「もっとも美しい数学 ゲーム理論」

もっとも美しい数学 ゲーム理論 (文春文庫)

もっとも美しい数学 ゲーム理論 (文春文庫)


これはアメリカのサイエンスライター,トム・ジーグフリードによるゲーム理論の歴史と展望に関する本である.原書は2006年の出版で原題は「A Beautiful Math: John Nash, Game Theory, and the Modern Quest for a Code of Nature」.訳書は2008年に単行本として出されたものが,訳にかなり手を入れたうえで2010年に文庫化されたものだ.
今更ゲーム理論のお手軽解説本でもあるまいと邦訳されたときにはスルーしていたのだが,文庫化されて平積みになっている本を手に取ってみると,ゲーム理論の解説本ではなく,ノイマンやナッシュから始まるゲーム理論を巡る科学史や最近の情勢などが書かれている本であることがわかった.中盤には進化ゲーム理論の章がありメイナード=スミスたちの名前も見える.最近プライスの伝記を読んだばかりということもあり読んでみることにした.


本書全体ではアシモフファウンデーションシリーズのハリ・セルダン心理歴史学*1狂言回しに使いつつ,「ヒトの社会を数理科学的に記述できるか」という課題に対して「ゲーム理論がそれを可能にする」というやや誇大妄想的な主張を展開している.そういう意味ではあまり厳密な科学啓蒙書ではなく,サイエンスライターの夢を語った本のような体裁だ.


最初はアダム・スミスから語られるところがちょっとした工夫だ.ここのエージェントが自分の利得を考えて行動すると社会全体で別のパターンが現れるという洞察は,ジーグフリードのテーマ「ヒトの社会を数理科学的に記述できるか」から見ると話の出発点になるということなのだろう.なおここでジーグフリードはダーウィンアダム・スミスの影響を受けたと主張している.この指摘はあまり見かけないもので,その是非とともにちょっと興味深い.続いて当然ながらフォン・ノイマンジョン・ナッシュに話は進む.ジーグフリードは,このあたりのゲーム理論のもっとも興味深いところは確率的な混合戦略が解として現れるところだと評価しているようだ.


続いてメイナード=スミスの進化ゲーム理論,そしてアクセルロッドの繰り返し囚人ジレンマゲームに話は進む.しかしこの章の記述はスロッピーで私には不満の残るものだ.
ゲーム理論が進化生物学で成功したのは,効用を戦略の頻度増加という形できちんと定義できたことによるところが大きい.その利得が次世代の戦略頻度分布を変え,さらに戦略の平均利得を変えるという構造になっているから厳密に解析可能になり,そしてそれが,頻度依存する戦略の進化の分析を可能にしたのだ.その最初の適応例であるタカハトゲームは個体が自分の利益を優先するときにタカハトの混合戦略というESS解がある(つまり常に抗争するという状況より平和的になり得る)ことを示している.
しかし囚人ジレンマの話はまったく文脈が別だ.このゲームのESSはランダム対戦の場合「常に裏切り戦略」であることがはっきりしている.繰り返しゲーム,あるいは空間構造があるゲームの問題は,対戦者同士の戦略に何らかの相関が現れたときに協力が進化しうるという問題で,基本的には包括適応度理論の問題なのだ.ジーグフリードはここが理解できていない.*2 そのためにこの部分は大変浅い記述にとどまっている.


次は経済神経学の話題.ヒトの意思決定にかかる脳の働きが一部わかってきたという部分だが,ゲーム理論との関連はあまりない話題だと言わざるを得ないだろう.
次にヒトの行動について様々なゲームをやらせてみると合理的ではないことがわかってきたという話題.これは社会心理学行動経済学まわりの部分で,おなじみのものだ.しかしこれはゲームをやっているうちにわかってきたという部分であってゲーム理論の分析が何かの洞察をもたらすわけではないように思われる.なお,ジーグフリードはここで進化心理学批判を行っているが,それは進化心理学者ではなく(誤解の上の進化心理学批判を行っている)哲学者のブラーにインタビューしただけで書かれているようで,取材不足と理解不足によるまったく誤解した議論になっている.進化心理学を遺伝的行動決定主義の議論だと誤解しているのだ.これにはまったく脱力させられる.


この後はジーグフリードの夢の部分だ.まず統計確率論の話題.ナッシュ均衡は混合戦略になり得るので確率論とは関わりがある.しかしそれ以上に何があるのか.ジーグフリードは深い関係があるとほのめかすが,それについて具体的に語るわけではない.次にネットワーク理論を紹介するが,きっとゲーム理論がかかわってくるだろうという展望だけが語られる.(わずかに分子化学ネットワークにおける活性の性質がゲーム理論によって解析可能だという話が振られるだけだ.)
次は社会物理学なる試み.ここはちょっと面白い.繰り返しゲームを行っているときに,各対戦者にどのような学習原則があるとより速くナッシュ均衡にたどり着きやすいかなどの分析が紹介されている.ヒトの経済や社会をゲーム理論で分析するなら,(利得が頻度に直結するという前提の進化ゲームと違って)利得が多いことが時系列でどういうダイナミクスを与えるのかをよく考えなければならないということだろう.しかしジーグフリードにかかるとこれが経済学が物理学化するという展望に誇張されてしまっている.
次は量子ゲーム理論ジーグフリードは,これが理論の革新かもしれないと吹いているが,私が読む限り単に戦略の幅*3が広がっているだけのように感じられる.
最後もエントロピーゲーム理論に深遠な関係があるように語られている.それはナッシュ均衡がある種のパラメータを極大化している関係でそうなっていてもおかしくはないが,どこまで深遠なのかは本書の記述ではよくわからない.
確かにゲーム理論は相手の戦略やその頻度によって自分の利得が影響を受けるような現象の分析について非常に有用な数理手法だが,それですべてが解決するわけではない.それは最初からある意味自明な話で,これは夢を紡いだストーリーだとしても,ジーグフリードの語り口は私達を驚かせてくれるほどの夢には仕上がっていないというのが私の評価だ.


というわけで,本書は壮大なテーマの割には取材不足や理解不足が見られ,ややいただけない.(特に進化生物学まわりの理解不足を読むと本書の記述全体について信頼できない思いが生じてしまうといわざるを得ない)吹いている部分はあっさり流して,話題の面白さだけつまみ食いするという読み方が適切かと思う.



関連書籍


原書

A Beautiful Math: John Nash, Game Theory, And the Modern Quest for a Code of Nature

A Beautiful Math: John Nash, Game Theory, And the Modern Quest for a Code of Nature


アシモフファウンデーションシリーズ.私が最初に読んだのは創元文庫の「銀河帝国興亡史」だった.なつかしい.この新訳がでてもう25年以上たつのか.もう一度読みたくなった.

*1:ここは往年のSFファンにとっては素通りしにくい工夫だ.私もこれに釣られた部分もある.そういえばポール・クルーグマンも最初ファウンデーションシリーズを読んでサイコヒストリーを学びたい思っていたところそのような学問はないとわかり,がっかりしつつ経済学に進んだと何かのエッセイに書いていた.

*2:この部分のインタビューはNowakにしているようだ.そのためということもあるのだろうか?

*3:要するに相手の手を条件とした戦略(例えば囚人ジレンマゲームで相手が協力なら協力,非協力なら非協力,相手も同じ条件付き戦略なら協力など)を可能にしたというだけのように思われる