The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined
- 作者: Steven Pinker
- 出版社/メーカー: Viking
- 発売日: 2011/10/04
- メディア: ハードカバー
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ピンカーによる中世ヨーロッパの残虐の記述は続く.
<迷信による殺人 その2:冒涜,異端,棄教への暴力>
ピンカーは生け贄と魔女狩り以外の迷信による殺人の大きな部分は宗教的な信念によってもたらされたと書いている.宗教的な信念は「現世での苦しみは来世で報われる」*1「信仰を受け入れなければ永遠の苦しみを課される」という構造を持つので,どんなことでも強いることが可能であり,さらに後者の脅迫により信仰を強制し,疑問を持つ人に沈黙を強いることができ,特に危険だというわけだ.
さらにこのような事情は,「信念の強さが権力や名声につながる,懐疑はそのような権力や名声への挑戦となる,」という状況を生む.特に信念なしでうまくやっていく人がいると信念を持つ方がバカに見える.しかし信念自体には事実の裏付けがないので信念の防衛は実力に頼らざるを得なくなる.
ではこのような実力による信念の防衛はどの程度の被害を与えたのだろうか?ピンカーは歴史家のルンメルの数字を引用している.
(1)十字軍
- まず1095〜1291年*2の聖地イスラエルの奪還を目指した十字軍.全体で100万人と推計されている.これは当時の世界人口4億人との比較では,ナチのジェノサイドなみだ.
- 13世紀のアルビジョワ十字軍は南フランスのキリスト教の1宗派であるカタリ派を殲滅した.推計20万人.
ピンカーは十字軍による被害全体が迷信による殺人のカテゴリーに入るような扱いにしている.確かに宗教がなければ十字軍はなかったという意味で因果関係はあるだろうが,領土や政治的な影響など別の世俗的な理由も多々あっただろう.
(2)異端審問
アルビジョワ十字軍をきっかけにカトリックでは異端審問が制度化された.特に15世紀からのスペインの異端審問はユダヤやイスラムからの改宗者を対象に苛烈を極めた.バチカンが認めた犠牲者数は2〜3千人だが,これらはヨーロッパで異端審問の後死刑にするために世俗に戻された人数に過ぎない.(拷問により死んだもの,新世界で行われたものは含まれない)スペインのみで推計35万人
(3)宗教改革
プロテスタントは異端排斥を受けた側だから加害者にはなっていないのだろうか?ピンカーはそんなことはないと指摘している
- ルター:強い調子でユダヤ人を迫害せよとアジっている.「シナゴーグや建物を燃やせ,聖典も燃やせ,ラビは殺せ,通行証を取り上げ,金貸しを禁止し,肉体労働をさせろ,追放しろ」.ルターは少なくともユダヤ人が生きることは我慢した,しかし再洗礼派に対してはそうではなかった.「殺せ」と命じている.
- カルヴァン:やはり異端に対しては厳しい.「犬に口輪をつけるのと同じで,異端者が冒涜するのを黙ってみている必要はない.」.またユニタリアン派のセルヴェを殺せと命じている.
- 英国国教会:ヘンリーの政権は年間平均3.25人を異端を理由に殺している.
(4)宗教戦争
16世紀から17世紀にかけては宗教戦争の嵐が吹き荒れた.
- ユグノー戦争 1562-94
- オランダ独立戦争 1568-1648
- 30年戦争 1618-1648
- 清教徒革命 1642-1648
- エリザベス1世のアイルランド,スコットランド,スペインとの戦争 1586-1603
- 神聖同盟戦争 1508-1516
- カール5世のメキシコ,ペルー,フランス,トルコとの戦争1521-1552
ピンカーは,もちろんこれらの戦争は領土や権力をもめぐって争われたが,しかし宗派の違いが戦う熱意を増していたのも事実だとコメントしている.
死傷率も高い.特に30年戦争の被害は甚大で,ドイツの人口は2/3に減少したといわれる.ルンメルの推計は575万人.これはヨーロッパに関していえば比率的に第二次世界大戦より高い.
そして17世紀の後半になってようやく信念の違いによって殺し合うヨーロッパ人の熱意が下がり始める.
- ウェストファリア条約(1648)は,領主の宗教の選択権と少数派が平和に暮らせる権利を定めた,(これにはイノセント教皇は不満だった)
- スペインとポルトガルの異端審問は,17世紀に下火になり始め,18世紀を通じて下がり続け,19世紀に廃止された.(それぞれ1834,1821)
- 英国では1648年の名誉革命以降制度的な殺人はしなくなった.
もちろんこれは完全になくなったわけではないが,今日の紛争は民族や政治がらみの方が多くなっている.ユダヤ人は1790年頃からフランス,アメリカでの平等な扱いが認められるようになってきた.その後100年かけてヨーロッパ中でそうなった.(ナチによる迫害は一旦平等になった後の出来事ということになる)
では何故この変化は生じたのか?ピンカーは以下のように説明している.
- 感情の変化:生け贄や魔女狩りと同じで,今までより他人の痛みや苦しみを感じられるようになったというもの
- モラルの変化:もうひとつは「魂よりも人生に価値を見出すようになった」ことだとピンカーは指摘している.魂の神聖と永遠という教義は高尚のようだが,実に有害だ.それは人生を一時的なものとして割り引いてしまう.死は単なる通過儀礼にすぎなくなるのだ.
- 懐疑主義と理性:理性により上記のモラルの変化は後押しされた.生と死は明らかだが,永遠の魂を信じさせるのは洗脳が必要だ.理性の時代は「信念には裏付けが必要だ」と主張し,魂の永遠と救済の教義,そして力によって信仰を強制しようという政策の基礎を掘り崩したのだ.
ピンカーは懐疑主義の勃興についてエピソードを1つ紹介している.
それは1553年に生じたカルヴァン派によるユニタリアン派の弾圧(特にフランスから逃れてきてカルヴァンの勢力圏内であるジュネーブに立ち寄ったミシェル・セルヴェの処刑)により触発された.この事件は宗教的迫害というアイデアに疑問を生じさせ,深く考察したセバスチャン・カスティーリオは次のように書いている.「異なる人が異なる信念を持っている.なぜ自分だけが正しいと思うのだろう?それが異端排斥と結びつくなら,すべての人は自分だけが正しいと思うから殺し合いになってしまうだろう.カルヴァンはフランスに攻め込んで殲滅戦をやるべきだったのか?」
このような懐疑主義は17世紀のスピノザ,ミルトン,ニュートン,ロックに受け継がれた.それが現代科学の始まりだ.「信念は誤りでありうるのだ.世界は神意ではなく,物理法則によって動いているのだ.」
日本では宗教的な信念が大量殺人に結びついた例はヨーロッパに比べると少ないのだろう.仏教伝来時の蘇我氏の権力をめぐる争い,戦国時代の一向一揆,織田氏による叡山焼討と石山本願寺との争い,豊臣・徳川政権によるキリシタン弾圧といったところだろうか.
それはもともと日本には一神教はなく,たった1つの信念だけが正統的で後は異端だという観念が一般的ではなかったことにあるのだろう.キリシタン弾圧はやや特殊な事例(被弾圧側は例外的な一神教,弾圧側は宗教的信念,あるいは迷信から大量殺戮を行ったというより,国法を守らないのはけしからんという感覚であったように思われるし,法自体も宗教的信念ではなく,国防・治安目的だったようだ)かもしれない.
また現世の価値が小さいという宗教にはキリシタンの他には一向宗があり,それは確かに戦国・安土桃山時代にはいくつかの悲劇に結びついた.これが日本で収まったのはどちらかといえば理性と懐疑主義のためではないだろう.それは1つには信長の勝利(信長の思想には理性と懐疑主義があるのかもしれない)があるのだろうが,最も効いたのは一向一揆の再発を恐れた徳川幕府による巧妙な骨抜き政策,特に檀家制度の創設ではないかと思う.これにより一向宗をはじめとする宗派は檀家の葬式ビジネスの独占権をもつ既得権益集団に成り下がり,宗教的な信念の擁護者ではなくなってしまったからだろう.あるいはそれは現代日本の(儀式以外の)無宗教的な文化の根源につながるのかもしれない.