「道徳性の起源」

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること


本書はオランダ出身の著名な霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールによる霊長類特にボノボに見られる向社会性を解説し,そしてそこからヒトの道徳と宗教についての思いを語るという,科学書であり,かつ大家のエッセイのような趣もある本である.原題は「The Bonobo and the Athiest: In Search of Humanism Among the Primates」.邦題は本書の内容の一部を示しているだけでややミスリーディングな印象である.


ドゥ・ヴァールは大変著名なチンパンジーボノボの研究者であり,その生態や行動を詳しく紹介する「政治をするサル」や「ボノボ」などの著作は大変迫力があり面白かった.片方で,同じくチンパンジーボノボの仲直りや共感をテーマにした著作もいくつか出している.これらの本は,様々な観察例は面白いものの,理論的な部分では行動生態学への初歩的な誤解が目に付き,なかなか読むのがつらいところもあるものだった.本書はそれの延長線上にある著作になり,同じ頃邦訳出版されたボームの「モラルの起源」と書店で平積みで並べられていたのだが,正直やや躊躇していた.そこに先日日経の書評で長谷川眞理子先生から「深い本だ」と評されているのを見かけ,これは「絶賛はできないが読む価値はある」ということだと考えて手にとった次第である.


第1章はヒエロニムス・ボスの絵画「快楽の園」*1から始まる.その絵画のテーマをめぐる考察,ダライ・ラマとの会談,研究してきたチンパンジーボノボの思い出,宗教と新無神論自然主義的誤謬などが自由に語られて本書のテーマを浮かび上がらせている.なかなか大家の風格を見せる滑り出しだ.


第2章は利他性の進化を巡る議論について.チンパンジーボノボが見せる思いやりのエピソードを振ってから利他性の進化を巡る進化生物学の論争を取り上げる.ドゥ・ヴァールの主張は「遺伝子からだけ考えるから利他性が『間違い』だというおかしな議論になる.情動などのメカニズムから考えることが重要だ」というものだが,ここで私が恐れていたとおり,ドゥ・ヴァールが引き続きナイーブに誤解し続けていることが明らかになる.彼は包括適応度理論やドーキンスの利己的遺伝子からの解説が「生物は利己的に進化するはずだ」と主張していると完璧に誤解しているのだ.そしてこれらの生物学者はヒトの利他性について「人間の思いやりは見せかけであり,道徳性は忌まわしい傾向が沸き立つ大釜を覆う薄いベニヤ板のようなものだ」と主張していると決めつけ,これを「ベニヤ説」と呼んで批判している.そして「私は類人猿の仲直りや共感を主張して30年間批判され続けてきたが,最近私の報告が認められるようになりベニヤ説は消えてしまった」とか「利他行動は説明しがたい犠牲であるという見方から,本来報酬が付き物の哺乳動物による愛情に満ちた世話に根ざすものであるという現代の概念への転換が起こった」などと書いているが,要するに自分が何をどう誤解していたかについて未だに全く気づいていないということなのだろう.もちろん包括適応度理論もドーキンスの利己的遺伝子の説明も,「生物が何故利他的に行動するように進化しうるのか」を解説したものなのだ.この章は所々の類人猿のエピソードは面白いものの,私の恐れていたとおりの誤解が顕現しており読むのがややつらい章になっている.


第3章はボノボについて.系統樹におけるボノボの位置づけ,その社会の特徴(メス優位,あらゆることにセックスを絡めた取引が付随する)が解説される.ここはさすがに第一人者の手によるもので大変充実していて面白い.アメリカの政治事情などにも言及があり,ボノボの社会のメス優位やフリーセックスが(これまたナイーブな自然主義的誤謬の上で)リベラルの好んで取り上げるところになり,保守は躍起になってそれを矮小化させようとするあたりの記述は笑えるところだ.本書のテーマとの関連では,子供に危害を加えようとした若オスが群全体から罰されるエピソードも紹介され,ボノボの社会にもルールや暴力があることも強調されている.


第4章は新無神論について.ドゥ・ヴァールがドーキンスの主張を嫌っていることは有名だが,それは新無神論にも及んでいるようで,ここでは新無神論を批判している.主に「神の不在をいくら主張しても証明はできず相手を納得させられるはずはない」「宗教を戦闘的に否定してみて何のメリットがあるのか」あたりがドゥ・ヴァールの主張だが,このあたりはやや硬直的な姿勢を感じる.彼の言うような戦闘的な新無神論者も一部いるのかもしれないが,基本的な新無神論者の主張は「信仰がないことをもって差別されるべきではない」「宗教者に倫理的な議論における特権を与えるべきではない」「子供の洗脳を認めるべきではない」あたりで,そしてその理由付けとして「神の存在は証明できない.存在可能性は非常に低い」「道徳は宗教由来ではない.無神論者だから無道徳になるわけではない」とするものだ.そして最後の主張はドゥ・ヴァールが本書でまさに主張しているものと同じだ.
またドゥ・ヴァールはここで「科学と宗教は信念体系として共通しており,違いは真実に迫る方法があるという小さな部分のみである」ともコメントしている.「同じである」とする極端な文化相対主義者とは異なるが,「小さな」とは恐れ入る.それは人類の幸福に大きく貢献する「巨大な」違いなのではないだろうか.さらにグールドの主張を好意的に紹介し,文脈的には関係ないところでソーンヒルの「レイプの自然史」をことさら取り上げて「なぜなに物語り」だと批判している.行動生態学を理解できていないということなのだが,いかにも「坊主憎けりゃ」みたいな書きぶりで,ドーキンス嫌いが高じてやや目が曇っているのではないかという印象を禁じ得ない部分だ.
なおカトリックのオランダ南部出身者らしく*2,「憎むべきは宗教ではなく教条主義なのであり,教条主義的な信仰からの転向者は教条主義的な無神論者になるのではないか」と英米プロテスタントを揶揄したようなコメントしているところもあって,そこはちょっと面白い.


第5章はドゥ・ヴァールの専門分野に戻って霊長類の協調性について.ここは充実していて面白い.特にチンパンジーが他個体の利益に配慮するかどうかについて,それまでの否定的な報告に疑念を抱き,手順を磨き抜いてそれを覆す実験に成功する*3部分は読んでいて楽しい.そのほか様々な他個体への思いやりを示す印象的なエピソードが紹介されていて説得的だ.
続いて共感のメカニズムについての自説が解説されている.これは現在リサーチが進みつつあるエリアで<情動伝染→慰め→視点取得>という多層構造仮説が解説されている.提唱者自身の解説として価値があるところだ.


第6章は道徳について.ここはチンパンジーボノボのエピソードを織り交ぜながらのエッセイ風の考察になっている.チンパンジーボノボの社会にも秩序やルールがある.それはどのように可能になるのか.
ドゥ・ヴァールはそのようなルールを「一対一の道徳」と「コミュニティへの配慮」に区別して考察する.「一対一の道徳」は共感と良好な関係を求める願望,そして上位者が下す罰へのおそれによって内面化される.そこから考察は自由に進み,友情,「である」と「べき」,義務論的道徳と情動的道徳,宗教と社会の罰の機能,ボスの絵画の示唆,カントの議論,ハイトの説明などが語られている.
「コミュニティへの配慮」はチンパンジーボノボにその萌芽は見られるもの,ヒトの独壇場だ.ここでも考察はエッセイ風に進み,啓発された利己主義,評判,公平感,黄金律と功利主義の問題点*4などを取り扱っている.ややぐずぐずな議論だがエッセイとしては味があるということだろう.


第7章は宗教について.チンパンジーボノボに見られる死の認識,儀式の萌芽のエピソードを振ってから宗教を巡るエッセイになる.ヒトの迷信深さ,迷信が与える夢と希望の問題,将来への想像力と恐れ,宗教の利点*5,ヒトの本性としての宗教への傾倒傾向(あるいは宗教モジュール),そしてそれと比較しての科学の脆弱性,目の効果と監視する神,北欧に見られる非宗教化の試みなどが取り上げられている.そして非宗教化は長期的に望ましいが,性急に進めると現在あるメリットを失いかねないし,これまで歴史的に弾圧は混乱を生んできたことが指摘され最終章につながる.


第8章は総括章.これまでも所々で登場したボスの「快楽の園」がもう一度登場し,道徳はボトムアップでヒトに備わっているものであること,その中核は哺乳類,霊長類の歴史に根ざした部分であること,さらにヒト特有に進んだ部分もあることをまず振り返る.そして(もう一度利己的遺伝子視点の考え方の誤解を繰り返した後)非宗教化は望ましいが性急に進めるのは得策ではないこと,特にこれまで宗教が果たしてきた役割をどうするかの配慮が望ましいこと,その候補はヒューマニズムであることを主張して本書を終えている.


私の本書の評価は以下の通りだ.やや晦渋なエッセイが好きな人には注意書き付きで推薦できる本だということになろう.

  • やはり相変わらずの行動生態学の誤解が無惨だ.何故一部の人にはドーキンスの利己的遺伝子視点からの解説を理解することがこれほど困難なのだろう.特に本書においてはドーキンス嫌いが新無神論への極端な理解につながっているように思われ本当に残念だ.
  • チンパンジーボノボの様々な実験結果,印象的なエピソード,共感の仕組みの自説解説あたりのところは充実している.第一人者による著作の名に恥じない出来だ.
  • 道徳や宗教についての部分はエッセイとして読むべきものだろう.広い話題が取り上げられていて啓発的な部分も多いし,通奏低音としてのヒエロニムス・ボスの絵画がちょっとスノッブな趣を加味している.グールド風のインテレクチュアルで晦渋風味なエッセイとしては一級品だと思う.

関連書籍


原書

The Bonobo and the Atheist: In Search of Humanism Among the Primates

The Bonobo and the Atheist: In Search of Humanism Among the Primates


ドゥ・ヴァールの本.この2冊は文句なしに面白い.

政治をするサル―チンパンジーの権力と性 (平凡社ライブラリー)

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ヒトに最も近い類人猿ボノボ

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協調性や利他性について深入りした本.

仲直り戦術―霊長類は平和な暮らしをどのように実現しているか

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利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか

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サルとすし職人―「文化」と動物の行動学

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あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源

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共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること

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突然文脈から飛び出して批判された「レイプの自然史」.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060805#1154778399

A Natural History of Rape: Biological Bases of Sexual Coercion (Bradford Books)

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同邦訳

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす



 

*1:日本人読者にはあまりなじみのない絵画かもしれない(私もよく知らなかった).本書では口絵カラー写真で紹介されている.

*2:オランダでは教条的なプロテスタントの北部地域と世俗的で人情の機微に通じたカトリックの南部地域が隣接している

*3:自分だけに報酬があるボタンと自分と隣の個体の両方の報酬があるボタンを押す頻度は1:2になる

*4:黄金律の問題点は様々な嗜好の人間がいること,功利主義の問題点はあまりにもヒトの本性とかけ離れた結論が出ることだと指摘している.功利主義のチャンピオンのピーター・シンガーが結局自分の母親については特別扱いしてしまったエピソードも紹介されていてちょっと面白い

*5:ここではやはりというべきかDSウィルソンの宗教のグループ淘汰説が好意的に紹介されている.進化理論にぐずぐずな学者にとってDSウィルソンの説明は抵抗できないぐらい魅力的なようだ