「火の賜物」

火の賜物―ヒトは料理で進化した

火の賜物―ヒトは料理で進化した


本書はリチャード・ランガムによるヒト進化における「料理」,あるいは「火の使用」の重要性を主張する一般向けの書物である.リチャード・ランガムは「Demonic Males」(邦題「男の凶暴性はどこから来たのか」)の著書で知られる進化生物学,人類学,霊長類学の研究者であり,ここ10年ほどは人類の火の使用にかかる研究を続けている.


本書のストーリーでは,人類は共通祖先からアウストラロピテクスへ,ハビリスへ,エレクトスへ,ハイデルベルゲンシスへ,サピエンスへという進化段階を経ているが,この中で特にハビリスからエレクトスの変化を最もヒト独自の特徴を身につけた時期とみて,その進化の大きな要因として料理があるのだという仮説を提示している.


まず最初に強調されるのはヒトは生食に向いていないという事実だ.私の身の回りにはあまりいないが,欧米には生食主義者なる人たちがいて,加熱した食物を不自然なものとして忌避するのだそうだ.そしてこの人たちは,苦労して生の食材を刻んだり混ぜたりして,延々と食事に時間をかけている.しかし一般的に生食主義者たちは,現代技術の力を借りてもなお栄養状態が悪い.*1 ランガムによれば,料理した食事はそもそも栄養摂取効率が高く(家畜への給餌でも加熱処理した方が成長が良くなる),さらにヒトの場合そういう食事に対して適応が生じているということになる.進化適応の根拠としては,歯の形状,小腸の割合が小さいこと,肉食適応であれば見られるはずの胃による長時間消化がないこと,チンパンジーに比べて口腔内容量が小さく,唇が弱いことなどが根拠としてあげられている.
ここでは実際にチンパンジーの果実の好みはヒトとかけ離れていることも説明されている.また料理に伴って生じるお焦げなどの化合物毒性にはヒトにおいて耐性が進化している可能性もあると指摘している.これはやや面白い指摘だろう.*2 


一旦火を手に入れた後は加熱した食品の方が消化吸収がよいことから非常に簡単に食性の変化が生じただろうとランガムは推測している.ではヒトはいつから料理するようになったのか.ランガムは直接の考古学証拠はないが,通常身体は食性に対してすぐに適応するので身体の変化から推測できるとし,ハビリスからエレクトスの移行時に料理が始まったと主張する.根拠は脳の増大と消化器系の縮小,臼歯の縮小が生じていること,樹上生活から地上生活に切り替わっていること(火の使用により地上で安全に寝られるようになった)などが上げられている.この最後の点はなかなか斬新で面白い指摘だと思う.


ここから料理がヒトの進化史に与えた影響が考察される.
まず脳の増大.通常脳の増大は社会化仮説などで説明されるところだが,ランガムにいわせるとそれは料理により消化器系が縮小できてはじめて可能になったトレードオフだということになる.(論理的には単にエネルギー獲得量を増大させて脳を増大させてもいいはずだが,証拠から見るとそういうことは生じていないということだ.それは一般的に非常に困難なことだという主張なのだろう)ここでは様々な動物が,様々な器官系にトレードオフがあることが説明され,飛行動物だと消化器系と筋肉量,霊長類では消化器系と脳が特に強いトレードオフ関係にあると説明されていて興味深い.ヒトにおいてはエレクトスへの移行時に料理によるエネルギー取得効率の向上が生じて消化器系が小さくなり脳が増大したと説明している.
なおランガムは,ハビリスへの移行においては肉食割合の増加,ハイデルベルゲンシスへの移行においてはよくわからないが狩猟効率の向上が脳の増大の要因ではないかとしている.後者にはあまり説得力はないように思う.これらの説明は,厳しい器官系同士のトレードオフ関係があるという前半の説明とも合わない気がする.
またサピエンスへの移行時については料理効率の向上があったかもしれないと示唆している.ここもネアンデルターレンシスも合わせて考えると説得力は低いだろう.


次は繁殖システム.ここは大変興味深い考察がなされている.
もしヒトが料理をせずに同じようなものを食べているとするなら一日の大半を咀嚼動作にとられているだろうとランガムは指摘している.料理はこの咀嚼活動からヒトを解放するのだ.
ランガムの描く仮説のストーリーは次のようなものだ.女性は採集してきた食物を料理する.男性はこれを強奪することにより時間を大いに節約できるのでそのような誘因を作り出す.女性がそれに対抗するには特定の男性と同盟するという方策が効果的になる.これにより料理した食物とそれの保護という交換関係から夫婦の単位が生じる.男性は料理した食物をあてにできるので狩猟活動や政治活動を行うことができるようになる.そしてそれが常態化すると,男性にとっても特定の女性と同盟することが死活的に重要になる.(女性から料理した食物が得られないと狩猟活動,政治活動ができずに地位を保てない)
ランガムはこのようなストーリーの傍証として,狩猟採集社会では料理された食物に対する厳しい礼儀作法があることを上げていて興味深い.もっともランガムはこのような制度が性行為より食料本位だとまで主張しているが,それは進化心理的に見てやや納得しがたいところだろう.


ランガムは最終章でまだ仮説にまでも達していないようないくつかのアイデアを披露している.ここはなかなか読んでいて楽しいところだ.示唆されたところをいくつか上げておこう.

  • 料理が平均寿命を伸ばしている可能性
  • 離乳食を可能にしたことによる生活史戦略への影響
  • 肥満傾向への要因は(節約遺伝子など持ち出さずとも)単に料理で説明できてしまうのではないか(もっともこれは設問が「なぜ肥満しないように適応していないのか」ということだからやや的外れな指摘にようにも思われる)
  • 様々な「料理された食物」に対する適応があるのではないか(特に発がん性物質,炎症性物質への耐性があるとするなら動物実験への示唆は大きい)
  • 火で暖をとれるようになったことで体毛をなくすことができ,このため冷却能力が上がり,長距離走ができるようになった可能性,(幼児はこれと独立に,体毛に火が移らないように毛をなくし脂肪を蓄えるようになったのではないかという示唆とセットで提示されている)
  • 火のまわりに集まって食事をすることで,コミュニケーションや感情の進化に影響を与えた可能性


全体として火と料理という切り口でヒトの進化史を鋭く再考察した書物になっている.基本的には仮説の提示という段階であり,中には賛成しがたい議論もある(エレクトスへの進化を特に重視しているのにはやや違和感が残る)が,興味深い可能性や示唆を多く含んでいることは間違いない.特に咀嚼時間からの開放,あるいは咀嚼時間を分離して取引可能にしたという視点は大変啓発的だ.一般向け科学啓蒙書として上質な仕上がりであると評価できるだろう.



関連書籍


原書

Catching Fire: How Cooking Made Us Human

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同じくランガムの本.暴力性の性差については古典ともいうべき本

男の凶暴性はどこからきたか

男の凶暴性はどこからきたか

*1:生食主義者が生食によって健康になるのはそもそも過食気味だったからで,イヌに生肉を与えると毛並みがよくなるという話にも同じことが言えるのだと皮肉っている

*2:ランガムはエピローグで現在のカロリー表を批判している.通常見かけるカロリー計算表は食物に含まれるすべての栄養をコスト無く消化吸収できるという前提で計算されているが,実はデンプンやタンパク質は加熱した方が消化吸収効率が高く(特にデンプンでは顕著)また物理的に柔らかく小さくしたものの方が消化吸収効率が高い.さらに消化にもエネルギーが必要なので実際のネット取得カロリーは,同じ材料でも料理してあるかどうかによって大きく異なるのだそうだ.カロリー計算の基礎表がそんな単純化された前提によるものだとは知らなかった.