「ヒトはどのように進化してきたか」

 
本書は米国で版を重ねている自然人類学の教科書「How Humans Evolved」第5版(2009)の邦訳だ.著者はリチャーソンと一緒に文化と遺伝子の二重承継説を提唱していることで有名なロバート・ボイドと霊長類のリサーチが専門のジョーン・シルク.2011年の邦訳で,私は出版後すぐに購入していたのだが,巨大な教科書だということもあり積ん読状態になっていた.そして先日デイビス,クレブス,ウエストの行動生態学の教科書を読み切った勢いで,ようやくエイやっと読んでみたものだ.邦訳後もあちらでは版を重ね,2014年の秋には第7版が出されているようだ.

本書の特徴は著述範囲が非常に広いことだ.自然人類学の教科書でありながら,量的形質の進化,進化史,性淘汰,親子コンフリクトまで扱われていて,前半は事実上「進化学」の教科書になっている.また後半部分も霊長類行動生態学やヒトの進化心理学まで扱われており,これ1冊でかなりのことがわかるようになっている.巨大なのもやむをえないところだろう.全体では進化,霊長類の生態と行動,人類史,進化と現代人の4部構成になっている.

第1部 どのように進化は働くのか

ここはよくできた学部生向けの進化の概説になっている.

まず進化.ダーウィンによる自然淘汰の考え方.グラント夫妻のガラパゴスフィンチのリサーチを例に取ったその働き方,種の保存のためという誤謬,眼の進化を例に取った累積的な進化,進化速度が通常考えられているより遙かに速いことがまず解説される.次に遺伝.メンデルの発見,染色体,連鎖と組み替え,分子遺伝学とDNA,タンパク質のコードと翻訳,調節配列まで解説してから,進化の現代的総合の解説に進む.集団遺伝学の初歩と変異の維持.行動にかかる自然淘汰と遺伝的決定論の誤り,環境と遺伝の相互作用(水路付け的な性質から可塑的な性質までの連続体として説明している),淘汰の制約(相関形質,不平衡,浮動,局所適応,その他物理的制約)が簡単に解説されている.

最後に種分化と系統発生が取り上げられている.この後,霊長類から人類の進化史を取り扱う際に特に重要だと思われるということだろう.著者たちは「種は現実に存在する生物学的区分だ」という立場から生物学的種の概念,生態学的種の概念(生殖隔離より自然淘汰の役割を強調する概念)を解説し,その間の論争も紹介している.やや後者に好意的なようだ.その後異所的種分化,同所的種分化,系統学の初歩,分類学,分岐学論争とその意味を解説している.著者たちにも分岐学論争は影を落としているようで,記述の端々にその跡が見られる.

第2部 霊長類の生態と行動

第2部の特に前半部分はおそらくシルクの担当部分ということだろう.霊長類という動物グループの解説と配偶システムが扱われている.

最初に霊長類を研究する理由が整理されている.霊長類学者はよく尋ねられるということなのだろう.私たちに近縁であり,多様な分類群であることが理由として挙げられている.後者はそれにより,系統を考慮に入れた比較法を用いて進化の働きを調べることができるということだが,通常はあまり強調されないところなのでまさにシルクの正直な思いなのだろう.以下のような記述はまさに本音ということだろう.

このような多様性こそが,霊長類研究の本質的な面白さである.霊長類を研究する者は,自分の研究対象の生活の面白さに魅せられて,困難な野外調査,常に不足している調査資金を確保するための胃の痛くなるような思い,どうしてこんな変な職業を選んでしまったのかという家族や友人の困惑に耐えている.

ここから本格的な霊長類の解説になる.まず派生形質による定義を行い,親指の対向性,運動の後肢優位,両眼立体視,知性の発達などが特徴になる.その後生物地理,分類,生態と続く.栄養要求,食性と消化管,活動パターン,捕食者,社会性(霊長類学の論争の一つは,群の形成の要因は捕食回避なのか採食競合なのかというものだそうだ)が解説され,最後は特に大型類人猿の絶滅危惧と保全が扱われている.


後半にはいり,個別の行動生態的な論点が解説される.まず配偶システムが詳しく論じられている.まず行動生態学の議論としての一般的な配偶戦略の概説があり,それを霊長類に当てはめる.メスによる大きな子育て投資と群れ生活と順位制がポイントになる.また性淘汰についてもまず行動生態学の概説を行ってから霊長類のオスに当てはめて,オス間競争と順位制,群れの乗っ取りと子殺しが解説されている.

さらに利他行動の進化が概説されていて,グループ淘汰の誤謬*1,血縁淘汰が解説されてから,霊長類に当てはめて,血縁認識の文脈利用,行動に見られる血縁による偏りなどが解説されている.血縁淘汰においては最後にマーモセットにおけるキメラ個体の問題が取り上げられているのが面白い.互恵利他については概説の跡,霊長類においてこれが見られるかということについての様々な実験,それも基づく論争が紹介されている.著者は「ヒト以外の霊長類において互恵的利他が十分に立証された例は少ない.それを確かめるのはコストやメリットの定量化が難しくて困難であろう」という立場のようだ.このあたりの行動生態学のトピックの扱い方はこの教科書の工夫の一つということだろう.

配偶システムに続いて生活史と知性の進化が扱われる.冒頭で長寿命と大きな脳は相関しているが,因果関係の向きは脳の大きさから寿命に向かっていてその逆ではないと考えるべき理由があると主張している.この後,生活史理論をトレードオフの観点から解説しているので,この趣旨はややわかりにくいが.著者たちはまず何らかの淘汰圧によって脳が増大し,それが長寿命化を促したと考えているということだろう.しかし長寿命自体はそれだけでは適応度を上げないということを明確に解説した方がわかりやすかっただろう.

脳の増大の淘汰圧については社会的知性仮説,果実食者の生態要因説(時間的空間的にむらのある食料の採集という課題),食物の抽出という生態要因説(殻を割る,根を掘り出す,虫を捕るなど),新規問題の解決に対する行動の柔軟性説などを紹介し,比較分析によるとこれらすべての要因が効いているのではないかとまとめている.なお我々に近縁な大型類人猿については社会知性仮説は成り立たないと特に指摘している*2.ここからは特に社会的知性に関する具体的な知見を詳しく解説している.ここは仮に唯一の淘汰圧でなくとも興味の中心ということなのだろう.確かにサルたちはお互いの血縁,順位に気を配るのだ.心の理論についての現在の論争状況の整理も丁寧だ.チンパンジーは協力的な場面でははっきりしないが競争的な場面では心の理論を持っているように振る舞うことが解説されている.

第3部 人類の系統の歴史

通常の人類史はチンパンジーとの分岐から始めるが,本書は古生代の獣弓類から始めている.中生代の三畳紀には真の哺乳類が現れ,恐竜絶滅後の新生代の大放散により霊長類が現れる.このときのツパイのような動物からどのような淘汰圧が現在の霊長類を作ったかを考察することが重要だという趣旨だ.大陸移動,気候変動,放射年代決定法を概説して後,初期の霊長類化石が解説される.このあたりはあまり私に知識がないところなので楽しく読み進めることができた.最初期霊長類化石としてプレシアダビス,始新世にアダビスとオモミス,漸新世に最初の真猿が現れる.このあたりからさまざまな化石の特徴,当時の生態条件,系統樹が詳しく取り上げられている.なお新世界ザルの起源については後期漸新世の大西洋横断による分散説に懐疑的で,それより大西洋の狭かった昔に横断し,化石が見つかっていないのではないかと示唆している.そして中新世以降に懸垂姿勢で移動する類人猿(ヒト上科)の化石が出始める.中期中新世にヒト上科の新しい放散があってユーラシアの広大な地域に類人猿は広がったが,なお現世類人猿の系統についてはオランウータンをのぞいて進化史を示す連続した化石は得られていないということらしい.*3

続いてチンパンジーとの分岐以降が扱われる.オロリン,サヘラントロプス,アルディピテクスを簡単に紹介した後,知見の積み重なっているアウストラロピテクスについて詳しく解説している.ロバストゥスとボイセイの関係,ハビリスとルドルフエンフィスあたりのところは両論併記の扱いとなっている.その後二足歩行,狩猟,道具などが議論されている.

次に考古学的な解説に移り,オルドワンと狩猟・肉食の関係が強調されている.狩猟の強調は著者たちのかなり強い主張であって,腐肉あさりは実は狩猟と同じぐらい困難で危険だったはずだとも指摘している.

そして著者たちはエルガスターから真のホモ属として扱う.化石形態,アシューリアン,その日常的な肉食の証拠,アフリカ外への拡散,東アジアのエレクトゥスが解説される.中期更新世のハイデルベルゲンシスについては大型の獲物をねらった狩猟の証拠が強調される.ルヴァロア技法の説明の後フローレシエンシスにも簡単に触れ,その後のネアンデルタールはムステリアンや大型動物の狩猟などさすがに詳しい.この第5版は2009年のものなので残念ながらデニソワ人にはふれられていない.人類起源論争を簡単に総括してからサピエンスに入る.

サピエンス以降については化石の特徴,遺伝学的な特徴(チンパンジーとの差,自然淘汰の跡など),現代的行動の考古学的証拠(ソリュートリアン,オーリナシアンなどの後期旧石器が詳説されている),遺伝子系統樹とアフリカ起源などの知見が次々に解説され,現代的行動の起源問題が議論されている.アフリカの中石器時代にも後期旧石器に豊富にみられる現代的行動パターンがみられるが,萌芽的であり少ない.本書ではこの解釈についても両論併記としている.

第4部 進化と現代人

第4部は現在のヒトのついての進化的視点からの解説ということになる.最初にヒトの多様性の解説がある.遺伝的変異,環境による変異,集団内変異,集団間変異を簡単に解説してから単一遺伝子による変異(淘汰と多型の維持,乳糖耐性などの近年の進化,移動と人口拡大の影響等)と多数の遺伝子による量的遺伝による連続形質(行動遺伝学,遺伝と環境の相互作用の詳しい解説等)を分けて解説し,さらに誤解されやすいセンシティブなトピックとして「人種」の問題を扱っている.教科書として用いるには重要な部分ということだろう.

次にヒトの行動を進化的にみることについて.まず遺伝的決定論の誤解について解説してから行動生態学の基礎を説明し,進化心理学のかなり丁寧な解説がある.EEAの説明,近親交配の回避を例に用いた具体的な心理メカニズムが行動を決めることについての説明,一般的認知能力からは説明できない言語能力の問題を扱い,オーソドックスな解説になっている.ギンタスなどの極端な誤解に基づく進化心理学批判者がよく「遺伝子と文化の二重承継説」を代替的な説明として持ち出しているが,そもそもの提唱者の一人であるボイドがきちんと進化心理学を扱っているのはうれしいところだ.

そして著者の一人ボイドのリサーチエリア,文化の問題が扱われる.文化を定義し,累積的な文化進化が生じるためには社会的促進だけでは難しく,観察学習が重要であることをまず示し,霊長類の観察学習についての論争を概説する*4.またこのような観察学習による文化は特殊な心理メカニズムを必要とし,それはヒトの進化適応であること,累積的な文化自体がヒトの進化にとっての新しいトレードオフを作り出していること,さらにこのような心理メカニズムによってヒトにとって非適応的な信念が広まりうること,それはミーム論からも説明できること*5,いずれにせよ(特に文化に関連した)ヒトの行動の進化を説明するには文化進化を前提にした複雑な過程を進化理論に付け加える必要があると解説されている.いずれも納得感のある説明で,ギンタスやリチャーソンのようなグループ淘汰を持ち出す極端な主張はなく,ボイドの中庸ぶりがわかる.ミーム論についても好意的なのが印象的だ.

最後はヒトの配偶選択と育児について.まず進化心理学の初期の成功した分野である「ヒトの配偶者選択」について解説がある.有名なダーウィンの結婚の是非の検討メモのエピソードを前振りにした後,配偶者選択の性差とユニバーサリティについてのリサーチが進化理論からの予測を検証するという形で見事に成功していることが解説されている.さらに配偶システムについての人間行動生態学のリサーチもいくつか紹介されている.一妻多夫社会についての詳しい説明は興味深い.最後に子育てに関して生活史戦略,親子間コンフリクトの観点からの解説がある.ここは進化心理学的なリサーチと人間行動生態学のリサーチの両方がバランスよく取り上げられている.著者の一人であるシルクのオセアニアと米国の養子縁組制度の比較リサーチの結果*6が詳しく紹介されていて面白い.


というわけで本書は進化の基礎講座から,霊長類の行動生態,霊長類とヒトの進化史,そして進化心理学までを扱うというかなり意欲的な教科書だ.中庸を得たスタンスできちんと解説されるという教科書としての出来上がりがすばらしい上にちょっと膨らませれば学部生向けに2年間連続して講義していけるぐらいのボリューム感がある.版を重ねているのもある意味当然だろう.そして私にとっても知っているところと知らないところがあって,体系的に通読して楽しい本だった.継続して改訂版を訳して出版していくのは難しいだろうが,何版かに一度は訳され続けてほしい本だ.


関連書籍


原書第7版

How Humans Evolved

How Humans Evolved

ボイドとリチャーソンの本

Not By Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution

Not By Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution

新世界ザルの起源についてはこの本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20140713

*1:遺伝子と文化の二重承継説をボイドと一緒に唱えているリチャーソンが極めつけのナイーブグループ淘汰の誤謬に陥っていることを考えるとこの記述は興味深い.ボイドはリチャーソンやギンタスに対してどう思っているのだろうか?

*2:確かにオランウータンは大きな群れを作らないが知性は高い

*3:なお中期中新世までは類人猿はサル類より優勢であったが,後期中新世には逆転する.これについて本書は「理由はわかっていないが,乾燥した条件に適応できなかった多くの類人猿が絶滅したためではないか」としている.これについては葉食を可能にしたサル類の消化能力に起因するという説明を昔読んだことがあったのだが,現在では否定されているのだろうか,

*4:チンパンジーのアリ釣りの技法の個体群間の違いが,実はアリの性質の違いに起因するのかもしれないなど興味深い部分も詳しく解説されている.結論としては少なくとも類人猿には観察学習がみられるが,ヒトとの間には大きなギャップがあるとまとめている

*5:ボイドはここで,前者の非適応的信念は,信じやすい心が与える大きなメリットと副作用のデメリットを平均すればネットでプラスになり,そのような心を作る遺伝子にメリットを与えるが,ミーム論的に広まる非適応的信念の場合にはそうとは限らないことについてはふれていない.やや不満の残る説明ぶりだ

*6:オセアニアの制度は血縁淘汰的な予測にマッチしているが,米国はそうなっていない.理由についてはよくわかっていないとしている.なかなか抑制した説明ぶりが教科書にふさわしい