Nowak et al.のNature論文への批判論文 「Much ado about nothing」 その2 


前回見たように,RoussetたちはまずNowakたちの論文における「包括適応度理論への批判」が,議論され尽くした古い問題を蒸し返していること,そして包括適応度理論の限界について誤解していることを痛烈に批判した.続いてNowakたちが代替理論として提唱する「より簡単でより優れたアプローチ」「標準自然淘汰理論」を吟味する.


Rousset F. & Lion S. (2011) Much ado about nothing: Nowak et al.'s charge against inclusive fitness theory. Journal of Evolutionary Biology. 24 1386-1392.


<優れた分析か,ブラックボックスか>


RoussetたちはNowakたちがAppendix Aで得意そうに提示する定理を俎上にあげる.彼等の定理1は次のようなものだ.

定理1:仮定1(すべての時系列ステージで集団の合計繁殖数は一定)を満たすすべてのプロセスに置いて,どのような淘汰圧のもとでも,どのような突然変異率のもとでも,以下の条件で,そして以下の条件のもとでのみ,戦略Aは戦略Bより選択される.

そしてRoussetたちは「それには何ら新奇性は無く既に別の論文で議論のスタートポイントとして提示されている」という衝撃的な告発を行う.

  • 彼等がAppendix Aに掲げる定理1を見てみよう.彼等はこれがメインの結果の1つとしているが,これは昔からある変異淘汰バランスを示すアイデアに過ぎない.そしてゲーム理論やアダプティブダイナミクスに関する多くの仕事の成果は何一つ取り入れられてはいない.それはRoussetやテイラーの仕事のスターティングポイントに過ぎない.
  • 彼等の定理1に使われる数式はTaylor et al., 2007の数式3.2と同じだ.正確にいうとテイラーたちはそれをモラン過程から導いていて,Nowakたちはそれをより広い統計的過程から導いている.しかしこれはわかりきった一般化に過ぎない.さらにテイラーたちはこれを新しい結果とはせずに,プライスの1970年の論文に帰している.
  • だからNowakたちの結果は新しくないし,それは彼等が主張するほど有用でもない.なぜならこれは数値計算でしか進化条件を求められない.だから生物学的洞察をもたらさないし,潜在的な誤解のもとになるだけだ.


さらにRoussetたちはこの定理は単に新奇性が無いだけでなく,彼等が主張する「一般性」もないと批判している.

  • 彼等はこの定理は一般的なもので特定の仮定や条件によらないと主張している.しかし実際にはこの定理は「繁殖がクローン的で集団規模が一定」という前提条件の上に成り立っている.この定式化のままでは重要な生態のリアリズム(集団の変化,相互作用)を取り入れられていないのだ.
  • もちろんNowakたちの定理1は簡単に前提条件を広げて一般化できる.しかしその結果はNowakたちが主張するような「単純で優越的」なものではない.

また「拡張された包括適応度理論」が,Nowakたちの「標準自然淘汰理論」よりいかに有用かについてもかなり具体的に説明がある.

  • これに対してクラス構造を持つ包括適応度理論は多様なデモグラフィーや疫学的な変動を取り入れることができる.(Ronce et al., 2000; Rousset & Ronce, 2004; Lehmann et al., 2006; Alizon & Taylor, 2008: Wild et al., 2009) これらの解析結果は常に単純なものになるとは限らない.しかしこれらの問題は包括適応度理論を用いて解析できるのだ.そしてNowakたちの理論ではこれらの問題に対して単に数値計算やシミュレーションしかできない.
  • 異なるテクニックを用いて代替的解析結果を得ることは,非飽和的な環境における協力行動の進化(van Baalen & Rand, 1998; Lion & Gandon, 2010) ,ホストとパラサイトの相互作用 (Lion & Boots, 2010)などの問題の解決に新たな光を与えることにも役に立つ.これらのアプローチは,有用な包括適応度的解釈を与えてくれる.つまり他の手法を使っているときにも.手元の結果と既往の理論(包括適応度理論の概念的枠組み)のリンクを理解することは,リサーチを先に進めることや,得られた結果が既にある一般的結果の特殊例でないことを確認するのに有用なのだ.そしてNowakたちの結果はまさに既にある一般的結果の特殊例を見つけたに過ぎない.

2番目のポイントはわかりにくい表現だが,要するにある問題についてある方法で数理的に解いた後でも,さらに包括適応度理論を当てはめてみることでより理解が深まることがあるということだろう.これは包括適応度理論が解析的でより一般的なフレームを持っているから可能になるのだ.Nowakたちの方法ではシミュレーションをひたすら行って「なぜかこうなりました」と示すことしかできない.


Roussetたちは続いてNowakたちの「包括適応度理論は実証的データ分析に向かないが,私達の代替式はそれを解決できる」という主張を吟味する.

  • Nowakたちは,データ分析的な視点からいって包括適応度理論は実証的なデータを評価するには向かないと主張する.そしてAppendix A7で数式15がこれに対する常識的な解決だと主張する.しかしこの代替式は,例えばある対立遺伝子を持つ個体がすべて同じ行為表現型を持つとは限らないような実際の集団には適用不可能だ.そしてこのような集団には包括適応度の方が適用が容易だ.例えば (Grafen, 1984)の巣にいるヘルパーの場合,血縁度がヘルプ行為をする確率に影響するとモデリングできる.
  • より基礎的にいうと包括適応度理論はすべての要因の評価が容易でなくとも適用できる.それは重力理論と同じことだ.理論は,あるキーになる要因の数値を仮定してそれを検証することを可能にするのだ.包括適応度理論を用いた検証は,しばしば比較法により幅広い生態的条件や行動を対象にしている.
  • というわけでNowakたちのデータ評価視点からの批判は,誤りであるか,問題に内在する難しさの指摘であり,後者だとしても彼等は何の解決策も提示していない.

なおここで登場する数式15とは以下の形をしている.この式は彼等の言う「標準自然淘汰理論」の「弱い淘汰条件における進化条件式」ということになる.一目見るだけでハミルトン則の優美な形に比べて適用しにくそうなことがわかる.


次はNowakたちのもうひとつの奇妙な主張「包括適応度理論家はもはや血縁度と言えないものにまで血縁度概念を拡張して数理的につじつまをあわそうとしている」についてのRoussetたちの反論だ.

  • Nowakたちはまた,包括適応度理論は,実験生物学者が「血縁度」とは呼べないものまで血縁度の定義を広げていると批判する.理論的な仕事は時に抽象的な血縁度概念を用いる.例えばステッピングストーンモデル(e.g. Taylor et al., 2007)などではそうだ.しかしこの場合でも数理モデルを吟味すれば理解できるし,それを遺伝マーカーから計量することもできる.

私もNowakたちのこの主張を最初に読んだときにはよく理解できなかったものだ.ある概念をより一般的に拡張して美しい理論を広げること(そしてその概念の名前を引き続き使うこと)の何がそんなに気に入らないのだろうか.なお日本語では訳語が「血縁度」になっているので原語の「relatedness」よりさらに狭そうになっているという問題がある.それでも拡張概念を理解することは容易だ.


そして次はいかにも姑息なNowakたちの論文のやり口への批判だ.

  • そして彼等がAppendix Aで,一般理論だとして提示した理論が,Appendix Cにおいて真社会性の進化をモデリングする際に全く使われていないというのは衝撃的だ.
  • 彼等のモデルからの7つの結論は,包括適応度理論には全く言及していないものだ.例えば,彼等の主張する「女王とワーカーは標準的な協力ジレンマ状態にはない」「ペイオフマトリクスはない」という主張は.包括適応度理論の妥当性とは何の関連もない.彼等の「血縁度は真社会性の進化をドライブしない」という主張は,単に彼等のモデルにある前提「血縁度のパラメーターをすべてのモデルにおいて同じにしている」ことにより「真社会性が進化するかどうかの差はデモグラフィックパラメータの差に依存する」という結果が生じているという事実に由来するに過ぎない.
  • そもそも彼等はモデル間で血縁度を変えていないのだ.だから「血縁度が同じであれば」,真社会性の進化はb, cに由来することを示しているに過ぎない.(これはまさに包括適応度理論が予想する結果そのものだ)
  • そしてNowakたちは生態条件と進化の間の相互作用についてどうアプローチすればいいかについて何も示せてはない.そして誤解の源を残しているだけだ.

これは私が最初にNowakたちの論文のパートCを読んだときに特に開いた口がふさがらなかったところだ*1.彼等は協力の利益について全く非現実的な仮定をおき,その上で血縁度の重要性について何ら分析せずに,分散のパラメータだけ議論しているのだ.特にモデルを2つ立ててクローンの場合と半倍数体の場合を議論しているのに,さらに倍数体でモデルを組んで,半倍数体の場合との進化条件を比べていないのには全く唖然とさせられた.3/4仮説が,そして包括適応度理論が成り立たないというならまず最初に検討すべき問題のはずだ.
これまでの私が読んだNowakたちの論文への批判ではこのあまりに姑息で牽強付会的な態度について取り上げているものは無かったこともあり,これを読んだときにはまさに溜飲が下がる思いがしたところだ.


Roussetたちは最後にこう言ってこの項を締めている.

私達は「解析的モデル」を「数値計算モデル」に置きかえることは,理論的後退だと考える.それは包括適応度理論と進化ゲーム理論がそれに対抗するために長い間苦労してきた「バーバルな議論」に戻ることを意味するからだ.


<社会進化のレトリック>

RoussetたちはNowakたちの論文が科学的価値がないことを指摘した.最後は,何故こんな論文がNatureに載り,広いマスメディアのカバーを得ることができたのかという問題を議論する.Roussetたちの議論は,論文に科学的論文にあるまじきレトリックがちりばめられていること,高名な科学ジャーナルの編集実務に問題があることを取り上げる.


まずはこの論文の形式とレトリックだ.

  • まず間違いなく,この論文のインパクトは,論文の科学的価値や新奇性よりも著者たちのレトリカルな能力によっている.
  • 論文のフォーマット自体が科学的コミュニケーションの障害になっている.この論文は,短いイラスト付きのエッセイと43ページにも及ぶAppendixに別れている.あまり数理的な問題に慣れていない読者や時間が無い読者はエッセイだけしか読まないだろう.そして単純にAppendixの量と著者を信用する.しかし実際にはこの論文には何ら新奇性はない.そしてそれを最もよく示しているのは,この論文の主要な結論はTaylor et al. (2007)の出発点に過ぎなく,しかもNowakたちはこれを引用すらしていないというところだ.
  • そのスタイルにおいても,この論文は科学的散文の中立性を逸脱している.まるで政治家や論争家のようなレトリックにあふれているのだ.彼等は包括適応度理論を天動説に例えて見せたり,何ら正当性の根拠無く自分たちの理論が「常識」的だと断言する.
  • 特に包括適応度をけなすのに,天動説と周転円を用いるのは問題だ.実際,「ダーウィンの周転円」というのは進化生物学を攻撃するときによく用いられる言葉だ.
  • レトリックをおいておくとしても,Nowakたちは周転円について間違っている.周転円は天動説にだけあるものではない.それはコペルニクスの地動説にも必要なものだ.なぜならコペルニクスは惑星軌道について真円を仮定していたからだ.だからケプラーによって楕円軌道が明らかにされるまで地動説にも周転円は必要だった.ポアンカレが強調するように,天動説と地動説は,天体の見え方の説明としては論理的には等価なのだ.地動説の価値は,天動説では偶然の一致に見える多くの現象を地球の自転という単一要因で説明できるところにある.そしてハミルトン則はまさにこのような価値を持つ.

私には論文のレトリックの問題はあまりぴんとこなかったところだが,そういう視点で読むと非常にいやらしい文章なのだろう.「周転円」のくだりにもRoussetたちの憤りがうかがえてちょっと面白い*2.私は「スパンドレル」についてグールドとレウォンティンが建築史的に間違っていると指摘したデネットの文章を思い出してしまった.


<科学論文の掲載の脆弱性>

Roussetたちは最後に科学ジャーナルへの掲載実務を問題にする.

  • 私達は,このような脆弱な基礎の上にある論文の大きな影響は,著名な科学ジャーナルの編集プロセスの効率性を疑わせるものだと考える.
  • Natureはこの論文を「包括適応度への初めての数学的分析」だと特徴付けた.これは50年間にわかる蓄積された知見を重過失をもってあるいは無謀に無視するものだ.
  • 科学は自己訂正過程を持つとよくいわれる.しかしこれは著者たちの執筆内容が,そして査読者の査読内容が妥当性を持ち,そして編集者がメディアの騒ぎや引用数ではなく科学的価値を重んじてこそ成立するものだ.これらの条件は必ずしも満たされてはいない.
  • 問題の一部は科学の専門性が増大し,科学者が扱えるようになるべき手法が膨大になっていることにもあるだろう.例えばアリの社会性を学ぶ学生はフィールドで長時間の努力が必要で,かつ遺伝的マーカーに関する分子的知識を持ち,多くの統計手法,進化理論を理解し,膨大な文献に当たらなければならない.それらの負担により,学生,そして編集者は,クリティカルシンキングを著者の名声などの社会的考慮と引き替えにしてしまう.特に「熱い論争」の期待は編集委員会を魅惑するに十分だったりする.

このあたりについては「Natureの査読者と編集者はウィルソンの高名に影響されたのだろう」ぐらいの批判はよく見かけたが,ここまで徹底して批判しているのは珍しい.私の感想は,編集者の「取り上げたい」という動機の問題もあるだろうが,一義的には査読者の問題で,この隠れた動機に影響されて非適格な査読者を選んだのかどうかあたりが真の問題かもしれないというところだ.


Roussetたちの最後の文章はこうなっている.

彼等の主張,そしてメディアの騒ぎに反してNowakたちの論文は,実際には古くさい決着の付いた論争の蒸し返しに過ぎなく,概念的技術的な後退を表している.重要なのは,それは将来的な社会進化や集団構造に関する多くの興味深い生物学的問題にアドレスするための理論的ツール,概念を何らもたらしていないということだ.


全体としてはなかなか迫力のある批判論文だ.特にAppendixの数理的な部分についてもきちんと批判しているところは迫力十分だ.Nowakたちが「標準自然淘汰理論」として得意そうに提示している定理式が既に他の論文でスタートポイントとされているような式だとは知らなかったので今更ながらに彼等の筋悪さに驚いたし,また包括適応度への攻撃に対する批判部分は読みながら何度も何度も「そうだ,その通り」と溜飲が下がる思いだった.また弱い淘汰条件に関する包括適応度理論のあり方や,非相加的状況への拡張についてのコメントも大変参考になった.とはいえNowakたちはなお意気軒昂のようだから,今後もバーバルな論争は延々と続いていくのだろう.残念なことの成り行きだと言えるだろう.



<完>

*1:このあたりの私の感想についてはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110306http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110309あたりを参照.

*2:とはいえ,Nowakたちは,これはケプラー以降の地動説を念頭においていると反論するだろうが.