極端な進化の総合説」主張者は少なくとも現在にはいないと思われるし,当時も多数派ではなかったのではないだろうか.「自然淘汰が万能である」などと字義通りに主張した人はいない*3 と思われるし,突然変異が淘汰の材料を作るという意味で極めて重要であることは集団遺伝学の基礎ではないだろうか.要するにフィッシャーたちは「表現型の進化において自然淘汰による適応こそが興味深いものであると考え,自然淘汰を重視した」という話だと思う.


ここからが中立説の説明だ.まず遺伝的多型の説明について,マラーの「多型は淘汰により極めて少ないだろう」という考え方,ドブジャンスキー*4の「超優性による平衡による多型」を重視する考え方,そしてクローと木村による無限対立遺伝子モデルを順番に説明している.
続いてDNAの二重らせん構造の決定とともに始まる分子生物学の流れが紹介されている.斎藤は分子による系統推定に簡単に触れた後に中立説の勃興前夜の状況を描いている.

中立説そのものについては歴史的な1968年の木村論文と1969年のキングとジュークスの論文を紹介している.斎藤の要約を読むと「ある対立遺伝子が適応度的に中立であれば,理論的に浮動による固定が生じる」という理論を前提の上で,実際に観察される多型のデータから見て分子進化のほとんどは中立的なものだという主張がなされていたことがわかる.この2論文の解説は非常にわかりやすい丁寧なもので本書の中で特に読むべきものと言えるだろう.(もっとも所々エキセントリックな斎藤流のコメント*5がついているので注意しなければならないが)


この後1970年代1980年代に繰り広げられた中立説を巡る論争を紹介している.これは「分子レベルにおいても中立的な進化ではなく,自然淘汰による進化が多いのではないか」という「淘汰論者」の執拗な懐疑を中立論が完璧に論破していくものである.
遺伝子による突然変異率の違い,集団内の遺伝的多様性の解析,同義置換と非同義置換の比較,偽遺伝子などの進化速度などからみた中立説の優位性が簡潔に説明されている.この論争は中立説の完勝と評価できるだろう.
またここで太田朋子の「ほぼ中立説」も紹介されている.これは中立から弱有害突然遺伝子にかけてのエレガントな理論だが,斎藤のコメントは「中立進化論の1つと考えることができる」といいつつ「個体数や淘汰係数を考慮せざるを得ず,・・・通常の中立進化論の方が多くの進化現象を把握できるのではないだろうか」とアンビバレントなものなっており,その「ちょっとでも適応度が出てくる理論はとにかく許せない」,あるいは「坊主憎けりゃ袈裟まで」という雰囲気が良く出ている.


本書はここまでは非常に簡潔でわかりやすい中立説の紹介書であるが,ここからは斎藤独自の「表現型の進化においても中立的な進化が重要である」という主張が強烈に繰り返されるものになる.
クジラ類の陸上から海への進出やヒトにおける言語能力の獲得もその多くの部分は中立的な進化であった可能性があるという主張がなされているが,分子レベルでの木村やキング,ジュークスの主張が,実際のデータに基づいた堅固なものであるのに対し,斎藤の主張は,単に「可能性がある」,「そう思われる」という推測ベースのものに止まっていて,(少なくとも私にとっては)説得力のないものになっている.


本書の最後では「偶然」「有限」「時間」というキーワードとともに斎藤の世界観が語られている.ニヒリズムに親近感を抱き,すべては偶然で「それでいいのだ」というなかなか独特なものだ.率直な語り口で素直な真情が吐露されており,ちょっと味のある締めくくりとなっている.


本書は中立理論のわかりやすい解説であり,その当事者から見た学説史として非常に価値が高いものであると思う.特に記念碑的な論文の解説の部分は読み応えがある.しかしその怨念に満ちたあまりにエキセントリックな書きぶりには毒もある.そこに十分注意しながら読むべき本だろう.


最後に私の抱いた違和感,および私見をまとめておこう.

  1. まず最大の違和感は,分子進化の中立説は現代の進化生物学の主流の理解と対立するものであるように書かれているが,そうではないということだ.確かに70年代には,「分子進化についても自然淘汰が主流である」と強硬に主張する論者が一部にいて執拗に中立説を攻撃したのだろう*6.しかし(そのような淘汰論が数々の実証データに基づき完璧に論破された結果)90年代以降中立説はしっかりメインフレームに取り込まれている.現在,集団規模が小さい場合に,適応度が1(中立)であったり.あるいは1より小さい(有害)場合であっても浮動により固定が生じうることについては誰も疑っていないだろう.極端な適応主義者と思われているドーキンスですら,「自分は木村の中立説と太田のほぼ中立説のファンだ」と公言している.論争の結果,進化の現代的総合,および集団遺伝学は,分子進化の中立説を取り込み,さらに強固なものになったと捉えるのが一般的であると思う.
  2. 70年代の「分子進化についても自然淘汰が主流である」と強硬に主張する一部の淘汰論者と,現在の「分子レベルで中立説を認め,表現型の進化においては自然淘汰が重要である」と考える一般的な進化生物学者をきちんと区別していないのは誤解の元である.前者は実際のデータに基づいた論争の結果,木っ端みじんになって消えているが,後者は現在の主流の考え方だ.後者は斎藤流の「表現型においても中立進化が主流」というまだデータの裏付けのない予想というべき主張に対立しているに過ぎない.前者が誤りであったからといって後者が誤りになるわけではない.しかしこの斎藤の書きぶりでは一般読者は誤解しかねないだろう.
  3. 「表現型においても中立進化が主流」という斎藤の主張は,おそらく「小集団における浮動による固定(この場合適応度は1より小さくても生じる)が表現型進化の主流だ」ということだと思われる.しかし本書における斎藤の書きぶりでは,適応度がちょうど1のものが進化した形質の大半だと主張しているように読まれかねない.*7 これもまた少なくとも誤解されやすい書きぶりではないだろうか.
  4. 小集団における浮動による固定が表現型進化の大半を占めるのか,自然淘汰によるものが大半を占めるのかという問題は,理論の問題というより事実の問題で,実証により決着をつけるほかないだろう.
  5. 実証前の予想ということであれば,少なくとも真に興味深い適応的な性質はノンランダムな累積的な進化によらなければ不可能であり,大半が自然淘汰によるものだというのが私の予想であるし,多くの進化生物学者もそう考えているだろう.
  6. 確かに「表現型の進化の多くが自然淘汰によるものである」という実証データはないのかもしれない.しかし逆に「表現型の進化の多くが中立進化によるものだ」という証拠もどこにも提示されていない.この意味で同義置換と非同義置換の差など豊富な実証データに基づいた木村の分子進化の中立説と斎藤の表現型進化の中立説はまったく異なるものである.
  7. (ここから先は私の想像力が欠如しているためなのかもしれないが,)クジラの海への回帰とか,ヒトの言語能力だとか,あるいはゾウの鼻やキリンの首のような形質の大部分が中立進化によって進化したという主張*8 は,私には妄想にしか聞こえない.なぜなら,「このようなデザインされたかのような合目的的な性質は(1)コストもかかり,生存競争において様々な影響があり(2)高度に複雑な形質であるだろう.であれば(1)適応度が安定的に1であることはまずあり得ず,(2)累積的で方向性のあるノンランダムな形質転換でなければ実現は難しいだろう.すなわちこのような形質の進化は自然淘汰の産物と考えるべきであり,ランダムな浮動により達成できるはずがない.せいぜい集団規模の小さい時期のごく初期の形質のホンの小さな揺らぎの説明にしか妥当しないだろう.」と考えるからだ.*9
  8. あえていえば,このような何の実証データもない主張を「中立説」の名の元に繰り広げ,進化生物学のメインストリームが間違っていると主張するのは,木村資生の中立説にとっても不幸なことのように感じられてならない.「斎藤による表現型進化の中立説」などの別の名前にし,実証データを示すまでは「仮説」であるとはっきり断るべきではないだろうか.*10
  9. 進化の歴史が偶然の結果に大きく左右されているという世界観*11 は,何も「表現型進化は中立のものが多い」ということでなければ出てこないものではない.様々な生物集団が,様々な環境に出くわすのは(生息環境の分断,大量絶滅も含めて)多くは偶然であるし,同じような環境で正の自然淘汰を受けていても,材料たる突然変異がいつどのような順番で現れるかは偶然なのだから,正の自然淘汰の元でも結果は偶然に大きく左右されるだろう.斎藤が主張しているような多くの「偶然」(大陸移動による別の生物集団への分化が良く引き合いに出される)はこれで十分説明できるものではないか.斎藤はすべての「偶然」は中立説でなければ説明できないかのように書いているが,このような意味での「偶然」は現在の主流の考え方と矛盾するものではないだろう.


関連書籍



分子進化の中立説に関する本といえばこの木村資生による2冊だ


分子進化の中立説

分子進化の中立説

この本は進化生物学の重要書籍の1つだろう.もともと英語の本を翻訳したもの.


生物進化を考える (岩波新書)

生物進化を考える (岩波新書)

これは新書だが,とんでもなく深い本だ.
この2冊とも結構歯ごたえがあるので,まず入門用として斎藤による本書は貴重だと思う.


分子進化のほぼ中立説―偶然と淘汰の進化モデル (ブルーバックス)

分子進化のほぼ中立説―偶然と淘汰の進化モデル (ブルーバックス)

太田朋子によるほぼ中立説.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090701

*1:ダーウィンが最初に自然神学からスタートしたことについて,「若き木村資生も集団遺伝学を信奉していたのと同じで責められない」とコメントがあり,いかにも斎藤らしい.

*2:現在では,突然変異の存在は自然淘汰の材料である変異を作り出すもので,むしろ自然淘汰説を補強するものだと捉えるのが普通だろう.致命傷に近い打撃という評価はやや理解しがたいものだ.当時そう考えられたということであっても,それは誤解であったと注記すべきところだろう.

*3:それこそ脊椎動物の眼の神経が網膜の内側を走っていることなどを説明できないだろう

*4:ここでドブジャンスキーの有名な言葉"Nothing in Biology Makes Sense Except in the Light of Evolution"を「進化の光を当てて始めて生物学が意味を持つ」と訳しつつ紹介し,これは煩わしいとして「すべての生物学は進化を志向する」という自らの警句を紹介している.私はドブジャンスキーの言葉の方が優雅でいいと思う.(訳も微妙だ.生物学自体が意味を持つかどうかではなく,生物学の中の様々な問題や議論の意味合いが問題にされているわけで,「生物学においては進化の光を当てなければ何事も意味をなさない.」が本意だろう)いずれにしてもいかにも斎藤らしい

*5:例えばキングとジュークスが表現型レベルでは自然淘汰が生じることを認めていることについて「当時としては仕方がない」とか「歯切れが悪い」とかコメントしている

*6:当時,ある意味イデオロギーとも見える誤った主張による執拗な攻撃を受けた中立説側に怨念が残るのはある程度理解できる

*7:もしそうだとすると,小数点以下どこまで一致すれば適応度がちょうど1になると評価して「中立」だと定義できるのかという問題もあるが,いやしくも表現型に差があっても,適応度に何の影響も与えない中立的な変異が大半だという主張は理解しにくいものだということになるだろう.

*8:斎藤は,「ヒトの言語能力はヒトにしかないものなので偶然の浮動によって進化した可能性が高い」と主張している.であればゾウの鼻やキリンの首もそうだということになるだろう.

*9:なお私も浮動による表現型形質の固定があり得ないと考えているわけではない.小集団における中立から弱有害な形質の固定は当然あり得るだろう.斎藤の指摘する例でやや面白い問題なのは,異所的種分化時の交雑回避性,交雑不稔性の問題だと思われる.送粉者に対する適応の結果のような自然淘汰の副産物としての交雑回避メカニズムもあるだろうし,浮動による不稔性の進化もあるだろう.しかしそのような浮動による固定形質の多くは単純なものに止まるだろうし,多くの生物の多くの表現型のごく一部に止まるだろう.

*10:斎藤は分子進化が中立なのだから表現型進化も中立だとまず仮定すべきで,そうでないと主張する方に挙証責任があると主張しているが,自然淘汰は表現型の差にかかるものであり,分子進化の多くは表現型に差がないから中立なのであることを考えると,これには賛成しかねる.

*11:スティーヴン・グールドの進化観は,(表現型進化の中立性を理由とするわけではないが)やはり偶然を重視し,淘汰適応主義を執拗に攻撃する点で斎藤のものに似ている.斎藤がグールドの主張をどのように評価するのかは興味深い.欧米の主流の進化生物学者からみると,斎藤の主張はグールドの亜流として受け取られるのではないだろうか