Steven Pinkerによる投稿「The False Allure of Group Selection」へのコメントにかかるPinkerの回答

 
さてエッジに載せられたピンカーのエッセイには多くのコメントが寄せられたわけだが,ピンカーはこれらにまとめて回答している.それも見ておこう.


スティーヴン・ピンカー リプライ


まず冒頭でピンカーは強烈なパンチをかましている.

  • コメンテイターたちのうちグループ淘汰理論擁護者によると「何故ヒトに道徳,共感,文化,言語,社会規範,さらには乳糖耐性や高地への生理的順応などの地域独自の適応があるかについては,グループ間競争が唯一の説明だ」ということになる.しかしグループ淘汰理論は遺伝子視点の進化理論,あるいは包括適応度理論と数理的に等価であり,両者は同一の予測を行い,実証的には区別できないはずだ.

まさにここがグループ淘汰擁護者たちの妙なところなのだ.等価性を認めるなら後はどちらがより有用で生産的かというだけの問題のはずだ.少なくともD. S. Wilsonは「唯一の正しい」説明である理由について(筋悪にも)「因果の実在性」を持ち出すということになるのだろうが,それ以外の支持者たちは一体どういうつもりなのだろうか.ピンカーはこう続けている.

  • これこそが私のエッセーの趣旨「グループ淘汰という概念は進化理論をヒトに適用しようとして混乱をもたらしている」を確証してくれている.
  • 彼等はヒトの善なる性質を部族間競争に結びつけようとしているとしているのだ.まるで「私達が哀れな子犬に同情を感じる唯一の理由は,それが川向こうの部族を全滅させるのに役立ったからだ」とでもいうように.グループ淘汰という概念は彼等が代替説明を考察することを妨害しているのだ.その概念は,擁護者に片方で両理論は等価と主張させ,片方でグループ淘汰理論でなければ実証できない問題があるといわせるのだ.
  • グループ淘汰という概念は科学的には絡み合ったゴミになってしまった.それはグループに何か関連し,淘汰に何か関連するものに全て絡みつく.制限的でまともな「グループ淘汰理論」の外側に雑多なクズ理論が膨大にふくれあがっているのだ.
  • それは片方で,遺伝子と個体とグループが全く等格の淘汰レベルだとして進化理論をぼやけさせる.トゥービィやドーキンスが指摘してくれているように実際の自然淘汰はそのようには働かないのだ.
  • さらに最も重要なこととして,それは多くの人々を単純に「道徳と文化はグループ淘汰によるものだ」という方向に誘惑し,理論的により深く,実証的により現実的な代替説明から目くらまししているのだ.
  • 公平にいえば,幾人かのコメンテイター(ウィルソン,ギンタス,リチャーソン,ケラーなど)は絡み合ったゴミの中のまともなハードカーネルを抽出している.
  • 私のエッセイがそれらをほんの少ししか取り扱っていないという彼等の言い分は正しい.このようなモデルについて有用でないと考える理由は後で述べよう.
  • その前にゴミを選り分けるための単純な方法を提案したい.社会生活,規範,文化,利他性・・・・の進化の緩いメタファーとしての「グループ淘汰」という用語を使うことをやめてはどうか.

きちんとした新しいグループ淘汰理論の実務的な問題点を論じる前にもう一度,「グループ淘汰という用語を用いる多くの主張はゴミだ」と元のエッセイの主張を明確にしているということだろう.さてこの後ピンカーは順番に議論する.


<グループ淘汰理論は道徳や社会性や文化を説明するために必要か>


ピンカーは,まずグループ淘汰支持者たちのコメントの中で「グループ淘汰理論の正しさを証明する事実」として主張されていることを次の3点に要約している

  1. 人々はサイコパスではなく,利益を分け合い,助け合い,投票に出かける.(リチャーソン,ギンタスなど)
  2. 人々は文化に属し,文化ごとに知識や技術や規範や慣習が異なっている(リチャーソンなど)
  3. 人々は部族,チーム,国家などのグループへの忠誠心を持つ.(リチャーソンなど)


ここはリチャーソンやギンタスのコメントを読んだときに特にがっかりさせられたところだ.ピンカーは厳しく反論する.

  • 彼等の私への批判の多くは「私がこれらの事実を否定している」という誤解に基づいている.
  • 私が指摘しているのはそれらの事実の否定ではなく,それらの事実には別の説明が可能だということだ.上記の傾向はグループの中の「個人」を有利にするとして様々な形で説明可能だ.(ここで最近のお気に入りの説として,認知的ニッチ,道具作り,互恵利他を組み合わせた文化・言語・社会知性・感情の起源の説明が概説される.これらのどこにもグループのための個人のコストは不要だと最後に強調されている)
  • 遺伝子視点の進化理論と名声やコミットメントを含む互恵的利他メカニズムを用いることで,ヒトの社会やモラルについて心理的にリアリスティックな説明ができる.社会生活には交易の機会があり,誰と取引するかには個人の認識,名声が関わる.個人の認識,記憶,同情,感謝,騙されることへの怒り,信頼,ゴシップへの好み,自己の名声への関心はこのような理論で自然に説明できるのだ.
  • ギンタスによる遺伝子視点の進化理論の説明はめちゃくちゃに歪んでいる.彼はそれを個人が極端に利己的であることを予測すると誤解している.(これはよくある誤解で,ネッシー,コイン,トゥービィも指摘してくれている)そもそもドーキンスの本は利他行為の進化の説明の本だし,トリヴァースの互恵利他(そして取引相手に選んでもらうために,本当に親切になることを含めた宣伝を行う)の議論もそうだ.ネッシーは名声を大切にするビジネスのアナロジーをあげ,「エージェントが『真に』利他的か,それとも個体の利益があるから進化的にそうなったのか」を問題にするのは最悪の哲学的議論であることを示している.もちろん相手方からのアセスメントは完全ではあり得ないので,人々は常に短期的利益との妥協に誘惑される.そして事実ヒトは完全にモラル的ではないのだ.


確かにギンタスの誤解は唖然とするほど初歩的だ.彼は進化理論が全くわかっていないのだろう.(なおここでピンカーはヘンリッチからのピント外れのコメントにも猛然と反論している.)


<グループ淘汰のフォーマルなモデルはヒトの利他性を説明するか?>


ピンカーは冒頭で「では『道徳/社会性/文化/グループ淘汰』のゴミクズの話から,ケラーやウィルソンたちがコメントしているフォーマルなグループ淘汰モデルの話に移ろう」と述べて,いわゆる『新しいグループ淘汰モデル』の話に進む.

  • ウィルソンたちは「グループ淘汰批判者は数理的にナイーブであり,社会進化を定式化すれば必然的に『グループ淘汰が重要な進化的な力である』という結論にいたる」と主張する.
  • しかし数理モデルが成り立つことと,そのモデルで使われた前提がまともなものであることは別の話だ.モデルは現実的で予測を産むものかどうかが重要なのだ.

ここはピンカーが最も主張したいことのようだ.この「前提の誤り」については後で詳しく述べられる.いずれにしてもここでジョークが引かれていて面白い「乳業生産高を増強させるための助言を求められた理論物理学者はこういった『まずここに球形の乳牛があるとしよう』」


続いてもし用語法がまともであるなら,グループ淘汰主義者が一生懸命否定するような理論のみ「グループ淘汰」と呼べばよかったというコメントが続く.

  • 最も明白な定式化は,グループそれ自体が複製子だとするものだ.これは完全に一貫したモデルになるだろう.
  • リチャーソンやギンタスはこの形のグループ淘汰と自分たちの考えは別のものだと強調しようとし,特にウィルソンは今やグループ淘汰をそのように考えるのは間違いだと強く主張する.
  • しかしこれらの試みには問題が多い.まずそのような意味で『グループ淘汰』を使う生物学者がいないわけではない(ピンカーはバートン・サイモンの名を上げている).次にウィルソンが埋め込もうとしている意味は,まさに自然淘汰理論が説明力をフルに発揮できるときのそれであるからだ.この意味のみに「グループ淘汰」という用語が使われるなら混乱ははるかに少なかっただろう.


さて,このジャブのあとが本丸だ.

  • 「新しいグループ淘汰」理論は,ケラーやグループ淘汰主義者たちによると遺伝子視点の進化理論や包括適応度理論と同じものであり,数理的に等価な別の「言語」だということになる.だとすると最初に述べたように,彼等の「グループ淘汰理論は道徳や優しさを説明できる唯一の理論だ」という主張はなり立たないはずだ.
  • とりあえず(譲歩して)それは「特定の現象にスポットライトを当て,見やすくし,実務的に有用なのだ」という主張だとしよう.
  • ほとんどの新しいグループ淘汰理論のモデルは,グループを(集団全体のランダムな相互作用より緊密に)相互作用する個体のサブセットと定義する.例えば,二人の姉妹,互いに助け合う友人たちなどだ.しかし彼等が何故助け合うかについて包括適応度理論で理解することは極めて容易だ.要するにサブセットを結びつけるものが血縁であれば血縁淘汰で理解でき,取引であれば互恵的利他で理解できる.
  • もし2つの理論が本当に等価なら,そしてグループ淘汰理論のアドバンテージがあるとするなら,それはモデルの簡潔さ,美しさ,透明性,理解しやすさなどにあるはずだ.しかし「グループ」という言葉を普通の意味から拡張までして試みているにもかかわらず,それこそが彼等の失敗していることだ.
  • 数理的には「グループ」はどのようなサブセットに対しても使用できる.しかし彼等が実際にサブセットとしているのは「二人の兄弟」「見知らぬ人に対してドアを開けておいてあげる人」「ウエイトレスと客」「結婚したカップル」「ストリートギャング」「伝統的部族」「国家」「構成員の心理的多様性を隠した帝国」などだ.
  • 要するに,「グループ」を一体化させようとする心理的な力(血縁,互恵)を隠したまま方程式からそれを見極めようとするのは,社会を分析する方法として明晰にはなり得ないのだ.
  • 遺伝子視点の淘汰理論においては,モデルの理論的構造は見事に心理的な重要性(血縁者への感受性,個人の識別,道徳感情)を描き出すし,それらの心理的な違いを個別の異なるモデルとして表現できる.
  • ここで「新しいグループ淘汰理論」がヒトの問題を扱おうとするときに用いる変数の取り扱われ方を見てみよう.
  • ひとたび「グループ」がある人々のサブセットとして定義されると,個人個人の適応度は2つの統計的なコンポーネントに分けられる.その個人のグループの仲間との対比での適応度成分とその個人が属するグループの他のグループ対比での適応度成分だ.
  • これは「自分に利する方法のうちの1つは自分の属するグループを利することだ」ということを表現する別の数学的に自明な方法でもありうるのだ.このようなことの例はたくさんある.(温まるために抱き合う,捕食者へのモビング,より高い利回りの投資のために資金をプールすることなどだ)
  • このような場合,利益は,グループ全体(これにはその行為者個人が享受するものが含まれる)が享受する利益と,その個人のみにかかる利益とコストという具合に分けることができる.
  • そしてグループ淘汰主義者たちは「この定式化こそが利他主義の進化を説明するものだ,なぜならこの定式化は,行為者個人が,グループの仲間より利益が少ない場合を含むからだ.そしてペイオフはグループを通じてもたらされ,個人のコストを上回る」と主張する.
  • グラフェン,ウェスト,グリフィン,ガードナーたち数理生物学者はこの定式化を,それはこの場合引き続き個体は彼等の遺伝子適応度を最大化させているということをぼやかせるものだと批判する.:「基本的なポイントは,遺伝子の頻度上昇は『全繁殖集団の他個体との相対的適応度』で決まるということであり,『たまたま相互作用をする個体との相対的適応度』ではないということだ.自然淘汰はその遺伝子の『全繁殖プール内での頻度上昇』を起こさせる遺伝子を選択するのだ.」
  • 彼等の一般の人々の混乱に対する懸念にはもっともな根拠がある.一部のグループ淘汰主義者は実際に「これらのモデルが(戦闘における自発的な自殺攻撃などの)行為者個体の全体的適応度が下がるようなグループを利する行為を説明できる」とほのめかしているのだ.(ハイトやE. O. Wisonがヒトを社会性昆虫を同じに見ようとしているのを思い出そう.ワーカーがコロニーのために犠牲になるのは社会性昆虫の繁殖システムでのみ説明可能になるのであり,ヒトのそのような殉教者は繁殖システムでは説明できないのにもかかわらず,彼等は一般的なグループ淘汰で説明可能なのようにほのめかすのだ)
  • では「コストのかかる自己犠牲とグループに広がるメリットにより行為者がネットで利益になること」という適応度成分の切り分けができる事例が実際にあるのだろうか?
  • グループ淘汰主義者が挙げる例は以下のようなものだ.

<ヒトの進化的過去における同盟者間の闘争(特に致死的な戦闘)>

  • 戦闘の結果はメンバーの大半に及ぶ(全員死亡したり全員がリソースを獲得する),これらはグループ内のメンバーの適応度の分散を下げ,グループ間の適応度の分散を大きくする.
  • またグループ間闘争の結果はメンバーの自己犠牲(突撃で先頭に立つ,仲間を守る,物資を分ける,メンバー間のケンカで譲歩する,臆病者への罰を与えるなど)の度合いに大きく左右される.確かに行為者の適応度は利己的メンバーより低いが,戦闘が頻繁で結果が決定的であればそれを上回る利益を得られる.
  • このようにしてヒトの同盟者に対する自己犠牲は進化したのだ.これによりヒトの優しさ,共感,分配,勇気,市民的心は説明できる.
  • というわけで私達は「何故世界はアーミッシュやクンサン族により分割されているのか,そして何故利己的なハーレムを持つ専制君主,残酷な領主,徴兵制による軍隊,奴隷制を持つ国家が歴史上これほどまれで成功しなかったか」という説明を持っていることになる.さらにこの説明は「何故戦士社会は慈悲,弱いものへの同情,男女の平等にあふれているか,何故ファシズムにおいては共感と優しさが満ちあふれるか」も説明してくれる.
  • 問題は理論が数学的に健全でも,その前提が「球形の乳牛」だというところにある.
  • 現実の世界では戦闘の帰趨はグループ内での共感や優しさでは決まらないのだ.それはイデオロギー,技術,軍事的戦略,残酷な規律による組織化された軍隊により決まるのだ.
  • そして現実の世界における優しさはグループ間競争での優位さを与えはしない.特に弱者への同情は戦闘時においては不利に働くだろう.
  • あるいはグループ淘汰主義者は,優しさは生物学的なグループ淘汰ではなく文化進化によるのだと言い張るかもしれない.では次にそれを見ていこう


ここは論争の天王山だ.ピンカーの舌鋒はまことに鋭い.そもそも等価な理論なのにそれでしか説明できないことがあると主張する自己矛盾的な(あるいは物事がわかっていない)論者をこき下ろし,仮に有用性で話をするにしても,それこそグループ淘汰主義者の失敗していることだと手厳しい.
ヒトの利己性に関していえばピンカーの指摘はまことに正鵠を射ているだろう.なお生物進化全体を見たときにはなおグループ淘汰のフレームの方が有用な例があるかどうかについてピンカーはここでは論じていない.ウェストたちは基本的にこれまではなかったという立場のようだし,ケラーは一部の問題についてはあり得ると言っているようだ.このあたりはケラーの言う通りドグマティックになるべきではないが,実際には極めて少ないということなのだろう.
次のピンカーの指摘は,個体の利点の観点から容易に理解説明できることをあえてグループ淘汰のフレームに持ち込んでいる人たちについてのものだ.彼等がこれを「グループ淘汰でしか説明できない利他性」だと思い込むのは,集団遺伝学の基礎がわかっていないからだと手厳しい.
最後の「理論が健全でも前提がおかしい例」の指摘もまことに手厳しい.確かに彼等の言う通りであればファシズムこそ至高の善に満ちあふれているはずだということになるだろう.


<文化グループ淘汰は伝統的な歴史記述に何か付け加えることができるか?>


ピンカーの文化進化に対する批判的なコメントは最も反論を呼んだ部分だ.ピンカーは再反論している.

  • リチャーソンたちは「文化の変化が自然淘汰のアナロジーで説明できる」という主張に対する私の懐疑論に不満なようだ.
  • 彼等は,この懐疑と,文化が効率的に機能することの否定とを混同している.文化が適応的に変化することと,それを説明するのに自然淘汰のアナロジーが適切かどうかということとは別の問題だ.
  • 私は彼等の文化進化のモデルが数学的におかしいといっているわけではない.文化の変化を説明するのに自然淘汰はいいモデルではないといっているのだ.デネットはうまくここを表現してくれた.「複製効率の差異を含まない現象をグループ『淘汰』と呼ぶのは不要にミスリーディングなように思える」
  • もうひとつのポイントは「ヒトの文化的なイノベーションは,ランダムな突然変異や組み替えと性質が異なる」ということだ.この点はデネットの好きなミーム進化理論にも当てはまる.これが程度の差であることは認める.確かに「自然淘汰」はランダムな変異を要求しない.そして通常一人の発明家のアイデアが実際に有用なものになるには,多くの発明家たちのアイデアと組み合わせて修正されていく必要があるだろう.
  • しかしこの量的な差は大きい.遺伝子は厳密にタイポグラフィカルにランダムに変異する.兆単位のシナプスによるアイデアの変異とは大きく異なるのだ.
  • この生物進化の適応産物である脳の働きをランダムな変異と同じように扱うのはスキナーの空虚な動物観に戻るようなものだ.
  • 文化進化においてこのような自然淘汰のアナロジー(ミーム進化的な説明)が全く何も付け加えないとまではいわないが,ほとんどの変化は脳の働きに帰するものになるだろう.
  • 実際に文化変化を説明することについては私にも経験がある.それは言語の変化と歴史的な暴力の減少だ.
  • ヒトにかかる現象について進化的な説明を行いたいと思うことでは私も人後には落ちない自負があるし,実際に使ってきた.しかしグループ淘汰もミーム進化もうまくいかないのだ.そして進化心理学でさえ,それほど多くのことを説明できるわけではない.
  • それはヒトの文化の変化が「アイデア」に動かされているものだからだ.
  • 言語の場合,人々は語彙的文法的な分析によって他人の発話を理解する.暴力の場合,人々は集合的暴力をイデオロギーによって正当化するのだ.
  • もしこれらの「アイデア」を,異なる拡散率で広がる単なるトークンだと扱い,その「アイデア」の内容が人々の信念や望みにどのような影響を与えるのかを考察しないならば,文化変化については全く不十分な理解にしか達しないだろう.
  • ヒトの脳はアイデアを作り出すように進化し,人類はその能力を生かすニッチを占めていることを思い出せば,これらは神秘主義でも反科学主義でもないことがよくわかるだろう.


まず最初にグズグズの議論を切って捨てる.そもそもリチャーソンたちの反論はポイントがずれているし,複製効率の概念のないアナロジーはどこまでもグズグズにすぎないというわけだ.
次のデネットの議論に対してはミーム進化の説明が適切である事例がないとはいわないがそれは少ないだろうと反論する.そして最後に自らの経験を元に説得的に根拠づけている.ミーム進化については私も面白い可能性があるとは思っているのだが,実際にいいフィールドリサーチはない.その理由の一端をピンカーが見事に説明してくれているような気もする.


ピンカーの最初のエッセイ,そしてこのリプライ全体を読んでみると,見事に計算された戦略が浮かび上がる.最初のエッセイにおいては理論の等価性には明示的に触れずに,実際のグループ淘汰主義者の主張がグズグズだという点のみ強調する.
すると進化理論がよく理解できていない「グループ淘汰主義者」たちが誘蛾灯に集まる蛾のように集まって,本当にグズグズの批判を繰り広げてくれる.論争慣れしているD. S. ウィルソン以外は本当に論旨がスロッピーで,ピンカーの批判の絵に描いたような実例になってしまっている.この批判されていること自体が理解できていないというところが彼等の甘さをさらに際立たせている.
そして思いっきり引きつけておいてのスマッシュヒットが見事に炸裂している.何故彼等は理論の等価性を主張しつつ,有用性の主張に止めずに,グループ淘汰でしか説明できない現象があるなどと言ってしまうのだろうか?
有用性に関してもD. S. ウィルソンがいくら一人で力説しても(少なくともヒトの利他性の説明については)グループ淘汰モデルはよりわかりにくい有用性に劣る方法でしかないのだ.


私としてはこの一連の論争は,内容的にはウェストたちとD. S. Wilsonの論争の再現でしかないが,特にヒトの利他性の説明においてグループ淘汰主義者陣営にグズグズの論客が集まっていることを認識させてくれるものとなった.同時にピンカーによる論争の華麗な技を堪能できる大変面白い出来事であったように思う.


<完>